eXtra Youthquake Zone | ナノ





「なンだ、もう行っちまったのか、アイツら」

入ってくるやいなや蜻蛉返りでサイタマたちが退室していったのを察して、奥のスペースで寛いでいた“掃除屋”の彼女は不服そうに口を尖らせた。ソファに仰向けに寝そべって、組んだ手を頭の下に敷いている。自然には有り得ないカラフルな頭髪が乱れて散らばっていた。その傍らでは、ベルティーユがデスクに肘をついて力なく項垂れていた。

「つまんねェの。挨拶くらいしていきゃアいいのによ」
「……そう言うな。彼らも忙しいんだ」
「オイ、まるでオレが暇人みてェに言うじゃねェか、ラプラス。……まァいいがよ。外れてねェし」

旧友の軽口を黙殺して、ベルティーユは手元の資料を眺め続ける。そこに記されているのは今しがた終了したばかりのヒズミの身体検査に関する、膨大な量のデータだった。脳内物質の分泌、血中の成分濃度、体内のレントゲン写真──それらの記録を前に、ベルティーユは苦悶の表情を浮かべている。皮膚が破れて血が滲みそうなほどに唇を噛み締めても、弾き出された結果は変わらない。

「なんということだ……」

縋るように震える声を搾り出しても──現実は翻らない。

「最初はオレも“ドク・アルスフェルト”の冗談かと思ったンだけどよォ。この闇医者ジーサンいよいよ耄碌したかッて不安になッたりしてなァ。ものすげェ剣幕で“今すぐ教授のところにヒズミを帰せ!”なンて言い出しやがッてよ」
「生涯現役を喧伝してやまない彼が、歳のせいで診療ミスを犯すとは思えないね」
「そォいうこった。……そンでも正直なトコ、ちィと期待してた部分はあったんだがな……全然ピンピンしてやがるしよ、アイツ。しかしオマエのその反応を見るに、あのジーサンの診断に間違いはなかったッてことでファイナル・アンサーなンだな?」

派手なアイメイクで飾った双眸を細めて睨む彼女の眼差しを、ベルティーユは面を上げて真っ向から受け止めた。椅子の背もたれに深く体重を預け、憔悴しきった声音で呟く。

「どうしてこうなってしまったんだ。なにが悪かった……? どうしてこうも急激に変化が起きたんだ? 考えられない……いや、発電能力の上昇に比例したんだろうな……そう考えるのが妥当だ。それで肉体の制御が利かなくなったんだ。なんということだ……ああ……」
「……どれッくらいだ?」

“掃除屋”の彼女が体を起こし、よっこいしょと胡坐を掻いて、核心を突く。

「あと──保って、どれッくらいなんだ。ヒズミの命は」

その問いに、担当医としての責任のもと、ベルティーユは欠片の嘘偽りなく答える。

「一週間も、ないだろうな」



ターミナル駅から近い立地ということもあって若者から隠れ家的な人気を誇るそのバーは、営業時間外ということもあって今は薄暗く静まり返っている。店内の一角には円形のステージもあって、定期的にアマチュアのジャズ・バンドによる生演奏が行われているのだった。オーナーが直々に声をかけて招聘している選りすぐりのアーティストなだけあって、なかなか質がよいと評判らしい。しかし現在そのステージに立っているのは楽器を携えた音楽家ではなく、バーテンダーの衣装を纏った若い男である。なにやら彼はとにかく上機嫌そうで、鼻唄混じりにモップで床を磨いていた。

からんからん──と、入口のベルが鳴った。
バーテンダーの彼は頭を擡げて、そちらを見やる。

入店してきたのは青年だった。年の頃は、まだ十代後半に差し掛かったばかりくらいだろう。季節外れな分厚いダウン・ジャケットをフードまで被って、厚手のボトムスに頑丈そうなスノーブーツを履いている──さながら厳冬の雪山に挑むアルピニストみたいな服装だった。

奇矯な出で立ちでやってきた彼に、バーテンダーは清掃作業の手を止めて、にっこりと人懐っこく微笑んでみせた。

「いらっしゃいませ」
「はい。どうも、こんにちは」
「散らかっててすみません。適当に座ってください」

バーテンダーに勧められるがまま、青年は──トーラスはカウンター席に腰を下ろした。正面の棚にはリキュールのボトルが数えきれないくらい整列していて、漂ってくる甘い匂いに眩暈がしそうだった。彼が所在なさげにきょろきょろと小洒落た店内を見回している間に、バーテンダーはモップとバケツを用具庫にしまい、しっかり手を洗ってから、カウンターを挟んでトーラスの前に立った。

「なにか召し上がります?」
「いやあ、手持ちがあんまりないもので」
「心配いりません。僕の奢りです。すべて研究に“協力”していただく謝礼だと思ってください」
「……じゃあ、ありがたくいただいておきますよ。イサハヤさん」

ますます笑みを深くして、イサハヤは奥まった厨房に入っていった。ややあって彼が持ってきたのは、酢漬けのオリーブに生ハムを巻いて黒胡椒を振った皿だった。細かな装飾のついた爪楊枝が添えられている。話をしながら軽くつまむには、なるほど適しているといえよう。

「なにか飲まれます?」
「いいえ。僕まだ未成年なので」
「おや、これは失礼」
「イサハヤさんのお店なんですか? ここ」
「違いますよ。ちょっとした知り合いが経営しています。貸してくれとお願いしたんですよ──内緒話をしたいから、と言って」

──内緒話。
ほのかな辛味を舌の上に感じながら、トーラスは上目遣いにイサハヤを窺った。

「そうしたら、ついでに店の掃除を言いつけられてしまいました。まったく人使いが荒くて困ります」
「僕もお手伝いしますよ。お話が終わったら」
「それは助かります。それでは──早速ですけれど、本題に入りましょうか」

シェイカーをくるくると投げて弄びながら、イサハヤは軽い口振りで言う。

「あなたの怨むべき仇だという“進化の家”のことを、夜のうちに調べてみました。もともとその悪名は知っていましたし、足取りを掴むのにさほど苦労はしませんでした。そうしたら……その、なんていうか、僕もびっくりしたんですけど」
「びっくり?」
「もう壊滅しちゃってたんですよねえ」

ぽろっ、とトーラスの手からオリーブが滑って、皿に落下した。

「…………え?」
「なにが理由なのかまでは、わかりませんでしたが──もう活動してないんです、彼ら。山奥に建ててたアジトも、焼けてなくなってしまっているようです」
「そ……そうですか……はあ……」
「何者かの襲撃を受けたか、実験体が暴走でもしたのか……なにせ目撃証言が期待できないもので、探りようもなくて。かなり閉鎖的な組織でしたから、関係者から情報を買うこともできない。宗教団体としての側面も持っていたようですが、もう信者は散り散りになってしまってまして」
「あんな危険思想の宗教にハマってたようなろくでもない人間から、得られるものなんてありませんよ」

トーラスが口早にイサハヤの発言を遮った。言い種こそ平坦だったが、一貫して穏やかだった彼の攻撃的な一面を垣間見たのは初めてで、イサハヤはどこか精神的な昂揚を覚えているふうだった。

「しかし、進化の家の長であったジーナス博士の居所は、判明しています」
「────!」

トーラスの目の色が変わった。瞼は眠そうに弛んでいるが、はっきりと瞳孔が開いている。

「……おいくらです?」
「研究に協力していただく謝礼だと、先程も申し上げました」
「そうでしたね……」

さっき食べそびれたオリーブに再び爪楊枝を突き刺して、トーラスは改めて問う。

「博士は、今どこでなにをしているんです?」
「たこ焼き屋をやっています」

斜め上をぶっちぎってきたイサハヤに、トーラスの手元からオリーブがまた音もなく落ちた。

「はい? た……たこ焼き?」
「ええ。とてもおいしかったですよ」
「……食べたんですか?」
「今朝お邪魔してきました。ゴリラが店番してて、珍しかったんで写真撮ってもらいました」

イサハヤが差し出した写真には、確かにゴリラと並んでピースしている彼が写っていた。はしゃいでいるイサハヤの隣、毛深い巨躯の節々に金属のパーツをくっつけているそいつに、トーラスは覚えがあった──かつて相見えたことがある。会話を交わしたことはないが、同じ穴の貉として、その異形は記憶の片隅に残っている。

「さて、どうしますか?」
「………………」
「詳しいことは知りませんけれど、復讐──したいのでしょう? 進化の家に」

心の裏側を蝕むように、じわじわと踏み入ってくるイサハヤの声──トーラスは目を閉じて、大きく息を吐いた。

「……正直なところ、自分でもよくわからないんです」
「ほう?」
「進化の家を……ジーナス博士をどうしたいのか、決めかねてる。僕は……」
「一体なにがあったんです? あなたと、進化の家に」
「彼らは……」

そこで口を噤んで、やや迷いながらも──トーラスは続けた。

「僕の家族を、壊していったんです」