Pretty Poison Pandemic | ナノ





明確に反抗の意志を見せたヒズミを鎮圧しようと、黒スーツの男たち──協会が誇るB級ヒーローである“フブキ組”のメンバーたちが各々の武器を構えるより先に、ヒズミは攻撃を終了していた。予め体内にチャージしていた電流を矢のように拡散し、無作為に放出する──それらは空気中を音速で奔り、戦闘態勢に入ろうとしていた全員をいともあっさり貫いた。

もう、そこに動ける者はない。
決着は刹那だった。
勝敗は一目瞭然だった。

まさかここまでとは──と、ただ唯一ヒズミの電撃から運良く逃れたヴァルゴは額から冷汗を滲ませる。腰が抜けてしまったようで、無様に尻餅をついてはいるが、戦意を喪失せず恨みの篭もった目で睨み続けているのはさすがヒーロー協会の一幹部といえた。そんな彼にヒズミはつかつかと歩み寄り、右腕にスパークの渦を纏わせる。

「貴様──自分がなにをしているかわかっているのか!? 我々に……ヒーロー協会に楯突くなど──」
「うるせーよ、おっさん。ハゲろ」

聞く耳も持たず、ヒズミはヴァルゴの脳天にチョップをお見舞いした。ごっすん、と鈍い音。ヴァルゴはその一発で見事に沈み、地面と熱い抱擁を交わす羽目になった。非戦闘員の彼には重すぎる一撃だったようだ。

やれやれ──とヒズミは一暴れの疲れを解すように肩を回し、それから“送迎”のための黒塗りの車へ目を移した。誰かが加勢に降りてくるでもなく、かといってヒズミの傍若無人に逃げるでもなく、不自然な沈黙を守ったままそこでアイドリングを続けていた、縦長の高級セダンの──助手席側の窓が、静かに開いた。

そこから枠に肘をついて、身を乗り出してきたのは──運転手だった。ヒズミが伸した連中と同じような、なんの変哲もないスーツを着ているが、明らかに雰囲気が違う。

かけていたサングラスを頭の上にずらし、ナイフで切り上げたみたいな吊り目で、ウインクしてみせる。気障ったらしい仕種だったが、銀幕の映画俳優のように様になっていた。とにもかくにも、なんとも男前な人物だった。

「よォ、お前がヒズミか。どーもハジメマシテ」
「初めまして。あなたが──教授のご友人で、私の“依頼”を受けて、逃走の手助けをしてくれるっていう“掃除屋”さんですね?」
「ご名答。オレがラプラスのダチで、オマエの“依頼”を受けて、逃走を手助けしてやるっつー“掃除屋”のモンだ」

助手席側のドアが自動的にオープンした。乗れ──ということらしい。ヒズミは躊躇いなくそこに身を滑らせて、しっかりシートベルトも締める。

「ゲッタウェイ・ドライバーなんざ、久々だが──なかなか面白れェ仕事だ。そんで、面白れェってなァ、他のなにより大事なことだ。腕が鳴るぜ。そう思わねェか? 若いの」
「ええ。わかりますよ」

“運転手”──正確には“掃除屋”なる生業を請け負っているらしいその人物は、獰猛そうに舌なめずりなどしながらギアに手をかけた。そのまま走り出そうとして──フロント・ミラーに映ったものに、鋭く目を眇めた。

数台の車が、猛烈な速度でこちらへ向かってくる。その中には装甲車まで紛れている──考えるまでもなく、近くで張っていた協会の者たちだろう。異常事態が発生したのを察知して、総力を挙げてヒズミを制圧しに来たのだ。

「追手か……ンだよ、早すぎだろ、クソ──撒くか」
「潰してきましょうか?」
「……カワイイ顔して、おっとろしィことサラッと言うんだな、オマエ……ますます気に入った、が、そりゃ得策じゃねェな。だらだらしてる間にどんどん新手が来ンぞ。逃げるどころの話じゃなくなっちまう」
「ですねえ。どうしましょうか──」

焦ったふうでもなく、窓から首だけ出して、どんどん迫ってくる無慈悲な車の群れを眺めていたヒズミの視界で──異変は唐突に起きた。

先頭を走っていた、背の低いスポーツカーが──がくん、と急に大きく上下に揺れた。そうかと思うと次の瞬間にはバランスを崩し、右に傾きだした。がりがりがりがりがりっ──と、フロントフェンダーと道路との激しい摩擦で火花を散らしながら、大きく円を描くように流れて横になって──後続の車両たちの行く手を塞ぐ格好になった。

突如として仲間の車体がバリケードと化し、一団は慌ててブレーキを踏んだようだったが、間に合っていなかった。そこそこ規模の大きい玉突き事故が連続発生して、黒い煙がもうもうと周囲に立ち込め始める。ヒズミは唖然として、成り行きを見守るしかなかった。

「な、なにが起きたんですかね……」
「撃たれたんだ」
「へ? 撃たれた……?」
「ちィとだけだが、弾筋が見えた。本部のビルの上だ。そっから撃ったんだ──いっちゃん前にいた車のタイヤをな。装甲車のタイヤは、見たとこありゃラン・フラットかコンバットだからな、パンクしても走れる仕組みになってる──だから先頭の魁を潰した。つってもあンだけ固まって、あンだけ恐ろしい速度で走ってる軍団のうちの一台の前輪なんざ、狙って当たるもんじゃねェ。オマエ、優秀なスナイパーの知り合いでもいンのか?」
「……優秀なスナイパー……」

針の穴を通すような狙撃。
およそ人間離れした射撃。

そんな達人級の技術を持ち得るのは──

「心当たりないですね」
「そうか……」
「はい。身内に銃火器を使った戦いが得意な、ガン・シューティングの名手として名高いA級ヒーローの女子高生がいますけれど、そんでもって彼女は私が投獄されそうになってた事情を知ってましたけれど──心当たり、ないですね」
「……オマエ、いい性格してらァ」
「こういう女はお嫌いですか?」
「いンや。オレは女の子にゃ、優しくすンのが信条だ。どんなに食えねェ、化け狸みてェなヤツでもな──さっきラプラスを一発ヤッたのも、ありゃ“教授もターゲットに攻撃されている。ターゲットと教授はグルじゃなかった。我々と同じ被害者だ”って協会サイドに思わせるためのオマエの配慮だろ。あそこでラプラスだけ無傷じゃあ、逃走の幇助を疑われるのは目に見えてッからなァ」
「買い被りですよ。ここぞとばかりに、日頃の恨みをぶつけただけです。検査のときにおっぱい揉みしだかれたことありますし」
「そりゃア検査に必要なことだったンじゃ……いや、ラプラスなら趣味でそれくらいやりかねねェな……ご愁傷サン」
「いいえ。済んだことですから」
「まあ、そんな根に持つタイプの厄介な女でも、オレは甘やかすわけだが。もっとも──オマエの“依頼”の、内容が内容だ。あんまし加減はしてやれねェかもな」
「望むところです。好きですよ、激しいの」
「最近の若いのはマセてやがらァ……そンじゃあ、オレも遠慮はいらねェな」

“運転手”は今度こそギアを入れて、セダンを発進させた。後ろから静止と降伏を勧告する怒声が聞こえたが、気にも留めない。

ここA市はまだ記憶に新しい宇宙海賊による総攻撃の爪痕が残っており、完全に復旧していない──ある程度の交通網は確保されているものの、物資や人員の運輸に必要な最低限のラインしか構築されていないため、その少ないルートにすべて検問を敷かれてしまっては脱出の術がなくなってしまう。一刻の猶予も許されないのだ。

堆く積もった瓦礫の山の間を縫うように伸びる車道を飛ばしながら、“運転手”は改まった調子でヒズミに問いかける。

「ここいらで一丁、クライアントであるオマエに確認させてもらおうか。オレが受けた“依頼”はふたつ──ひとつは“オマエをヒーロー協会から逃がして、ほとぼりが冷めるまで生かす”こと。合ってるか?」
「間違いありません」
「そんで、もうひとつは──“ちょっと特殊な能力があるだけで、別に戦い慣れしてるわけでもねェ弱っちいトーシロのオマエが、これから先どんな環境でも生きていけるように鍛える”ことだ」
「……ええ。そうです」
「いいのか? 自分で言うのもアレだがよ、オレの特訓は厳しいぜ」
「覚悟はできてますよ。立ち止まるわけにはいかないんです。僭越ながら、いろんな人の涙を背負ってるもんで」

たとえば──片想いを伝えもせずに諦めて、恋心を誰にも打ち明けず己の内に押し込めて秘め続けてしまったことを悔いた女性。

たとえば──かつて憧れたスーパーヒーローの裏切りに直面し、先の見えない闇に閉ざされた茨道に放り出されてしまった青年。

たとえば──
一度はすべてを失い、復讐心という昏い感情に病んで囚われながら、それでも誰かを愛したいと人知れず藻掻いていた愛しい彼。

黙って姿を晦まして、置き去りにする形になってしまったが。
いつか必ず、また会って声を聞きたい、と心から思う。

「彼らの悲しみは私が預かりました。彼らがそれを乗り越えて、自分で抱えられるようになるまでは、私が大事に持っておかないといけないんです。正直クソほど重いですけど、今にも潰れてしまいそうですけど、でも絶対に落としたくない。だから──私は、もっともっと強くなりたい」
「ほォ、詩人だな」
「ちょっと臭かったですかね」
「いや──悪くねェよ」

ひゅう、と茶化すように口笛を吹いて、“運転手”は更に速度を上げた。崩壊した廃墟の街の中を、乾いた土煙を巻き上げながら走っていく彼らが、果たしてどこを目指しているのか──知る者は、どこにもいない。



屋上に続くドアを開けると、目の前に青空が広がった。遮るものの一切ない、広い空間。控えめに頬を撫でる風が心地よい。左手にコンビニの袋を提げたサイタマはそこに一歩のそりと踏み出して、辺りをきょろきょろ見回して──落下防止の柵も金網もなにもない縁に腰かけて、巨大なスナイパーライフルを太腿に挟んで抱きしめる格好で景色を眺めていたシキミを発見するのに、大した時間は要さなかった。

「おーい、シキミー」
「……先生!」

サイタマの来訪に気がついたシキミが、ぱあっ、と顔を輝かせる。ちくしょうなんだよ嬉しそうにしやがってやっぱりコイツかわいいわ、とは思っても口には出さない。なるべく平静を装いながら、サイタマはシキミの隣にすとんと尻を落ち着けた。

「こんなとこ座ってたら危ないだろ」
「すみません。……どうしてここがわかったんです?」
「お前のこと探してたら、上に登っていくの見たっていう人がいたんだよ。ていうかなにやってたんだ、こんなところで。そんな物騒なもんまで持って」
「突然ちょっと狙撃の練習がしたくなりまして」
「はあ?」
「それでライフルこっそり借りて、ここで試射してたら“たまたま”ヒズミさんを連れて行こうとした車のタイヤに当たっちゃいまして。それで“たまたま”その車がスリップして、後ろに続いてた警備車両も“たまたま”巻き込まれちゃいまして。ちょうどこの下なんですけど、見えますか? なかなか大事故ですよ」
「……お前……」
「“たまたま”ですから、先生」
「……………………」

しれっとそう言って、シキミはどこか誇らしげに破顔する。やりたいことをやっただけだ、心の向きに従っただけだ──とでも言いたげだった。そんなシキミの晴れがましさに──思わずサイタマは吹き出してしまう。

「はっ、……あーあ。やっちまったなー、お前」
「やっちゃいましたねー。クビになったらどうしましょう。バイト探さなきゃ」
「そんなことしなくていいよ」
「え? どうしてですか?」
「俺が責任持って、面倒見るから」
「……ありがとうございます」
「おー。とりあえず、プリン食おうぜ」

サイタマは袋をがさごそ漁って、購入してきたばかりの甘味と付属のプラスチックスプーンをシキミに手渡した。そして同じものをもうひとつ取り出した。ちゃっかり自分のぶんも買ってきていたらしい。ぺりぺりと封を開け、生クリームの乗った柔らかいプリンをスプーンですくって、ぱくりと一口。

「甘いなー」
「プリンですから」
「そりゃそうだ」
「ありがとうございます、先生」
「なにが?」
「わざわざ買ってきてもらっちゃって……」
「いーんだよ。好きでやってんだ」
「……………………」
「なに照れてんだよ」
「て、て、照れてるわけでは決してあのその」
「お前わかりやすすぎんだよ。かわいいからいいけど」
「かっかっかわっかわわわわわわわ」
「ところでヒズミどうなったの?」
「あ、えっと、車に乗ってどっか走っていきました」
「え? パンクさせて潰しちまったんじゃなかったの?」
「いや、追手とは別の、待機してた車で……なんか運転手の人と話してたので、もともと逃げるつもりだったんじゃないでしょうか」
「……そういうことか」
「?」
「あいつ言ってたんだよ──ホイホイ行くわけじゃない、簡単にやられるつもりは毛頭ない、って……教授に無理なお願いをしたとも言ってたな。このことだったのか……」

得心いったふうに、何度も頷くサイタマ。

「教授の伝手で、逃走用の足を準備してもらったってことでしょうか」
「そうなんじゃねーかな。多分。詳しいことは、追々聞くとして──とりあえずプリン食おうぜ。そんで、とっとと帰ろう」
「はいっ」
「さっきジェノスから連絡があったってゴスロリのガキ……男の方……ゴーシュだっけ? あいつから取り次がれてよ。すげー取り乱してたから、早いところ帰らねーと面倒なことになりそうだ」
「……ジェノスさんに、どう説明しましょう」
「……それな……」

ヒズミが行方不明になったなんて知れたら、ジェノスは一体どうなるのだろう。そもそもの原因である協会を壊滅させて捜索の旅に出る、なんてことを言い出しかねない。それだけは阻止しよう、と固く心に決めるシキミだった。

「大変そうですね、これから」
「そうだな……でもよ」
「でも?」
「今までだって、ずっと大変だったろ。だから──なんとかなる」
「……なんとかなる……」
「おう。そんな気がするぜ、俺は」

プリンをぺろりと平らげて、サイタマはシキミに向き直り、ふと目を丸くした。

「おい、シキミ、口の端っこ」
「え? えっ? なんですか」
「クリームついてんぞ」
「ええっ! やだ、恥ずかし……」

慌てて口元を拭おうとしたシキミの手首を掴んで、サイタマはぐいっ、とシキミの唇に顔を寄せ──シキミが反応する暇も与えず、ぺろっ、と。

「やっぱり甘いなー、これ」
「……………………………………」
「ごちそーさん」
「……………………………………」
「……おーい? シキミー?」

完璧にフリーズしていた。
完全停止だった。

あのサイタマが罪悪感を覚えるくらいの見事な硬直だった。こんな調子では、おちおち隙も突けやしない──いろいろと自分が仕込んでやらなければならないようだ、とサイタマは禿げ上がった頭を掻いた。

なにを不謹慎なことを、相手は女子高生なのに、という常識的な葛藤は、もう既にサイタマの中にはない。とうにやられてしまっているのだ──奥の奥まで、骨の髄まで。



愛くるしい猛毒の爆発的感染力に侵されている。



国家権力にすら影響を及ぼし得る一大組織から命からがら逃げる羽目になったヒズミの今後も、彼女の悲運に恐らく天地が引っ繰り返りそうなくらい激怒するであろうジェノスの対処も、ひどく頭の痛くなる難題ではあったけれど──なにより今こうして隣にいるシキミのことこそが、サイタマにとっては最難関だった。

めでたく結ばれたわけだけれど。
……少なくとも、サイタマはそう思っているわけだけれど。

これから一体──どうなることやら。

「…………はあ……」

はてさてなんとも──締まらない。
ヒーローの受難は、まだまだ続きそうだった。