Pretty Poison Pandemic | ナノ





とあるビルディングの屋上の、貯水タンクの縁に座って、サイタマは特別なにをするでもなくぼけーっと空を眺めていた。

電車の中で退屈している幼児のように両足をぷらぷらさせながら、腕を組んだり解いたり、時々ごろんと寝そべったりして──待っていた。

かれこれ小一時間そうしていたかと思うと、そんなサイタマのもとへ向かってくる影があった。立ち並ぶ建造物の屋根の上を跳ね回って、どんどん接近してくる。最初は青空に小さな点を穿ったふうにしか見えなかったそれは、みるみる大きくなって、人の形になって、女性だということがシルエットでわかるくらいのところまで来て、隣のマンションに降り立って、顔立ちまではっきり認識できるようになって──そこで彼女はやっとサイタマに気がついて、あんぐりと口を開けて足を止めた。ばっちり目が合ったので、サイタマは大きく手を振り、貯水タンクから飛び降りた。

その正体は──ヒズミだった。
彼女は軽々と数メートルの距離を助走もつけずに、羽織ったパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま跳び超えて、サイタマのいる屋上へ移動した。

「サイタマ先生じゃないですか」
「よう。ご無沙汰だな」
「マジで久し振りに会った気がするな……お元気そうで」
「お前もな」

感動の再会──というには、些かばかり、互いにリアクションが薄かった。ヒズミがポケットから手を引き抜くと、その人差し指と中指の間に煙草が一本、挟まれていた。流れるような動作で先端に着火して、屋上をぐるりと囲む背の高い金網にもたれかかる。サイタマもその隣に並んだ。

「ところで先生、なんでこんなところに」
「お前が通るだろうと思ってさ。うちから本部に行くなら、このルートでショートカットすんのが一番早いだろ。急いでるなら近道を使うだろうなって、まあ、勘だよ」
「……ということは、全部ご存じで?」
「ああ。教授から聞いた。協会がお前を捕まえて今回の顛末を吐かせようとしてるとか、都合の悪いことを知ってるようなら口封じされるかも知れないとか……とんでもねー話だ。お前マジでそんなところにホイホイ行く気なのか?」

サイタマの口調は至って真剣である──が、ヒズミはどこか達観したように口を斜めにした。

「なにもホイホイ行くわけじゃねーよ。それ相応の覚悟は決めてる。私もいろいろあって、なんつーか、かなり図太くなったから。簡単に“やられる”つもりは毛頭ない」
「……俺になんかできることはないか?」
「いいえ、お構いなく。お気持ちだけありがたく頂戴しとくよ。……あ、でも、シキミちゃんのことはよろしくお願いします。あの子きっと、今回の事件のことで、落ち込んでると思うから」
「ああ、かなり落ち込んでたな……。ヒズミのことも助けられなくて、俺の足も引っ張ってばかりで、プロのヒーローなのに自分はなんにもできなかったって言ってた」
「シキミちゃんと話したの?」
「昨日の夜のうちに意識が戻った。もう今はぴんぴんしてる。大事を取って、まだ本部の救護室みてーな部屋で安静にしてるけど」
「そっか。……あー、よかった」

本当に安堵したように息を漏らして、ヒズミは続ける。

「協会に戻ったら、ちょっとくらいシキミちゃんと会えるかな……さすがに難しいか」
「教授に頼めばなんとかしてくれるんじゃねーか?」
「教授には既に無理な“お願い”をしちゃってるもんで。これ以上あの人には迷惑かけられない」
「……そうか」
「シキミちゃんにも、私の強情で嫌な思いさせちゃったし。十代の女の子には、今回の諸々は結構キツかったんじゃねーかな……ちゃんと謝らないとなって思うんだけど」
「あいつはそんなヤワじゃねーよ。心配すんな。もし再起不能なくらいヘコんでたとしても、俺がなんとかしてやる」
「……やけに自信ありげだな。さては先生、なんかありました? シキミちゃんと」

にやにやと底意地悪く、面白がって揶揄するような笑みを貼りつけているヒズミに、サイタマはあっさりと首を縦に振った。

「おう」
「えっ」
「ちゅーした」
「……………………」

ぽろっ、とヒズミの口の端から煙草が落ちた。

「………………マジで?」
「マジだよ」
「……………………」
「……なんだよ、その顔は……お前が聞いてきたんだろうが」
「や、それはそうだけど……はあ……マジか……」

サイタマの爆弾発言を受け、どこかしみじみとした口振りで「マジか……マジなのか……」と繰り返しながら、ヒズミは背中を預けていたフェンスに更に体重をかけた。きしっ、と細い金属で組まれた柵が悲鳴のように軋む。老朽化しているのかも知れない。

「しまったな、私もジェノスくんにちゅーくらいしてやりゃよかった」
「やっぱりジェノスに会いに行ってたのか」
「それ以外に帰る理由なんてねーよ」
「……ああ、そう」
「呆れた?」
「俺は他人のこと言えた立場じゃねーから……でも、まあ、お前も大概だな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「ジェノスどうだった? あいつ俺んちで首でも吊ってんじゃねーかと割とマジで心配だったんだけど」
「元気……ではなかったけど、一晩中びーびー泣いてたんで、もう大丈夫なんじゃねーかな」
「え? 泣いてたの? ジェノスが?」
「今あの子、教授のアンドロイド義体……ドロワットちゃんたちと同じパーツ使ってるみたいなんで」
「……? あ、そうか……そういや時かけ見て泣いてたな、あのガキ。そういうことか……」
「強がってはいても、まだジェノスくん十九歳だし──十九歳ですよ? 未成年ですよ? サイボーグになっても、ヒトの心がなくなったわけじゃない。悲しくて、寂しくて、誰かに頼りたくなるのは、寄り添いたくなるのは当然のことだろ。なにも悪いことじゃない……その弱みに、罪悪感に付け込んでジェノスくんを自分のものにしようとしてる私は、ずるい大人なのかも知れねーけど」
「俺も弱ってるシキミに手ェ出したわけだしな」
「とんだ悪人ですね、お互い」
「歳を食うとそうなっちまうんだよ。大人ってのはそういう生き物だ。開き直っちまえ」
「そうですね。……そうさせてもらいます」
「おう。そうしろそうしろ」

語らう二人の頭上を、ゆっくりと雲が流れていく。清々しい青一色の晴天に、制止して固着しているように見えながら──それでも確かに、着実に往くべき方角へと動いている。

「お願いします。シキミちゃんと、ジェノスくんのこと」
「ああ。大船に乗ったつもりで任せとけ」
「信用してますよ」
「お前もな」
「え?」
「俺もお前を信用してるって話だ。──絶対、帰ってこいよ」
「…………………………」
「俺ひとりに、あのとんでもねーガキ二人の世話を丸投げする気かよ。手に負えねーよ。それに……なにもジェノスだけじゃねーんだ。俺だってお前を大切な隣人だと思ってる。……だから、絶対、あのマンションに帰ってこいよ」
「努力するよ」
「三十点」
「……約束するよ」
「よし、百点」

にかっ──と笑って、サイタマは大きく伸びをした。

「それが聞けたらもういいや。俺、行くわ」
「どこに?」
「シキミがプリン食いたいそうだから、コンビニで買ってくる」
「おやおやパシリですか」
「なんとでも言えよ。……こればっかりは、惚れた方が負けだろ」
「ですね。私もジェノスくんに新鮮なお寿司が食べたいってお願いされたら、ねじり鉢巻して漁船に乗り込むと思います」
「それはさすがにどうだよ」
「シキミちゃんも先生のためなら、それくらいすると思いますよ」
「……あいつならやりかねないな……」
「愛されてんじゃん、先生」
「まあ、悪い気はしねーな」
「愛想尽かされないよう頑張ってください」
「余計なお世話だ。……そんじゃーな、達者で暮らせよ」
「先生も。──お体に、気をつけて」

特別に気取ったふうでもない、そんな挨拶を交わして──サイタマとヒズミは別れた。踵を返して、それぞれの目的地を目指す。ひゅうう、と強い風が吹いて、火のついたままの煙草がコンクリートの屋根をころころと転がって、止まったときには──もう、そこには誰もいなかった。



「そんなの──あたし、許せませんっ!」

憤懣やるかたないといったふうな大声を張り上げて、シキミは勢いよく立ち上がった。その拍子にパイプ椅子が倒れ、がしゃん、と派手な音を研究室内に響かせたが、部屋の主であるベルティーユはそれを咎めるでも非難するでもなく、腕をこまねいたまま、眉間に縦皺を刻んでいる。

「落ち着きたまえ、シキミ。私だってそれは同じなのだよ。ヒズミの事情聴取を本部でなく、協会の所有する凶悪犯収容施設に連行して行うなど──そんなもの、牢獄に監禁すると言っているのと同じだ。馬鹿げている。筋もなにも通っていない。ヒズミの人権を無視して、いたずらに危険視して、保身のために閉じ込めて外界と隔絶させようとしているだけだ。許せるわけがない」

ベルティーユの物言いは至って平淡だったが、その裏に見え隠れする怒気をシキミはひしひしと感じた。それによって冷静さを幾許か取り戻し、パイプ椅子を起こして座り直す。しかし膝の上に置いた拳は、義憤によって強く握り締められている。

「どうにかなりませんか? あたしにできることがあれば、なんでもします……ヒズミさんは、なにも悪いことなんてしてません! ヒズミさんは正々堂々、最後まで戦ったんです! ハルピュイアの脅威を消し去るために、命を懸けたんですっ!」
「承知している。黙って看過するつもりはないよ。ヒズミ直々の“依頼”もある──既に手は打っている。あとは事が上手く運ぶかどうかだ。さっきヒズミ本人からもうすぐここに着くというメールも入った……決戦の瞬間は近いようだ」
「? “依頼”……ですか?」
「その話は後々させてもらうよ。ヒズミの今後と同じくらい、シキミ──君のことも、私は心配だ」

ベルティーユの言葉に、シキミは息を呑んだ。

「深海王との交戦で使用した“ドーピング”を、今回もやったんだろう?」
「……はい」
「畏れながら私は世界中から天才として賞賛を受けている。君が一体どういう人間なのか、少しずつではあるが、解明できつつある。君が望むと望まざるとに関わらず──私は君の全貌を解き明かしつつある。君のその人間離れした身体能力、外的損傷の異常な治癒速度、体内に保有する常軌を逸した分解酵素──それらが“後天的に造り出されたもの”であることを、私はもう知っている」
「…………………………」
「私は君に人並みの人生を歩んでほしい。長生きしてほしいんだ。このままでは、君は──自分の肉体を制御できなくなる。どれだけ希望的な観測を以てしても、ヒズミの歳まで生きられない」
「…………あたしは」
「教えてくれ。不肖ベルティーユ・Q・ラプラスの、後生の懇願だ。君は一体──“誰に、なにをされて、そうなった”んだ?」

ベルティーユの突き刺すような問いに、口を開きかけたシキミを遮ったのは、無機質な電子音だった。ベルティーユが白衣の懐から携帯端末を取り出して、着信に応じる。短い通信の内容は、ヒズミが協会本部に到着したから、至急エントランスまで降りてこい、という幹部からの呼び出しだったらしい。

やれやれと重い腰を持ち上げ、ベルティーユは最後に一度、悲愴な面持ちで俯いているシキミを振り返って言った。

「ヒズミは自分で考えて、自分で答えを出した。自分が本当にしたいことを、本心で望むことを、悩みながらでも導き出した。君にも是非、そうしてほしい。どうか──最適の選択を」

ベルティーユが慌ただしく退室したあとも、シキミは頭を上げなかった。両掌で顔を覆って、唇をきつく噛みしめて、噛みしめすぎて破れて血が滲み出していた。

「……だって……そんなこと言ったって……」

その声は、非力な小動物のように震えていた。
今にも泣き出しそうに、上擦って掠れていた。

「……本当のこと知ったら、……先生、きっとあたしのこと……もう、お側に、……置いてくれなくなっちゃう……」