Pretty Poison Pandemic | ナノ





それからしばらく、重い沈黙が続いた。ヒズミが広告を掻き集めてペンを走らせている気配はジェノスも感じていたが、それを確認する気にもなれなかった。

ややあって、作業を終えたらしいヒズミがジェノスの前にすとんと腰を下ろした。それだけでびくりと震えてしまう自分を情けないと思う余裕もない。項垂れているジェノスの顔を覗き込むようにして、ヒズミが身を屈める。そこに今しがた書き上げた堂々たる一文を突きつけた。

“会いたかったからに決まってんだろ”

「……………………、」

それは。
それは先程の質問に対する返答だった。
なんで来たんだ、という──ジェノスの言葉への。
偽りない素直な回答だった。

重ねて持っていたチラシをめくって、ヒズミは二枚目の原稿を提示した。

“いろいろあったからさ”
“ジェノスくんと話がしたくて”
“あとジェノスくんの話も聞きたくて”
“会いたかったから来たんだよ”

ジェノスが読み終わったのを見計らって、三枚目。

“怒らないでくれる?”
“こんな色惚けしたバカ女みたいな理由で”
“勝手に抜け出してきた私のこと”
“許してくれる?”

「……お前……」

ジェノスがなにかを喋ろうとする前に、四枚目。

“俺がお前をひとりにしないって言ってくれて”
“あれ本当に嬉しかったんだ”
“ずっと一緒にいてくれるって”
“だから私は私の我儘で”
“私の強情で絶対にジェノスくんと離れない”

五枚目。

“ジェノスくんが悪い”

六枚目。

“私をこんなバカ女にしたのはジェノスくんだから”

七枚目。

“だから”
“怒られたって殴られたって何されたって”
“一生ずっとくっついててやるって”
“死んでも離れてやんないって決めたの”

八枚目。

“ジェノスくん、私のこと好きなんだろ”
“好きって言ってくれただろ”

九枚目。
最後のページ。



“男ならちゃんと言ったことに責任を持て!”



想いの丈を綴った紙の束を投げ出して、ヒズミはジェノスに勢いよく飛びついた。ヒズミのタックルを受け止めきれず、ジェノスはそのまま床に倒れ込んだ。無遠慮に圧し掛かられて、ぎゅっと首に腕を絡められて、身動きを封じられる──逃げ道を塞がれる。

後頭部を強かに打ちつけた痛みに苛まれているジェノスの耳元に、ヒズミはずいっと唇を寄せて──焼かれて熔けて爛れた瀕死の喉から、無理矢理に声を絞り出した。

否──それは声ですらなかったかも知れない。
空気が歪んで漏れただけの音だったかも知れない。

それでも──届いた。
彼女の腕の中に捕らえられたジェノスには、しっかりと。

「すき」
「……………………」
「だーいすき」

少し身を引いて、至近距離からジェノスを見下ろすヒズミは悪戯っぽく口角を吊り上げている。頬がほんのりと赤い。無邪気な子供のようでありながら、優しさをも併せ持った──ジェノスがこれまでに出会ったことのない、酸いも甘いも噛み分けた年上の女性の、素敵な笑顔だった。

「ヒズミ」
「…………………」
「お前、本当にいいのか、俺はお前を、そんな怪我させたんだぞ、本当にいいのか、お前は、お前は俺がどんな男なのかわかってないんだ、俺は、どうしようもない、どうしようもない奴で、自分のことばかりで、それでお前を傷つけて、それなのにお前は、なんで、俺でいいのか、本当に俺でいいのか、お前を守っていいのか、俺が……」

支離滅裂な台詞が止め処なく溢れてくる。ヒズミは微笑みながら、それを黙って聞いている。眼球の裏側が不自然に熱くなった。鼻腔の奥に僅かな違和感。唇が意思に反してわななく。不意に視界がぼやけた。世界が輪郭を失う。温かい水に、じわりと、凝り固まっていた心が溶け出していくように──

「………………、っ、ぅあ」

ジェノスをフローリングとサンドした姿勢のまま、ヒズミは散らかしたチラシの隅にまた一筆、新しく書きつけた。ジェノスにも文面が見えるよう、彼の目の前に翳す。

“そういえば、ジェノスくん今ドロワットちゃんたちのパーツ代用してるんだったっけ”

ヒズミの記した言葉は、すぐそこにあるはずなのに──滲んで読めない。ヒズミがどんな顔をしているのかもわからない。胸が不規則に痙攣している。しゃっくりのような乱れた呼吸が制御できない。あらゆる筋組織パーツが弛緩してしまって、腕にも脚にも力が入らない。苦しい。とても苦しい。

「ヒズミ、すまない、見、えない、んだ、が、故障、だろう、か」
「……………………」

ヒズミの指が瞼にそっと押しつけられる感触がした。なにかを拭い去るような動きだった。一瞬、視界がクリアになる。ヒズミは相変わらずの穏やかな笑顔で、ジェノスのボディの上に寝そべったまま、手近にあったチラシの余白にペンを走らせた。

“故障じゃねーよ”
“何にもおかしくなんてない”

再び彼女の姿がぼんやりとした像に変わっていく。瞬きと同時に、頬に湿りを感じた。生温かい雫が耳に滑り落ちて、すぐに乾いて、そしてまた濡れる。

両の眼から次々と零れる粒が止まらない。

“機械が泣いちゃいけない法律なんてないそうだし”
“今まで我慢してた分、いっぱい泣いとけ”

四年間。
十五歳。
捨て置いてきたはずの。
捨て置いたと思っていたはずの──人間らしさ。

自分勝手で醜くて、
自己中心で見るに堪えない、

けれど、その弱さこそが──愛おしいと。

彼女が言ってくれるなら。

“いくらでも甘えてくださいよ。ダーリン”

彼女が許してくれるなら。
それだけで──生きていけると思う。

「……ヒズミ、ヒズミ……、ヒズミ、っ」

ぼろぼろと溢れる温かい水で顔面をぐしゃぐしゃにしながら、ひたすら縋るように繰り返すジェノスの頭を、ヒズミがそっと撫でる。どこまでも優しくて、柔らかくて、奇妙な懐かしさがあって──空っぽだった場所が埋められて、満たされる、幸福感。

ヒズミの背中に腕を回して、強く抱きしめる。バランスを崩して横倒しになって、それでも離れない。ヒズミの肩に額を押しつけて、ジェノスは泣いている。部屋中に響く大きな声で、恥も外聞もなく、時折、ひぐっ、とみっともなく息を詰まらせながら──まるで子供のように。

ヒズミはそんな彼を引き剥がすでもなく抱きしめ返すでもなく、ただ背中を軽く叩いている。ぐずる稚児をあやして寝かしつけるときのような、やれやれしょうがないな、といった仕種で──受け止めている。

そして心中で──あの“大樹”の支配者であり女王様であった“少女”に語りかける。

(……ほら、言った通りだったろ。今頃あの子、泣いてるかも知れないって)

もうこの世にはいない、プリンセスになれなかった、哀れな“少女”に語りかける。

(がっかりだろ? 全然かっこよくなんてねーだろ?)
(でもね、それでもね、私は──)

残酷な運命に翻弄され、天に召され、孤独に輝く星になった“少女”に語りかける。

(この超かっこわるい王子様が、世界で一番、大好きなんだよ)




そして──翌朝。
太陽が登り始めるのと同時に、ヒズミは目を覚ました。あのまま床で寝てしまったらしい。全身がひどく突っ張って、軋んでいる。ジェノスは昨晩と同じ自分の胸に顔を埋めた姿勢で、まだ眠っているようだった。泣き疲れて、とっぷり泥のように熟睡している。

(……こうやって見てると、まだガキだよな、本当)

ヒズミも年齢的にはさして変わらないのだけれど──今の彼の寝顔を見ていると、そう思ってしまう。ここにいるのは寂しがりで甘えたがりの、ただの少年だ。とても命を賭して戦い抜くことを決めた修羅の男だとは信じられない。

(信じられないけど──でも、そうなんだもんな)

ジェノスを起こさないよう慎重に腕を解いて、ヒズミはキャビネットの引き出しにしまってある予備の煙草の封を開けて、ベランダに出た。くわえて、火を点ける。白々と明け始めた空と、その下に広がる陰影の濃い街並み──いつかもジェノスと並んで眺めた、幻想的な風景。

彼が、怯えて恐れて逃げてばかりだった自分に初めて“戦え”と言った──あの、忘れられない日。

(あのときは、戦うなんて怖かったけど)
(……ていうか今もまだ怖いけど)
(自分じゃジェノスくんを守れないかも知れないっていう方が、怖い)

早朝の清んだ空気を、白く濁った煙で塗り潰していく。

(そろそろ腹を括って掛からねーと──だな)

覚悟は夜のうちに固めておいた。
今度は自分が彼を救うと──手を差し伸べて共に生きようと。
他にはもうなにも要らないと決心を定めた。

短くなった煙草を消して、ヒズミは大きく深呼吸して、

「あー、あー、本日は晴天なり」

声が出た。まだ痛みが残っているので万全とは言えないが、それでも声帯は復活しつつあった。こっそり拝借しておいたジェノスの携帯電話を開いて、キーを叩く──ベルティーユの番号をプッシュして、電話をかけた。

一回目のコールが終わる前に繋がった。



「あ、ども、ヒズミです。……はい。ご心配おかけしてすみません。申し訳ない……え? あのあとお偉いさんが乗り込んできた? はあ、……はあ……なるほど。じゃあ結果として脱走してよかった感じですかね。あははは……はい? て ……ええ、まあ、それは重々わかってますよ。脱走したことで立場が余計に悪くなったってのは……それくらいは織り込み済です。マフィア映画みたいな拷問とかされるかも知れないスね。笑えないです。……今の居場所ですか? これ盗聴の危険とかありません? 大丈夫ですか? ……自宅です。危険指定区域ですから、どうせ協会の人間が来るってことはないでしょう。ヒーローが集団で押しかけてくる可能性もなきにしもあらずですけど……とりあえず、今日中には協会本部に戻りますので。お偉いさんに伝えておいてください。……なんだか、テオドールに自首しようとしたときのことを思い出しますね。私ってそういう星の下に生まれついてるんでしょうか? いえ、冗談ですよ。気にしないでください……」



「……あ、それで、一個だけ、お願いがありまして……教授にしか、多分、頼めないことなんですけど……え、いや、返事が早いです。まだ私なんにも言ってないのに“わかった、なんとかする”って……え? 大体の予想はつく? ……、…………。…………、ええ、まあ、ほとんどその通りですけれど……どうしてわかったんですか? 教授には予知能力でもあるんですか? まあ、ともかく、ありがたいです。感謝します。我儘ばかりで、すみません……本部の近くまで行ったら、また連絡します。……え? ああ、あの“書き置き”ですか。今になって思うと恥ずかしすぎたかなって後悔してるんですけどね……そうですか。お気に召していただけたなら、なによりです。……はい。……はい……わかりました。それでは。また後ほど」



二本目の煙草に点火して、ヒズミは目を眇める。これでもう、後戻りはできない。これから自分が一体どうなるのか、まったく想像できなかった。皆目見当もつかなかった。しかし協会の拘束から脱兎の如く逃げてきたことに、ただ一目ジェノスに会いに来たことに、後悔はない。反省もしていない。そんな瑣事にうじうじする程度の気持ちだったら、あんな“書き置き”はとてもじゃないが残せない。

“L'amour est un duel.”
“Si l'on regarde a droite, a gauche, on est perdu!”

──すなわち。

“恋は決闘である。”
“もし右を見たり左を見たりしていたら、それは敗北だ!”

もうふらふらと迷ったりしない。
いっそ愚かなくらい、一直線に。
彼から目を逸らさないと心に決めたのだ。

諸事情で、しばらく会えなくなりそうだけれど。
この戦いを放棄するつもりはない。
易々と負ける気もない。

煙草を足元に落とし、爪先で躙り消して、窓ガラス越しに室内を振り返った。ジェノスはまだ眠っている。いい夢を見ていてくれたらいいな、と思った。

「……ごめんね」

ぼそりと独りごちて、ヒズミは躊躇いなく──ベランダの、落下防止の柵を越えて地上へ飛び降りた。難なくアスファルトの上に着地して、さっきまで一服していた自宅を見上げる。ゆるゆると手を胸のあたりまで挙げて、軽く左右に振った。

「ばいばい」