Pretty Poison Pandemic | ナノ





「はい、終わったわよ。これでどう?」
「いい感じです。ダサい髪型とおさらばできて、すっきりですよ。ありがとうございます。お忙しいのに、すみませんでした」
「そんな大仕事じゃないわ。焼けて縮れた毛先ちょっと切って揃えて整えただけよ」
「器用なんですね」
「……昔は美容師を目指してたの」
「そうなんですか?」
「専門学校にも通ってたわ。途中で辞めちゃったけど」
「そりゃまた、どうして」
「皮膚が弱かったみたいで、水とか薬剤とかで手荒れがひどくて。向いてなかったのよ」
「うまくいかないもんですねえ」
「本当よね。そんな夢に破れた半端な女が今じゃあ、天下のヒーロー協会で仕事してるっていうんだから……人生ってわかんないわよね」
「そうですねえ」
「ていうか、あんた」
「はい?」
「こんなのんびりしてていいわけ? その……もうすぐ“迎え”が来るんでしょ?」
「ああ──なんか、偉い人たちの命令で牢屋に連れてかれるみたいですね。場合によっては口封じも辞さない、みたいなこと言ってたって教授から聞いてます。死亡フラグ立ちまくりですよ。まったく、ひどい話です」
「……あんた、怖くないの?」
「そりゃ怖いですよ。ちびりそうです」
「全然そんなふうには見えないけど」
「取り繕ってるだけですよ。この数ヶ月いろいろありましたから。ちょっとはポーカーフェイスでかっこつけられるようになったんです」
「そうね……、いろいろ、あったわね」
「ええ。──あなたとも、いろいろありました」
「あんた、あたしのこと、恨んでる?」
「恨んでたりしたら、散髪なんて頼みませんよ」
「……どうして? あたし、あんたにひどいことしたわ」
「私だって、あなたのこと感電させました。後遺症が残ってなくて、本当によかった」
「それはあんたが手加減したからだわ」
「いいえ。私あのときクソほど必死でしたし。そんな余裕ありませんでしたよ。だから御相子です。気にしないで、忘れてください。私も忘れますから」
「……そうね。嫌なことは、忘れてしまうのが、一番いいんだわ……」
「そう思ってるようには聞こえないですけれど」
「……………………」
「繰り返すようで申し訳ないですが、御相子ですから。フラットな立場から、私はあなたにこうして髪を切ってもらうことで、借りをひとつ作りました。だからあなたには、私になんでも要求する権利がある──私にはそれに従う義務がある。あなたは私に言いたいことを言えるし、聞きたいことを訊けるんですよ──アンネマリーさん」
「……あんた、強くなったわね」
「なんか、格闘マンガみたいな台詞ですね」
「いいじゃない。あたし、少年マンガ好きだし。小さい頃から、恋愛しかすることがないみたいな少女マンガには興味なかったもの。強い主人公みたいになりたくって、小学生の頃から道場に入って体を鍛えてた。お陰でそんじょそこらの男には負けたことがなかった。美容師の勉強しながら、戦いの技術も学び続けて……こうして思い返すと、後者の方が向いてたみたいね。協会に入ってすぐテオ様のチームに勧誘されて、直々に稽古つけてもらって……テオ様は厳しかったけど、あの人と一緒に訓練してたときが、一番あたし幸せだったわ」
「そうですか」
「褒めてもらったこともあるわ。あたし手先だけは器用だったから、大型装甲車の操縦技術が優秀だったの。戦車とか戦闘ヘリとかの免許も取ったわ……そのときには、チームの全員で祝賀会を開いてくれた。チェーン店の安い居酒屋だったけど、みんな集まってくれて……あたしを祝ってくれた。嬉しかった。夢には挫折したけど、ヒーロー協会に入って本当によかったって思った」
「いい仲間をお持ちだったんですね」
「うん……とても素敵だったわ。でも、おかしかったのよ。あのときテオ様、べろんべろんだったもの」
「お酒が入ると人格が変わるタイプの男ですか。ろくでもないですね」
「そんなことないわ。別にセクハラとかされたわけじゃないし。あの人すごい酔っぱらって、ずーっと自分の好きな特撮作品の話してた。なんとかマンがどうとか、なんとかレンジャーがどうとか、なんとかっていう怪獣のデザインがいいとか……隣に座ってたせいで延々と絡まれてたニーナ先輩がドン引きしてたの、今でも覚えてる」
「目に浮かぶようです、その光景」
「でも、あたし、そんなテオ様を……かわいいな、って思ったのよ。普段はあんなに厳しくて、ストイックで、平和を守って戦うことしか考えてないふうに見えたのに、実はこんなに明るくてチャーミングな男の人だったんだな、って。なんとかマンのことは全然わからなかったけど、でも、楽しそうに喋るテオ様は見ていて面白かったわ。あたし、そのとき、ときめいちゃったのよ。ずっと聞いていたかった……」
「淡い恋心ってヤツですね」
「でもテオ様は、ニーナ先輩のことが好きだったのよ」
「おや。そうなので?」
「知らないけど、でもそうに決まってるわ。傍から見てたら丸わかりよ。ニーナ先輩は全然、気づいてなかったみたいだけど。でもあたし、それでもよかったわ。ニーナ先輩は気が利くし、頭もいいし、綺麗なひとだし、あたしよりテオ様と歳が近かったから、お似合いだって思ってた。あたしはずっと見守っていようって決めてたのよ」
「台詞が過去形なのには、意味がおありで?」
「……ちょっと後悔してるのよ。こんなことになるなら──こんなふうに別れることになるなら、もっと我儘になればよかった、って……」
「……………………」
「ねえ、あたしはあんたに聞きたいことを訊いていいのよね?」
「なんでも、どうぞ」
「あんたがハルピュイアでテオ様と会ったっていうのは……あんたが最後に、テオ様を目撃した人物だっていうことは、聞いてるわ。……ねえ、テオ様は──テオ様は、まだどこかで生きているんでしょう? どこかに隠れていて、きっとまたひょっこり現れて、世間を大騒がせするんだわ。そうでしょう?」
「いいえ。残念ながら、彼は死にました。私は──それを正真正銘、この目で見ました」
「…………………………」
「ごめんなさい。でも私は、あなたに嘘をつきたくない」
「……あんた、とっても残酷な女だわ」
「よく言われますよ」
「残酷だけど……強くて、かっこいいひとだわ」
「…………………………」
「ありがとう。本当のことを教えてくれて」
「礼には及びませんよ」
「あたし……、あたしは…………、…………ごめんなさい」
「いいんですよ。泣きたいときには、泣いてください」
「……あのね、あたし、テオ様が……テオ様のことが……」
「ええ」
「あの人は確かに、命で償わなきゃいけないくらい悪いことをしたのかも知れないけど、全人類から軽蔑されるような悪党だったのかもしれないけど……、でも、あたしは、あの人のことが……誰よりかっこよくて誰よりかわいかった、テオ様のことが、大好きだったのよ……!」
「ええ」
「大好きだって言えばよかった。愛してるって言えばよかった。あの人ずっとひとりぼっちだったのよ。あたしあの人のこと、なんにもわかってなかった。あの人がどれだけ苦しんでたのか知らなかった。勝手に諦めて、勝手に悲劇のヒロイン気取って、あの人のことなんにもわかってなかった。あたし馬鹿だ! 大好きだって言えばよかったのに! 大好きだって、愛してるって、抱きしめてキスしてって言えばよかったのに!」

悲痛な叫び声を上げて崩れ落ちたアンネマリーの傍らに、ヒズミはそっと膝をついた。肩に腕を回して、横から抱き寄せる。泣きじゃくるアンネマリーに──心に秘めていた、切ない片想いの終わりを迎えたひとりの女性の悲しみに、ずっとずっと、優しく凛と寄り添っていた。



それから数時間後、ヒズミは別室に移動していた。資料などを保管するためのスペースのようで、四方の壁をぐるりと天井に届きそうなサイズの本棚が囲んでいる。中央にはちょっとした作業を行うための、スチール製のデスクが設置されていた。本来セットであるはずの椅子が用意されていないところを見るに、長時間の使用は考慮されていないらしい。仕方なくヒズミは行儀が悪いことを承知でデスクの上に腰かけ、手持ち無沙汰に短くなった白い髪を手櫛で弄んでいる。

そこへ──控えめなノックの音が飛び込んできた。どうぞ、とヒズミが応じると、おそるおそるといったふうに、ゆっくりと扉が開いた。きぃい、と蝶番が細い鳴き声を上げて、そこから現れたのは──ハルピュイアに飲み込まれたシェルター脇の地上で遭遇した、銀の髪に濃緑の瞳を持つ、あの謎の青年だった。

「……やあ、ヒズミ」
「こんにちは。また会えて嬉しいです」

ヒズミの気さくな挨拶に、彼は少し安心したようだった。宿題を忘れて怒られると思っていたけれど、担任の機嫌は悪くなさそうだ、と察した子供みたいな表情だった。後ろ手にドアを閉めて、ひどく緊張しているのか、もじもじしながらヒズミに歩み寄る。

「えっと、首を怪我したって聞いたんだけど。大丈夫なの?」
「もう大丈夫ですよ。ご覧の通り、まだ火傷の痕は残ってますけれど、喋れます」
「そっか、よかった。痛いのは嫌だよね」
「嫌ですね。本当はこうしてお話するのも、傷に障るのでよくはないのですが」
「え? あっ、そ、そうだよね……ごめん、俺、無理させちゃって」
「お気になさらず。あなたに用があると言って呼び出したのは私ですから。謝るのはこちらの方です」
「俺はいいんだ……どうせ、暇だし。ハルピュイアの騒ぎに巻き込まれて、しばらく安静にしてろって言われて仕事も取り上げられちゃってるから。多分あいつら、自分たちの都合のいいように収拾つけたいから、当事者に引っ掻き回されたくないんだ。だから俺とか君とか教授とかに、表に出てほしくないんだぜ」

拗ねたように口を尖らせて、彼はそんなことを言う。

「そういえば、お名前を聞いてませんでしたね」
「俺かい? 俺はアーデルハイド。みんなハイジって呼ぶよ」
「……それは──」
「女性の名前じゃないのか、って訊きたいんだろ? 複雑な事情があるのさ」
「そうですか。では、聞かないでおきましょう。ハイジさん」

ヒズミはデスクから降りて、ハイジを真っすぐに見据える。

「あなたに──テオドールから、伝言を預かっています」
「! ジャスティス・レッドから──俺に?」
「僕はもう、君が憧れたヒーローじゃない。ジャスティス・レッドは七年前に死んだ。それでも、それでも君が、まだ正義の味方になりたいと、正義の味方でいたいと思えるなら、決して僕のようにはなるな。幼稚な正義感に酔い痴れて、己の弱さに直面して打ちのめされて道を踏み外した、僕のようなくだらない男には、絶対にならないでくれ」

一言一句として違わず、ヒズミはテオドールから託された“遺言”をハイジに伝えた。それを聞いてハイジは、全身に電流が走ったように硬直して──それから、堰が切れたように、ぼろぼろと泣き出した。

「……ごめん、俺、ごめんね、ちょっと……」
「いえ。泣きたいときには泣いてください」
「……ジャスティス・レッドは……いや、テオドールくんは、もう……」
「彼の最期は、私が見届けましたよ」
「そっか……彼は、もう……ああ、そっか……」

ぐずぐずと鼻をすすりながら、ハイジは白衣の袖で乱暴に目を擦った。

「ありがとう。ちゃんと伝えてくれて」
「どういたしまして。……それで、あなたとテオドールは、どういう……いや、これをあなたに尋ねるのは野暮ですね。どうか聞かなかったことに」
「……ありがとう」
「とんでもない」
「別に隠してるわけじゃないから、そのうち教授とかに聞いてよ。……でも、君にはもう、時間がないんだよね」
「そうですね。もうすぐ“迎え”が来るみたいなので」
「……君は、殺されてしまうの?」
「そうならないように頑張ります。私はまだ、死にたくない。死ぬわけにはいかない。帰りを待ってくれている人が、たくさんいますから」
「君って、すごく、かっこいいね」
「やめてください。照れちゃいます。……では、私はこれで。連行される前に、改めて教授とも話をしないと……やることが山積みですよ。呼びつけておきながら、用件だけの不躾な面会で、どうもすみませんでした」
「いいんだ。俺は、君に感謝してる」
「そう言っていただけて光栄です。では──息災で」
「うん。君もね、ヒズミ」

ハイジに見送られて、ヒズミは部屋をあとにした。ベルティーユの研究室を目指して、廊下を歩いていく──地獄へと続く一本道を、確かな足取りで進んでいく。

その表情は凛々しく、切れ長の双眸は揺れずに前だけを睨んでいる。まるで──来るなら来い、私はもう恐れない、怖がらない、誰に疎まれようとも生きることを躊躇わない──と、世界中に宣言しているかのように。