eXtra Youthquake Zone | ナノ





まったくもって、とんだ一日であった。

びしっと紳士らしく着飾って、豪華客船という非日常的な空間を堪能し、おいしい食事をいただいて腹いっぱいで帰ってくる予定だったのに、一体どうしてハリウッドもびっくり仰天の大戦争を繰り広げる羽目になってしまったのか。やるせない気持ちで、サイタマは蛇口を捻ってシャワーの湯を止めた。

(怪我人は出なかったらしいから、まあいい……のか? しかしこれからが面倒そうだな……明日は丸一日シキミも俺も本部に缶詰で取り調べだっていうし、ヒズミは怖い顔したオッサンたちに連れてかれちまったし、ジェノスはヒズミが心配だから帰らないって聞かなかったし)

重たい疲れを綺麗さっぱり洗い流した体をなおざりに拭いて、もそもそと寝間着のシャツを被りながら、サイタマは心の底から億劫そうにしている。それも当然だろう。夜が明けたら、同乗していたヒーローたちと一緒に、協会が回収した『セント・クラシカル・ネプチューン』号の事後調査を行わねばならないのだ。歓楽街まるごとひとつ載せて大海を泳ぐ巨大クルーザーを隅から隅まで虱潰しにして、そこで起こったことのすべてを報告して──どれだけ時間がかかるかわかったものではない。

二転三転する形勢に振り乱されて、あちこち走り回っていただけのサイタマにしてみれば、細々とした状況説明など苦痛でしかなかった。シキミの方がよっぽど事態を正しく把握していただろう。しかし彼女をひとりで殺伐とした実況見分の場に放り込むのは気が引ける。素直に地獄へついていくのは腹を括って割り切らなければならないとして──果たして力になれるのかどうかは怪しいところだった。

しかし爆破予告がヴァルハラ・カンパニーの自作自演であったのが既に判明している以上、さほど長引きはしないだろう。難しいことはわからないが、ヒーロー協会の情報操作の執拗さはサイタマにもいくらか覚えがある。真相を究明して、さっさと全員しょっぴいて、各メディアにはうまいこと伏せるなりごまかすなり金を渡すなりして、ほとぼりを急速冷凍するに違いない。『セント・クラシカル・ネプチューン』号の所有主であるタラータ工業の株もできる限り下げないよう配慮するはずだ。国内有数の大企業が潰れて、五万人を超える従業員たちが路頭に迷うようなことがあっては、公的に共同歩調を取っていたヒーロー協会の面子が立たない。命を懸けて市民の生活の安寧秩序を守る──そういう組織なのだから。

(それにしても、こんなことになっちまって、パーティー始まる前に挨拶してたじーさんは今頃どんな顔してんだろうな……なんかちょっとかわいそうだな)

そんなとりとめのない物思いにつらつらと耽りながら、サイタマはバスルームを出た。

「シキミー、風呂空いたぞー」

つるつるの頭をタオルで適当に擦りつつ、サイタマはリビングにいるシキミを呼んだ。返事がなかったので、廊下から覗き込んでみた。ダイナミックな恰好で床に寝転がって爆睡している女子高生がいた。

「…………んむぅ」

むにゃむにゃ言いながら泥のように眠っているシキミに思わず失笑を零して、サイタマはそっと歩み寄った。帰宅してすぐに窮屈だと言ってドレスから部屋着にチェンジしてしまったので、無防備な寝姿にも残念ながら色気は一切ない。そんな彼女の傍らに屈んで、人差し指の先で軽く頬をつついてみた。

「おーい、こんなとこで寝てたら風邪ひくぞ、お前」
「だぁいじょうぶですよう……あたしぃ、頑丈ですからぁ……」

会話は成立したが、完全に寝惚けているようだ。目が開いていない。すぐに規則正しい寝息のリピートが再開されて、サイタマはやれやれと息を漏らした。

「まったく、しょーがねー弟子だな」

呆れたふうを装いながら、どこか満更でもなさそうである。サイタマはテーブルを部屋の隅に寄せ、空いたスペースに手際よく布団を敷いて、生地を伸ばす麺棒がごとくシキミの体をころころ転がして移動させた。シュールなコントの一幕のようで、ちょっと面白かった。

薄手のタオルケットを掛けてやり、ご丁寧に枕まで頭の下に押し込んでやり、一仕事やり遂げたサイタマは改めてシキミの寝顔をまじまじと見つめる。最後の気力で化粧だけは落としたらしく、素顔に戻っていた。華やかに髪を結い紅を差し、背伸びしてレディを演じていたシキミも見蕩れてしまうほど綺麗ではあったけれど、やっぱりこういうありのままの彼女の方が年相応でかわいくていいな、とサイタマは思うのだった。

「がんばったもんな、お前」

柔らかい前髪を手慰みに梳きながら、サイタマは呟く。

「一日おつかれさんでした。ヒーロー」

彼の独り言を、聞く者は誰もなく──廃墟地帯に佇む古びたアパートの一室、皓々と灯っていた電気が消えて、辺りは闇に包まれた。そうして夜は、音もなく更けていくのだった。



会議室からの脱出を果たし、三人は廊下を歩いている。タツマキとジェノスがヒズミを挟んで横に並び、自分たちに近づくな話しかけるなという無言のプレッシャーを放ちながら、ベルティーユの所有するフロアへ繋がるエレベーター・ホールを目指していた。

「教授は元気してる?」
「ああ。健在だ」
「そっか。よかった。久々にドロワットちゃんとゴーシュくんにも会いたいなあ。ハイジくんともゆっくりお話ししたいし」
「双子はいると思うが、ハイジはもう寝てるぞ」
「そうなの? まあ今日は大変だったし、仕方ないか」

気の抜けた会話を展開している二人に、タツマキは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「気楽なものね。あんたたち、置かれてる立場わかってるの?」
「いやはや、マジで偉い人たちに喧嘩売っちゃいましたね。あはは」
「あははじゃないわよ。明日からどうするのか、ちゃんと考えなさいよね。このままじゃ本当に殺されるわよ、あんた」
「おい、そんな言い種はないだろう」
「腑抜けは黙ってなさいよ」
「ま、まあまあ……落ち着いてください、ご両人……」

険悪なムードを取り成すふうに両手を広げるヒズミに、ますますタツマキは不愉快そうな表情を深めていく。

「あの“変人教授”なら、幹部連中になにかしらの有効なアプローチをしてくれるでしょうけど……それでも足りないわよ、きっと。ヒーロー協会と和解して迎合するつもりなら、上層部が“ホワイト・アウト・サイダーを処分するのは我々にとって損失だ”って判断するくらいのメリットを用意しないと、到底あんたに捺された“危険因子”の烙印は消してもらえやしないわ」
「そうですね。でも、心配いりませんから」

断言──だった。

理屈も根拠もないのに自信だけはある、そんなヒズミの口振りに、タツマキは疑わしげな視線を送った。しかしヒズミがただニコニコ笑っているだけで、胸の内を開示するつもりがないことを悟ると、いくぶん白けた様子で首を斜めに傾けた。

「本人がそう言うなら、私は知らないわ。あとは自分でどうにかしなさい」
「はい。勿論そのつもりですよ──すぐに決着つくと思いますから、安心してください」
「……どうだかわかったもんじゃないわね」

呆れ果てたふうな溜め息を最後に、タツマキと別れた。彼女はエレベーター・ホールに到着するやいなや「お守りはここまでよ」と言い放ち、黒いドレスの裾を翻しながらどこかへ去っていった。その背中にヒズミが叫んだ礼の言葉にも返事はなかったが、タツマキにはちゃんと聞こえていたことだろう。

他に使用者のないエレベーターに乗り込んで開口一番、ジェノスは不満げに口を尖らせた。

「愛想のない女だ」
「ジェノスくんがそれ言っちゃう?」

茶化すように軽口を叩いたヒズミを、ジェノスはじろりと険しく睥睨する。

「大体、お前もお前だぞ。すぐに決着がつく、だと? 希望的観測が過ぎるんじゃないのか。これだけ拗れてしまっては、仮にお前がなにをしたところで、そう容易く一件落着とはいかないだろう」
「そうかなあ……」
「当たり前だ。もっと緊張感を持て。……俺はもう、お前が離れていくのはいやだ」

不意に持ち上がったジェノスの左手が、ヒズミの右手を強く掴んだ。硬質な指が遠慮なしに絡んでくる感触に、ヒズミは耳をほのかに赤く染めて俯いた。

「やっと会えたんだ」
「……うん」
「会いたかった」
「うん」
「俺はお前を愛してるんだ、ヒズミ」

思いの丈をこれ以上ないくらいストレートにぶつけられて──豪速球で投げられて、ヒズミは薄い唇を震わせた。わななく喉を必死に抑えて、小さく細い声を絞り出す。

「ありがとう」

このとき、彼女は幸せそうに笑っていた──けれど。

決して言わなかった。
自分の気持ちを、口に出さなかった。
それは断じて許されないことだ、とでもいうように、押し殺した。

私だって、心から、あなたを愛している。

そんな簡単な台詞を、それだけの単純な本音を、ヒズミは飲み込んだ。
──絶対に、言わなかった。