Pretty Poison Pandemic | ナノ





「単刀直入に述べると、彼も無事だ」

ベルティーユはそう断言した。

「しかし彼のボディを構成するパーツの数々は全壊していた……外的要因によるものではなく、主脳とそれらを繋いでいる疑似神経回路がクラッシュしたことが原因だった。なんらかの理由で統御を離れて、熱暴走を起こして、限界を超えたんだ。緊急でクセーノ博士を呼んで修復を依頼したが、天才的科学者である彼の辣腕を以てしても元にはもう戻せないらしい。すべて一から造り直しだ。博士曰く、見たところ接続系統の故障ではないそうだよ。主脳の異常──いっそ発狂といっても差し支えないほど脳内物質が過剰に分泌されたことで、彼が正気を失ってしまったことで、制御できなくなった」

ヒズミは顔色ひとつ変えず、それを聞いている。

「現在は、彼の首から下をゴーシュとドロワットに使用している駆動システムを搭載した成人男性モデルの義体に挿げ替えてある。身体があれば歩けるし、食事も睡眠も摂れる。普通に生活ができるかどうかという意味合いにおいては、彼はもう万全だよ。呆然自失、意気消沈といった雰囲気ではあったがね……錯乱というほどではないにしろ、幻覚によって負った精神的ダメージからは回復しきっていないようだ。よほど怖い“夢”でも見たのかな」
“彼は今、どこにいますか?”
「家に帰った。先生がシキミの側について留守にするなら、部屋を空けておくわけにはいかない、と言っていた。見上げた弟子根性だと思ったものだが、もしかしたら君を避けたのかも知れないね。君のその、首の火傷──彼なんだろう?」

ヒズミはごまかそうとも、はぐらかそうともせず、首肯した。

「自分の意思でなかったとはいえ、悪夢に魘されて恐慌状態に陥っていたからとはいえ──彼はきっとこれまでにないほどショックを受けているんじゃないのかな。守るべき相手を、愛すべき女性を、他ならぬ自らの手で殺そうとしてしまったのだから」
“ジェノスくんは、悪くないんです”
「ああ。勿論それは私にだってわかっている。しかし彼は、彼自身を許せないだろう。絶望しているだろう。己の弱さと甘さが招いた暴走で、罪のない他人を傷つけてしまった──それは彼が嫌悪して憎悪していた“狂サイボーグ”と同じ所業だからだ。違うかい?」
「……………………」
「しばらくは、そっとしておいてあげた方がいいんじゃないのかな。今の君が会いに行ったとして、きっと彼は君の痛ましい現状に胸を裂かれる。自分が仕出かした過ちに責められる。立ち直れなくなるかも知れない。火傷が完治して、傷跡もなくなって、声が出せるようになったら、ゆっくり話をすればいい」
「……………………」

ヒズミは紙面になにか記そうとして、やめた。膝の上にスケッチブックを置いて、それきり微動だにしなかった。ベルティーユはそんな彼女を見て、やれやれと立ち上がった。

「紅茶でも淹れてくるよ。ゆっくり休憩して、それから今後の話をしよう。なんとか君が矢面に立たず済むよう、私も知恵を絞る。君もいろいろあっただろうから、今のうちに整理をつけるといい。明日からは、そんな暇もないだろうからね。協会サイドとの決闘だよ」

決闘──と。
ヒズミの唇が、ベルティーユの発言をなぞって動いた。

状況の重大さを把握しているのかいないのか、曖昧な微笑で返したヒズミを残し、ベルティーユは給湯室へ向かった。手際よくティーバッグから紅茶を注ぎ、ふくよかな湯気を立ち上らせる二人分のカップをトレイに乗せ、廊下に出たベルティーユの前に──その行く手を遮るように、スーツ姿の男が立ちはだかった。

「おや、ヴァルゴ氏。ご機嫌よう」

ベルティーユの挨拶に、ヴァルゴは軽い会釈で返した。その後ろには、がっしりとした体格の、彼の部下が控えている。

「ヒズミ様は、今どちらに?」
「どうしてそれを聞く?」
「彼女に事情聴取を行う必要があります」
「深手を負っている。回復するまでは対話が困難だと、先程も申し上げたはずだが」
「そんな悠長なことを言っている場合では、最早ないのですよ、教授。口が利けなくとも、どうとでもなる──教授、先刻あなたは委員会の構成員にスケッチブックを調達させましたね。あれは彼女と筆談をするためのものではないのですか?」
「実は趣味で絵画を嗜んでいてね」
「ほう。是非とも見せていただきたいものです」
「とても人様にお見せできるような出来じゃあないよ。勘弁してもらいたいね」
「そう謙遜なさらず。あの“病室”にあるのでしょう? ──いや、大変に興味深い」

ヴァルゴは血相を変えたベルティーユからトレイを奪うと、くるりと背を向け、ヒズミの待つ部屋へ大股で歩き出した。部下もその後ろに続く。ベルティーユが制止しようと追うが、彼らは足を止めない。

「待て。待ちたまえ。私の患者に、そんな勝手をすることは許さない」
「あなたが許そうと許さなかろうと関係はない。我々は我々の判断で行動します。これが協会の意志なのです」
「ふざけるな。彼女はヒーローでもなんでもない一般人だ。協会は深刻な怪我を抱えた部外者に、そのような狼藉を働くのか!」
「……申し訳ありません。ハルピュイア災害に慄いている世間に、一刻も早く安息を取り戻すためなのです。それだけではない。単身ハルピュイアに乗り込んでいったという、目下捜索中の凶悪犯“ジャスティス・レッド”の件もあります。ご理解ください」
「そのために──ヒズミを犠牲にするというのか!」
「その主張には、語弊があります。彼女に乱暴をする気は“現在”ありません。彼女が抵抗したり、虚偽の報告をするなどして、協会が不利益を被るようなことをしなければ──ですが」
「そんなもの──真相など、彼女しか知り得ないことだろう。虚偽かどうかなど、誰にもわからない。協会にとって都合のいい話ばかりを聞けるとでも思っているのか」
「彼女がそれを面白半分に吹聴するつもりなら、口封じも考えねばなりません」
「馬鹿げている……!」

平行線の口論を展開している間に“病室”の前に到着してしまった。ヴァルゴが躊躇なくドアをスライドして開けようとする──が、内側から鍵が掛けられているようだった。ベルティーユもこれは予想外だったようで、レンズの奥の双眸を見開いている。

「……我々の動向を察したか? どうやら人並み以上に勘が働くようだな。クレーシヴァル」
「はっ」
「ここを開けろ」

ヴァルゴの端的な命令に、クレーシヴァルと呼ばれた部下の男は素早く動いた。半歩ふっと身を引いたかと思うと、賞賛に値する鋭い前蹴りを一閃──扉にぶち込んだ。つい先日ジェノスによって無理矢理に抉じ開けられ、直したばかりのドアはまたもや無惨に強硬突破される羽目になり──果たしてその奥の室内に。

ヒズミはいなかった。
蛻の殻だった。

唖然として立ち尽くすヴァルゴとベルティーユの目の前の壁に──大穴が空いていた。まるで大型トラックが全速力で突き破ったみたいな、そんな惨状が広がっている。本部全体の防音設備が完璧であったがゆえに、誰もこのとんでもない破壊行為に気づかなかったのだ。

そこから吹き込んでくる風が、床に落ちたスケッチブックをぱらぱらと弄んでいる。

「……くそっ! 逃げたのか……!」
「…………ヒズミ」

忌々しげに舌打ちし、クレーシヴァルにヒズミの追跡指令を怒鳴り飛ばすヴァルゴの隣をすり抜け、ベルティーユはふらふらとスケッチブックの傍らに屈み込んだ。何枚か破られた形跡があった。恐らく自分が文章を記した部分を持ち去ったのだろう。白紙しか残っていなかった──と思いきや、最後のページに、ヒズミの字でとあるフレーズが書かれていた。

それはベルティーユの生まれ故郷の、反ファシズムで知られる旧時代の作家が著書に残した言葉であった。世界的に有名な文学賞も受賞したこともある人物の、その引用が、和訳でなく原文そのままでかでかと紙いっぱいに踊っている。

それを読んで、ベルティーユは思わず吹き出してしまった。あまりにも向こう見ずで、非生産的でありながら、それゆえに純粋で美しくもある、その台詞に──患者であるはずのヒズミの頼もしさを感じた。あんなにも怖がりで、臆病で、泣いてばかりいた彼女の面影はどこにもなかった。

そこには、こう書かれていたのである──

“L'amour est un duel.”
“Si l'on regarde a droite, a gauche, on est perdu!”