Pretty Poison Pandemic | ナノ





どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

テーブルに突っ伏していた頭を上げて、いまだ判然としない意識のなか、時計に目を遣る。針は規則正しい無機質な音を刻みながら、もう既に真夜中であることを告げていた。布団に入って就寝しても許される時刻である。しかしそんな気には到底なれなかった。ジェノスは緩慢な所作で、乱れた前髪に触れる──人肌の色をした、柔らかい弾力のある指先で。

彼は現在、ベルティーユの所持していたアンドロイド用の義体によって稼働している。もともと彼を構成していたあらゆる精密機械の類はすべからくスクラップと化してしまっている──ハルピュイアの奇矯な幻覚作用によって前後不覚の錯乱状態に陥り、主脳の発する電気信号でもって全身を制御していた指令系統に異常が出て、疑似神経束群がその負荷に耐えきれず焼き切れて、パーツ自体もオーバーヒートを起こしてしまった。その完膚なきまでの壊れ具合は、もう修理して修繕して修復してどうこうなんていうレヴェルではなかったのである。

身体を今のものに換装してから、その有様を改めて見せてもらったが、ひどいものだった──かなりの強度を誇るはずの超合金があちこち熔けて、原形を失っていた。

とくに焼却砲を搭載していた両腕の惨状は筆舌に尽くし難かった。宇宙開発にも利用されている軍用フッ化水素レーザーさえも凌ぐ火力を賄う膨大な熱エネルギーがすべてそこから放出されたのが原因らしい。

己の所有する、内包する破壊力を抑制できなかった。
その結果としていろいろなものを喪失した。
現代技術の粋を結集して造り上げられた機体のみならず。

誰より愛しく思っていた──
彼女のことさえも。
傷つけて。
傷つけた。

他の誰でもない、自分が。

「……………………」

ヒズミには会っていない。会えるわけがない。サイタマが留守にするなら自分は帰る──とかなんとか、それらしい理由をこじつけて、逃げてきた。樹洞で“夢”から醒めたとき、自分を囲むように散らばっていたあの焼け焦げた白髪の残骸から鑑みれば、彼女が一体どうなって、そしてどうなったのかは大体、予想できた。きっと地獄のような痛みと苦しみを味わわされたことだろう。

他の誰でもない、自分に。

「……………………」

久しく体験していなかった嘔吐感が腹部の奥からせり上がる。酸素の吸収と二酸化炭素の排出に不具合が発生している。眼球の裏側に鈍痛。脳髄の中心に疼痛。それは頭蓋を掻き毟って、叫び出したくなるほどの──

「………………は、」

無意識に、乾いた唇から息が漏れた。それは自虐を込めた嘲笑であった。どこまでも脆弱で虚弱で薄弱で自分勝手で自分本位な男への冷笑であった。

復讐に取り憑かれ。
真っ当な生き方を捨てて。
そこに意味などないと知りながら。
肉体を兵器に替えた。
悪鬼羅刹の領域へ踏み込んだ。

そんな恐ろしい人間が──どうして。

ひとを救えるなどと思ったのだろう。

焼き尽くすしか機能のない、あんな腕で。
敵意と殺意だけで生きてきたこんな心で。
どうして──

ひとを愛せるなどと思ってしまったのだろう。

「……………………」

とどのつまり。
自分の甘さが根本的な悪だった。
孤独な茨の道を歩む覚悟を決めた振りをして、実際そんな強さなんて持ち得ていなかった。
同じ境遇の者が現れた途端に容易く折れた。
共存してくれるかも知れないと欲を出して期待した。
お前は正しいと。
決して間違っていないと。
ただそう言ってもらいたかった。
ずっと隣にいてほしかった。
反吐が出るほどくだらない安堵のためだけに。

なんて──気持ち悪いんだろう。
悍ましい狂おしい汚らわしい鬱陶しい烏滸がましい気持ち悪い。

「…………ヒズミ」

その名を呼ぶことも──それだけで罪に等しい。
そう突きつけられながら、猶も。
彼女を欲して求めている自分の浅ましさが。
許しを乞おうとしている自分の業の深さが。

──気持ち悪い。

外の空気でも吸ってこようと、ジェノスは重い腰を浮かせた。戦闘用のボディではないので、今のジェノスの身体能力は生身の成人男性と大差ない。立ち上がるだけのことすら億劫だった。ロックフェスのときに借り受けた開発中の義肢で賄っている部分もあるので、極めて常識的な触覚も備わっている。要するに──彼は現在、ただの人だ。ほんの四年前までは“こう”であったはずなのに、絶え間なく滲む冷汗が煩わしくて仕方がない。歩みを妨害する重力さえも疎ましい。ふらふらと頼りない足取りでベランダへ続くガラス戸の前まで移動し、カーテンを開けて、



──窓の向こうにヒズミがいた。



「…………!?」

驚愕に、開いた口が塞がらなかった。
ヒズミも目を瞠って、中腰の妙ちくりんな姿勢で硬直している。いきなりカーテンが開いてジェノスが顔を出したことにびっくりしたらしい。

まったく事態を飲み込めない。予想だにしていなかった急展開が喉につかえて、吐いて戻してしまいそうだった。なぜ彼女がここにいるのか。協会本部でベルティーユの診察を受けていたのではなかったのか。現に彼女の首は焼け爛れて、肌から筋肉組織に至るまで真っ黒に炭化している。視線をそのグロテスクな傷痕に釘付けにされながら、ジェノスはパニックを起こしかけている頭をフル回転させた。自問自答を繰り返す。なぜ──どうして──

あからさまに動揺しているジェノスに対して、ヒズミは牧歌的でさえあるのんびりとした表情で──口をぱくぱくと動かした。なにやらジェノスに伝えようとしているらしい。ジェノスの解読が正しければ、彼女は“着替えてくる”と言ったようだった。ベランダの手摺りを越えて、隣の自宅へ向かっていったのを見るに、その予想は間違っていなかったのだろう。

ジェノスは窓を思いきり開け放って、彼女のあとを追った。大して高いわけでもない手摺りを乗り越え、ヒズミの部屋のベランダまで一メートルにも満たない程度の距離を飛び移るのにも、四苦八苦で艱難辛苦だった。ポテンシャルの落ちた状態でそんな危険を冒さずとも、普通に玄関からお邪魔すればそれでよかったのだが──ジェノスにはもうその程度の思考力も残っていなかった。本人さえも気づいていない、彼女を見失いたくないという一心しかなかった。

ジェノスがもたついているうちに、ヒズミは着替えを完了していた。ボーイッシュなデザインの白地のTシャツに、グリーンのスキニージーンズ。剥き出しの素足には、砂利と泥汚れが付着している。無数の細かい擦り傷も確認できた。まさか協会本部からここまで、裸足のまま来たとでもいうのだろうか。彼女の強靭な肉体であれば不可能ではないが、それでも──痛ましかった。

クレセント・ロックを力尽くで抉じ開けられ、シュールな芸術作品みたいな形になった引き戸を通って、ジェノスはヒズミの前に立った。さっきまでスリッパを履いていたはずなのだが、知らないうちになくなっていた。さっきの決死の八艘跳びの際に、うっかり落としたのかも知れない。

ヒズミが──じっと、深い海のように遠い空のように蒼い瞳でジェノスを見つめ返している。にへら、とだらしなく頬を緩ませる彼女からは緊張感がまったく伝わってこない。

「……………………」

フローリングの床に落ちていた新聞から、裏に印刷のないチラシを選んで引き抜くヒズミ。そしてキャビネットの上に置かれていたアルミのペン立てから油性ペンを取り、掌を下敷き代わりにして文字を書き込んでいく──声が出ないので、文章で会話をしようという目論見だろう。首を絞められ、大火傷を負わされ、命をも奪われかけた忌避すべき男に対して、どんな暴言を浴びせてくるのかと身構えていたジェノスの覚悟に反して、そこに記されていたのは──

“ジェノスくんがそういう普通の人っぽい格好してると”
“ロックフェスの時を思い出すなー”

──と。
それだけだった。

怒気など微塵もない、殺伐など欠片もない、ただの感想だった。ジェノスの頭が、かっ、と熱を帯びる。ありもしない血液が一気にそこへ集中したような感覚。それが──そんなどうでもいいことが、今この自分に対して言うことか。殺されかけた相手に向かって宣うことか。

違うだろう。
違うだろう。
そうじゃないだろう。
お前が俺に突きつけるべき台詞は──
そうじゃないだろう!

「教授に連絡する」

パーカーのポケットから携帯電話を取り出して開いたジェノスを、ヒズミは止めようともしなかった。ただ微笑みの色を、どこか寂しげで切なげなものに変えただけだった。

その──悲愴の滲む表情が胸に刺さる。

どうして。
どうしてそんな顔をする。
自分が悪いみたいな。
なんでもかんでも背負い込もうとするみたいな。
今にも折れてしまいそうな、そんな細い躰で。

やめてくれ。
頼むから。
そんな顔をしないでくれ。

その資格も素質も必要もないのに、
独り善がりな欲望だけで、
性懲りもなく──

「……べき、なんだろうな……」

また守りたいと思ってしまう。
まだ隣にいたいと──執着してしまう。

携帯がジェノスの手から滑り落ち、乾いた音を響かせた。がくりと膝をつく──全身から力が抜けて、その場に頽れる。ヒズミはそんなジェノスを、ただ憐憫の微笑を湛えて見つめている。

もう──駄目だ。
もうどうしようもない。

自分がここまで最低なヤツだとは思っていなかった。

復讐のためだけに仕返しのためだけに、
こんな歪なイキモノになって、
そのせいで心を寄せていたひとをすら危険な目に遭わせて、
勝手な罪悪感で逃げ出した屑に等しい自分に、
誰より怖がりなくせをして、
こうして会いに来てくれた彼女が、

まだ愛しくて愛しくて仕方がないなんて。
許してほしいと祈ってしまうなんて。

もう──どうしようもない。

「……なんで来たんだ、ヒズミ……」

跪いて、弱々しく消え入りそうな声音で呟くジェノスを。
ヒズミは──ただ、見つめている。