Pretty Poison Pandemic | ナノ





通路の前方に、シキミの姿を発見した。こちらに向かって歩いてくるが、がっくり肩を落とし、足元しか見ていないようで、ヒズミに気がついていなかった。あえて声をかけず、ヒズミはその場に立ち止まって反応を窺ってみたが──シキミは彼女のすぐ横をスルーして、そのままとぼとぼと通りすぎてしまった。どうやらかなり落胆しているらしい。先生は自信満々に「もう今はぴんぴんしてる」って言ってたんだけどな──と、ヒズミは首を傾げた。

もしサイタマが出払っている間に、なにかあったのだとしたら。
このまま看過するわけにもいくまい。
なんといったって──敬愛する“師匠”である。
ヒズミはこっそりと、猫のようにしなやかな忍び足でシキミの背後へにじり寄って、

「──わっ!」
「ひゃあ!」

がばっ、と思いっきり抱きついた。シキミから短い、しかし甲高い悲鳴が上がる。

「女子高生ゲットだぜ!」
「え、えっ、あ、おっ、ヒズミさん!?」
「たとえ火の中! 水の中! 草の中! 森の中! 土の中! 雲の中! あの子のスカートの中!」
「きゃーっ!」
「おお、ナイス合いの手」

シキミのフレアスカートの中をまさぐろうとしたヒズミはそこでセクハラの手を止めて、やっとシキミを解放した。シキミは驚きが収まらないのか、胸に手を当ててぜいぜいと荒い息をしている。長い睫毛に縁取られた目を限界まで見開いて、ヒズミを愕然とした眼差しでしげしげ眺めている。

「お、っふ、ヒズミさん、どうしてここに」
「教授の研究室に向かう途中だったのだ」
「そ……そうですか……。……あ、もう首は大丈夫なんですか?」
「なかなかなかなか大変だけど平気。まだ痛いけど。一晩ジェノスくんといちゃいちゃしてたら治った」
「……本部の壁ぶち壊して抜け出したっていうのは知ってましたけど、ジェノスさんに会いに行ってたんですね」
「そゆこと。愛の力は偉大なのだ」
「あ、愛の力……」
「ラブパワーは偉大なのだ」
「ラブパワー……」
「シキミちゃんも先生とアレだったんだろ?」
「…………………………」

ヒズミの容赦なく突っ込んだ追及に耳まで赤くして、シキミはおろおろと腕を振り回した。

「えっ、と、いや、あのっ、違うんです、いや違くはないんですけどっ、そのっ、ていうかなんで知ってるんですか!」
「さっきたまたま先生と会って聞いた」
「えええええええええ」
「よし今日は赤飯を炊こう! お祝いだ!」
「やめてください!! 本ッ当やめてください!!」
「……冗談だよ」

シキミのものすごい剣幕に押され、ヒズミが引いた。ドン引きだった。

「まあ、元気そうでなによりだよ。かわいい子は笑ってる顔が一番かわいいからな。なにがあってもさ」
「なにがあっても……」
「先生に、ハルピュイアの話した?」
「あたしが覚えてることは、一応すべて……あの、繭の中で産まれた、女の子のことも……でも、まだ正直わからないことがたくさんあって」
「だな。いまだに私も謎だらけだよ。でも協会が目下調査中みたいだし、そのうち判明するだろ」
「大樹の生態なんかはそれでわかるんでしょうけど、でも、それじゃきっと説明のつかないことがあると思うんです。あたしとヒズミさんが飛ばされた、あの花畑とか……」
「ああ……私が思うに、あれは──あの子が見てた“夢”なんだろ」
「あの子の“夢”……ですか?」

言葉尻を鸚鵡返したシキミに、ヒズミは頷く。

「憶測だけどね。まだ産まれる前だったあの子が、母親の腹の中で見てた“夢”なんじゃねーのかな」

まるで天国のようだった。
温かく、優しく、そっと包み込まれながら、

“微温湯の中を揺蕩うような”──

不思議な、安心感。

それは──母親の子宮で眠っていた、胎児の──夢。

「希望に溢れて、未来に心を踊らせてたあの子の心を映した空間だったんだろ。だからあんなにも清浄で、澄み渡ってたんだ……汚れたものなんて一度も見たことがないんだから、当然のことだ。結果としてあの子の、その純粋な願いはどこにも届かなかったけど──あの天国で、今も笑って走り回ってくれてたらいいなって思うよ」

私の自分勝手な同情だけどな──と付け加えて、ヒズミは韜晦するように口を斜めにした。

「あの子の犠牲の上に立って、私たちはこうして生きてるわけだ」
「……そうですね」
「だから、形振り構わず必死に生きてかねーと罰が当たる。だから私はそうする。シキミちゃんも毎日メシ食って、ちゃんと寝て、悪いヤツがいたら平和のために戦って……そんで先生とねんごろねんごろ」
「ね……っねねねんごろってヒズミさんっ!」
「応援してっから。頑張んなよ、い、ろ、い、ろ、と」
「…………〜〜〜っっっ!」
「おやおやシキミちゃん真っ赤ですよ。ミニトマトみたいになってますよ」
「っもおおおお! ヒズミさんのバカっ!」
「女子高生にバカって言われたって、我々の業界ではご褒美ですよ……あーあ、こんな面白そうな新しいオモチャができたのに、しばらく遊べねーんだもんなー。悔しいなー。つまんねーの」

オモチャ呼ばわりされたことよりも、しばらく遊べない──というヒズミの発言にこそ、シキミはどきりとした。現在ヒズミが置かれている状況を思い出したのだ。

「ヒズミさん、そうだ、これから……」
「そ。偉い人たちに連行されて、監獄にドーンだって」
「あたしそんなの嫌です! だって、ヒズミさん、なんにも悪いことしてないのに──」
「シキミちゃんがそう言ってくれるだけで嬉しいよ。まあ、私としても納得は行ってねーし。形振り構わず必死に生きてくって今さっき言っただろ──しおらしく連中のいいようにされる気はこれっぽっちもない」
「えっ……?」

きょとんと目を丸くしたシキミに、ヒズミは口元に立てた人差し指を当ててみせた。しーっ、とそれ以上の言及を制するジェスチャだった。

「とりあえず、先生とジェノスくんのこと、よろしく」
「ヒズミさん……」
「大変だろうけど、毎日おいしいメシ炊いてあげて」
「………………、はいっ」
「いろいろとありがとう。お元気で」
「……やめてください」
「ん?」
「そんなお別れみたいなこと言わないでください。あたしは……あたしは、こんなふうにヒズミさんと離ればなれになっちゃうの、嫌です」
「シキミちゃん……」
「あたし先生と、ヒズミさんと、ジェノスさんと……ずっと一緒にいたいんです……こんなの……こんなのってないです……」
「……私も」

ふっ、とヒズミの表情が一瞬だけ翳る。

「私もシキミちゃんたちと一緒にいたいよ。そのために私が今できることを、今する。断行する。だから──シキミちゃんも」
「──?」
「シキミちゃんがやりたいことのために、やれることをやるといいよ。我慢なんてしなくていい。私はもう優等生でいることを諦めた。最低限の単位だけ取れば卒業はできるわけだし。あとは好き放題やって、後先のことなんか省みないで──暴れてやろうって決めたんだよ」
「あ……暴れる? ですか?」
「例え話だよ。ただの比喩。深読みするところじゃない。というわけで……そろそろタイムリミットかな。ここに到着する頃だ──“お迎え”が。その前に教授と合流しねーと」
「ヒズミさん、あ、あたしは……」

言いかけたシキミの頭をぽんぽんとあやすように撫でて、ヒズミは「そんじゃ、ばいばいきーん」という軽佻浮薄な挨拶だけを残し、颯爽と去っていった。どんどん遠ざかっていくヒズミの背中を、シキミはしばし魂の抜けたような眼差しで見つめていたが──やがてきっと表情を引き締めて、反対方向へ駆け出した。全力のダッシュだった。

なにせ──急がなければならないのだ。
今、やりたいことをやるために。

感情は足の早いナマモノで。
時間は待ってくれない。
賞味期限が切れてしまう前に、手遅れになる前に──

自分の意地だけは、通さねばならない!



自動ドアを潜り、ヒズミは協会本部の外に出た。そこは高級ホテルの出入口前に設えられているような、広いロータリーである。いかにもといった黒塗りの、やけに全長の長い車も停まっている──しかしその周囲に控えているスーツ姿の男たちは、到底ホテルマンには見えない。全員が鋼鉄めいた無表情にサングラスを装着し、後ろで手を組んで立っている。彼らが腰に携えている警棒は軍事運用もされている特殊製のスタン・ロッドで、殺傷能力が極限まで高められているということを、ヒズミは知っていた。

「お待ちしておりました、ヒズミ様」

そのうちの一人が、恭しく一礼してみせた。しかしどうにも、慇懃無礼である──ヒズミの隣に並んでいたベルティーユが一歩前に出て、ヒズミを庇うように立ち塞がった。

「そんな茶番は不要だ、ヴァルゴ氏。面を上げたまえ」
「お気に召されませんでしたか、教授──非礼をお詫びしましょう。では──あまり猶予もないことですし、早速ヒズミ様をこちらへ引き渡していただきたい」
「道中、私も同行させてもらいたいのだが」
「それはできません。あなたの要求には、私情が入っています。そもそもヒズミ様を迎えが来るまで本部の中で自由に歩かせていたこと自体、こちらとしては遺憾なのです。しかしそれも、あなたがこれまでに収めた多大なる功績に免じてのことです。これ以上の駄々は通りません。あなたは世界で最も聡明な女性だ。どうかご理解をいただきたい」

ベルティーユが顔色を変える。ありありと沸騰しかけた憤慨が見て取れる──しかし、当のヒズミは平然としていた。くぁあ、と呑気に欠伸まで零している。そのあまりの緊張感のなさに、見張りの男たちは苛立ちさえ覚えているようだった。

「なに言っても無駄なんじゃねースかね。ここで押し問答してても多分イライラするだけですよ、教授」
「……ヒズミ、君は──」
「私は大丈夫ですから」

きっぱりと言い切って、ヒズミは──ポケットの中に突っ込んでいた両手を外に。

「あとは任せてください」

掌を軽く握って、そして開いて。
十指の先から一気にスパークを迸らせて。

「────ヒズミ、」

白い火花に反応してぎょっと目を剥いたベルティーユの腰に。

「御免っ!」

高圧電流を纏わせた掌底を叩き込んだ。

悲鳴もなく、ベルティーユは糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。完全に意識を失っている──不意の電撃によって、誰の目にも明らかに、気絶して昏倒している。

「──────!?!?!?」

突然のヒズミの行動に、男たちは色めき立った。なぜベルティーユに攻撃を──ヒズミが抵抗すべきは、これから彼女を拘束して監禁しようとしている我々に対してではないのか──と、全員が頭の上に疑問符を浮かべているのが見えるようだった。

混乱の最中に引き摺り込まれている彼らに、ヒズミは──にいっ、と悪魔のように口の端を吊り上げた。

「どいつもこいつも好き勝手なことばっかり言いやがって──ふざけんじゃねーよ。てめーら揃いも揃って私を舐めてんだろ? そうなんだろ? てめーらみたいな雑魚が、マジで私をどうにかできると思ってやがったのか? 人がおとなしくしてりゃ、調子に乗りやがって──大概にしろよ」

空気を裂く騒音と共に、丁寧に整えられた短い白髪を逆立たせ、全身から桁外れの雷電を漲らせながら、ヒズミは高らかに叫ぶ。

「とくと御覧じろ──怪人ビリビリ女の、スーパー大脱走タイムだ!」