Pretty Poison Pandemic | ナノ





ひとりぼっちで泣いていた。
おとうさん、おかあさん、と繰り返しながら、どこに続いているのかもわからない暗い道を歩いている。疑う余地さえなく、迷子になっていた。

それでも立ち止まるのが怖くて、ひたすら足を動かしている。進んでいるのか戻っているのか、それさえ定かでない。どれくらいそうしているのかも覚えていない。なにもかもが闇に溶けて、自分の輪郭さえも判然としない。

そこにふと、聞こえる声があった。温かく優しく、柔らかく包み込むように、恐怖に渇いた心を満たしてくれる。

「……大丈夫。あなたには、もう目指すべきところがあるわ。ついていくと決めたひとがいるんでしょう……」

どこからともなく響くその声が、鼓膜から脳髄へ染み渡る。

「どうか迷わないで。そのひとを見失わないように。あなたがあなたとして生きていくために、そのひとを信じて、背中を追いなさい。そのひとはきっと、あなたを守ってくれるわ。私たちの代わりに……」

弾かれたように走り出す。どうしてそうしたのか、自分にもわからなかったけれど、とにかくがむしゃらに走った。なんだか急がなければいけないような気がした。誰かを待たせているような、そんな予感がしたのだ。押し潰されそうな怯えの中に、一粒の使命感が火を灯した。

「そしてあなたも、そのひとを守りなさい。どれほど強く見えても、助けなんて要らないように思えても、ひとりで平気なひとなんていないのよ。だからあなたは、そのひとの隣に立って、共に歩きなさい。支えてもらったら、あなたも支えてあげなさい。この世の誰もが、そうやって生きていくの……」

声はどんどん遠くなっていく。代わりに、一縷の光が見えた。出口があった。息を切らしながら、縺れる脚を懸命に動かして、千切れそうなほど手を伸ばす──



シキミは乱れた呼吸を整えてから、ゆっくりと体を起こした。頭が重く、節々が鈍い痛みを訴えていたが、動けないほどではない。ベッドから降りて、室内をざっと見渡した。記憶にある部屋だった。協会本部の中にある、簡易的な救護スペースである。本格的な病院ではなくここに収容されているということは、さして重傷というわけではないようだ。他人事のようにそう判断して、シキミは頭を掻いた。額に包帯が巻かれているのに、そこでやっと気がついた。

(そっか、おでこ切ったんだっけ……先生のパンチで……)

はたり、と我に返る。そうだ。サイタマは無事だったのだろうか。そしてヒズミも──繭の中に取り残された彼女は、どうなったのか。あの白い花の濁流に押し流されて排除された自分を、助け出してくれたのはサイタマだった。彼はヒズミもあの場にいたことを知らなかった。本人にそのつもりがなかったにせよ、見殺しにしたようなものだ。

一体、あれから事態はどうなったのだろう。
どうにかなってしまったのか──
どうにも、ならなかったのか──

悪い方向へ傾きかけたシキミの思考にストップをかけるように、がらり、とノックもなしに扉が開いた。びっくりして顔を上げると、同じく驚いた表情のサイタマとばっちり目が合った。

「あ、えぁ、せんせ」
「……起きたか」
「うえ、あ、おはようございます」
「大丈夫か? 痛いところとかないか」
「あっと、えっと、えぁあ、お、大丈夫です」
「慌てすぎだよ、お前」

サイタマが苦笑を漏らした。その仕種が普段の彼とは違う気がして、シキミは少し違和感を覚えた。

「ごめんな」
「えっ? な、なにがですか?」
「オンナノコの顔に怪我させちまって」
「そんなの……先生が謝ることじゃないです。……あたしは、先生が無事なら、それでいいです」
「……お前、マジでそういうこと言うなって」

後ろ手にドアを閉めて、ずかずかとシキミの前を横切り、サイタマはなぜか彼女が寝ていたベッドに土足のまま飛び乗った。縁に腰を下ろすなんていうかわいいレベルではない。どっしりと胡坐をかいて占領してしまった。

「お前も座れよ」
「へ? えっ、そ、そうですね、はい……」

ベッドサイドにパイプ椅子を広げようとしたシキミを、サイタマが「そうじゃなくて」と咎めた。そしてベッドの上──自分のすぐ横を、ぽんぽんと叩く。ここに座れということだろう。つくづくサイタマの行動が読めなくて、シキミは必要以上にどぎまぎさせられたが、他ならぬ師の要望である。拒否できるわけがない。

「で、では……お言葉に甘えて……」
「おう」
「お邪魔しま……すっ!?」

シキミがサイタマの隣に落ち着くやいなや──
サイタマの腕が音もなくするりと伸びて。
後ろから抱きすくめられた。

そのままぐっと引き寄せられて、両脚で挟まれる。
まるで──逃がさない、とでもいうように。

「────っっっ!?!?!?」

比喩でなく心臓が止まりそうになった。肺の中の酸素が根こそぎ出ていった。全身の血液が顔面に集中するのがわかった。背中から伝わるサイタマの体温が、やけに熱く感じられて──

「せ、せっ、せせせせんせ、やだっ、ちょっ」
「え? 嫌なの?」
「いやっそういうわけではないんですけど嫌とかじゃ全然ないんですけどあのそのえっと」
「へー。嫌じゃないんだ」
「せ、んっせ……」
「そっかー。嬉しくなっちまうなー」

ぎゅううううっ──と。
回された腕に力が籠められる。
それだけでもう、呂律が回らなくなった。

「シキミ」
「ひ、ひょえっ……」
「なんか聞きたいこととかねーの?」
「ききっ……たい……こと?」
「あのハルなんちゃらっていう樹のことで」

聞きたいことが、ないわけがなかった。むしろ山ほどある。鬼のようにある。

「えっと、……ヒズミさんは……」
「あー、お前が倒れてたとこの瘤みたいな気持ち悪いアレの中に閉じ込められてたんだってな、あいつ。大丈夫だよ。生きてる。首の火傷がひどくて喋れなくなってるみたいだけど、死ぬほどの怪我じゃねーって教授が言ってた」
「そう、です、か、……あの火傷は……」
「ジェノスがやったらしい」
「──!? ジェノスさん、が、なんで」
「俺と一緒だよ。……悪い夢だ」

サイタマの腕が、ひときわ強くシキミに絡みつく。

「ジェノスはそれが原因で、機械が全部ダメになったらしい。パーツ総とっかえだってよ。今は教授の予備パーツかなんだかでいるらしい。そんで家に帰ったよ。俺が留守にするんなら、部屋を空けとくわけにはいかないとか言って」
「……はあ」
「ヒズミはなんか、ハルピュイアから出てきたところがヘリで撮られちまって。ニュースとかで流されて大騒ぎになってんだってよ。教授もそれで忙しそうだった。今どうなってんだか知らねーけど……、多分ヒズミはしばらく拘束されんだろうな」
「ヒズミさん、大丈夫でしょうか……」
「わからん。けどなんかあったら、今度は助けに行くよ」
「あたしも行きますっ! ヒズミさんは……このハルピュイア事件で、きっと、誰より頑張ったと思いますから……」
「お前が言うなら、そうなのかもな……俺は、なんにもできなかったけど」
「そんなことないですっ!」

シキミが大きな声を張り上げて、がばっ、と振り返って──鼻先同士が触れ合いそうな距離にサイタマの顔があって、すぐに体勢を戻して前を向いた。

「せ、先生はっ、あたしを助けてくれましたしっ……」
「お前だって、俺のこと助けてくれた」
「あたしがしたことなんて、そんな、先生に比べたら……大したことないです……あたしなんて本当よわっちくて、なんの役にも立てなくて……先生の足を引っ張りまくりで」
「シキミ」

やや語気を強めて、サイタマが遮る。

「お前は絶対に役立たずなんかじゃないし、足も引っ張ってないし、俺は……」

そこで言い澱み、サイタマは左手でシキミの手首を掴んだ。掌の感触を確かめるようにふにふにと揉んでいる。指と指の間まで玩ばれて、かなりくすぐったい、が──振り払うことなど、できるわけがない。

「ちっちぇー手だよな」
「……先生、」
「お前こんな手でさ、ずっとヒーローやってきたんだよな」
「えっ……と……そうですね……」
「…………お前さ」
「は、はいっ」
「俺のこと尊敬してる?」

サイタマが真剣な口振りで問う。
一度だって、そんなことを訊かれたことはなかった──シキミは息を呑んでたじろいだ。

「えっ、とっ……と、当然ですっ」
「俺に憧れてる?」
「……はい」
「俺のことすげー男だって信じてる?」
「は、はい勿論です、っ……あの、先生?」
「……俺さァ、お前が思ってるほどのヤツじゃねーんだよ」

シキミの手を撫で回していたサイタマの指先が、今度はシキミの顎に触れた。そして、くいっ、と強引に自分の方を向かせる──瞬きの音が聞こえそうなくらいの近さで、視線が交差する。

「自分より一回りも年下の女子高生に、自分みたいになりたいです一生ついていきますとか言われてさ、ホイホイ浮かれちまってるクズ野郎なんだぞ」
「……ふぇ?」
「くだらねー人生でさ、それでもいいやって割り切ってヒーローやってて、それなのに心のどっかで褒められたいとか思ってたんだ。認められたい、有名になりたいって。そんなしょーもねー人間のくせして、それでも憧れてるって、こんなことされても嫌じゃないってかわいい女子高生に言われて──こんなふうにマジになっちまうような男なんだぞ、俺は」
「…………………………」
「今回だってそうだ。正直、俺あんとき……倒れてるお前を見つけたとき、他のことはもうどうでもいいって思った。お前がなんか俺に伝えようとしてるのはわかったけど、聞こうともしなかった。お前の無事しか考えてなかった。他のことなんか心底どうでもよかった。お前が苦しんでるなら、早く助けてやりたいって、それしかなかった。お前が死んだら俺がもう生きていけねーって、それだけで……そんなのヒーローじゃねーだろ。正義の味方なんかじゃねーだろ」
「……せんせ……」
「それでもいいのかよ、お前。……こんな俺みたいなヤツで、本当に、いいのかよ」

それは疑問形の体を取っていながら──
懇願のように。
切願のように。
哀願のように聞こえた。

突き放さないでくれと。
見捨てないでくれと──言外に縋りついている。

「あたし、は……」
「……………………」

──迷って。

「……これからも、先生のお側に、置いて、ほしい、です」

──言った。

弟子入り志願を申し入れたときにも同じことを口にしたけれど、この場においてその一言がどういう意味を持つのか──いくら十代半ばの稚いシキミといえど、それくらいはわかっている。

それさえも理解の上で。
それくらい覚悟の上で。
──言った。

「……あーあ」
「へっ」
「お前マジで……なんかもう……あーあ」
「えっえっあたしなんか変なこと言いましたか」
「いや、……本当バカだよ、お前」
「ええっ!」

まさかサイタマが望んでいたのはこの回答ではなかったのだろうか、自分は選択肢を間違えてしまったのだろうか──と慌てふためくシキミに、サイタマは殊更ずいっと顔を近づける。身を引こうにも、他でもないサイタマに顎を取られてしまっているので、逃げようがない。

「ふえっ」
「……今から俺になにされるか、想像ついてる?」
「えっあっえっと……、…………………………はい……」

消え入りそうな、肯定の言葉。
普通なら、良識ある大人の男なら──こうして雰囲気に飲まれて、あからさまに動転している女子高生にそのまま手を出すような、公序良俗に反する行為に及ぶのには気が引けてしまうはずなのだけれど。

「…………………………っ、」

そういう意味では、サイタマはいっそ潔かった。
赤く艶めくシキミの唇を奪うのに、刹那の躊躇もなかった。
もう二度と戻れない一線を超えるのに、須臾の逡巡もなかった。

かくして二人は──
師弟関係という枠組みから外れて飛び出て、急な坂道を真っ逆様に転がり落ちることになったのだった。