eXtra Youthquake Zone | ナノ





『セント・クラシカル・ネプチューン』号の序幕式典に招待された来賓のひとりであるティファニーは、いわゆる玉の輿に乗った女性だった。

テレビ局でアシスタント・ディレクターをしていた彼女は数年ほど前、偶然ドキュメンタリー番組のロケで訪れた外資系大企業の独身社長に見初められて以降、彼から猛烈なアタックを受けることになった。過酷と苛烈を極める仕事に追われてろくに化粧もしていなかったのに、逆にそれが素朴でいい、飾らないありのままの姿が輝いている、とかなんとか歯の浮きそうな口説き文句で迫られて、あれよあれよという間に交際が始まった。気がついたら籍を入れていた。それを機に職場へ辞表を出して、彼女は無事に専業主婦へとジョブチェンジを果たした。

毎晩のように催されるパーティーにも連れていかれるようになった。映画かドラマでしか見たことのなかった金持ちの社交界に慣れるのは大変だったが、着飾ってお世辞を言ったり言われたりするのにも次第に馴染んでいった。やがて二人の子宝にも恵まれ、母となった彼女は、忙しくも充実した幸せな日々を送っていた。

今回の式典も、今までに数えきれないほど参加してきた富豪の集まりのひとつに過ぎないはずだった。いつものように下品にならない程度に酒と食事を楽しみながら、かわるがわる挨拶にやってくる関係者たちに愛想を振りまき、夫を立てるのも忘れず、やんちゃ盛りで目の離せない子供の面倒を見ていればいいと思っていた──のだけれど。

現在ティファニーは、まっすぐ立っていられないほど傾いたセレモニー・ホールの片隅で、家族と固まって震えている。夫の肩にすがりながら、子供たちを庇うように抱いて、突如として我が身に降りかかった災難を呪うような気持ちで奥歯をかたかたと鳴らしていた。

「ああ、ティファニー、怖がらなくていい。大丈夫だからね」

夫が優しく発した慰めの台詞も、功を奏しているとは言い難かった。

「この船は、このまま沈んでしまうのかしら……」
「馬鹿なことを言っちゃいけない。そんなことはないさ。ヒーローだって乗っているんだ。彼らがなんとかしてくれるよ。恐ろしい怪人とも戦える英雄たちなんだ。どんなトラブルだって、たちどころに解決してくれるに決まっているよ」
「でも、あなた、そんなのわからないわ」
「もし船が沈んだとしても、君たちは僕が守る。こんなところで愛する君たちを死なせはしない」

夫の力強い宣言に、ティファニーは堪えきれずに涙を溢した。不安そうにこちらを見上げている幼い子供たちの頭をそっと撫でて、さらに強い力で抱きしめた。

ホールには人々の悲鳴と、怒号と、慟哭が満ちている。ほとんど急勾配の坂と化した床で転倒する危険があるからと、招待客の全員が警備員たちに壁際まで集められているのだが、その窮屈さが不安を煽っていた。当の警備員たちも混乱しているらしく、正確な状況説明も覚束ない様子なので、騒ぎが治まらないのも無理はない。

「泣かないで、ママ」
「ええ、ごめんなさいね……でもママは怖いの」
「僕もパパと一緒にママを守るよ。だって僕は将来ヒーローになるんだ」
「ぼ、僕もがんばるよ! がんばるから泣かないで、ママ!」
「そうね、そうだったわね……ありがとう……」

ティファニーが息子たちの勇敢な成長を思わぬところで実感した、その刹那。

──がくんっ!

と、ひときわ大きく船体が揺れた。遊園地の絶叫系アトラクションめいた暴力的な浮遊感に襲われて、一瞬ティファニーの尻が地面から離れた。バランスを崩して、顔面から思いっきり叩きつけられそうになる──反射的にきつく目を閉じた彼女であったが、どれだけ経っても理不尽な痛みが訪れることはなかった。

「……えっ?」

おそるおそる辺りを見渡してみる。
信じられない光景が広がっていた。

突き上げられるような振動によって放り出されかけたホール内の老若男女すべて、数百人が──ふわふわと宙に浮いたまま停止していたのだ。

「うわーっ! すごい! ママ、僕たち空を飛んでる!」
「ピーターパンになったみたいだね!」

息子たちは興奮しきってきゃあきゃあと喚き立てているが、ティファニーはそれどころではなかった。夫も「一体なにが起こったんだ」という表情で、きょろきょろ首を回している。他の客たちも似たような反応だった。地に足がついていないのに、怖いとか恐ろしいとかいう感じはまったくしない。むしろさっき座っていたときより安心感がある。まるで、目に見えない分厚くて柔らかいクッションに包まれているような──

その状態で永劫とも思える長い時間が過ぎて──実際は、ほんの十分にも満たない間だけだったのだけれど──ホールと外界を繋ぐ革張りの扉が、なんの前触れもなく開いた。人々が揃って、そちらに視線を送る。

そこから悠然と入ってきたのは、一組の男女だった。彼らが数時間前に『セント・クラシカル・ネプチューン』号からの救援要請を受け、危機を救うべく急いで駆けつけてきたことを、招待客たちはまだ知らない──モーターエンジンなどとは比べるべくもない出力のサイコキネシスで推進する手漕ぎボートで乗りつけてきたことなど、想像さえついていない。

しかしこのとき誰もが、既に事件の解決を確信していた。
彼らに任せておけば大丈夫だと安堵に胸を撫で下ろしていた。

地球を侵略せんと飛来してきた凶悪な宇宙海賊団をも独力で退けた、人類の最終兵器と称しても過言ではないS級ヒーローが──双頭を成して、助けに来たのだから。

そんな期待の熱視線を受けて、苦虫を噛み潰したような顔でゾンビマンは立っている。ちらりと横目に隣のタツマキを窺うと、彼女は相変わらず不機嫌そうに口を尖らせていた。自分からアクションを起こす気はないらしい。

まあ表から見えないだけで、彼女は既に乗客たちに対して己の力を働かせている──船を持ち上げるのと同時に、中にいる者たちが怪我をしないよう、ひとりひとりの周囲にバリアを形成して無重力状態に近い状態をキープしている。数百余名の全員に、微塵の漏れもなく──である。こんな芸当ができるエスパーは、世界広しといえどもタツマキくらいのものだろう。その技量に改めて感心しながら、ゾンビマンは面倒くさそうに咳払いをして、右手を頭の高さまで挙げて声を張った。

「……あー、怪我人は? いないか?」
「当たり前でしょ。私の力を舐めてるわけ?」
「念のために確認しただけだよ。そうカリカリすんなって」

溜め息混じりにタツマキを諌めつつ、乗客たちの安全をしかと見届けて、ゾンビマンは肩を竦める。

「大丈夫そうだな。ここはお前に任せる」
「アンタは?」
「操舵室を覗くように言われてる。協会員はそっちにいるそうだ。港に戻るまでに、話を聞けるだけ聞いてこいとよ」
「事情聴取なんて帰ってからすればいいじゃない」
「そういうわけにもいかねえよ。人間の記憶ってのは曖昧だからな。すぐに薄れていっちまうもんだ。こういう不慮のアクシデントのときは、尚更な──頭がこんがらがって正しく思い出せなくなる。喉元を過ぎて熱さを忘れちまうんだ。ナマの情報が腐る前に、確保してこいってこった」
「ふうん。まあ、好きにすればいいわよ。この船はもう港まで“動かして”いいのね?」
「ああ。俺ァさっさと帰って、布団で寝たいぜ」
「だらしないわね」

タツマキの情け容赦ない一喝を受け流して、ゾンビマンはセレモニー・ホールの扉を抜けて外に出た。コートのポケットに手を突っ込んで、中で潰れかけた煙草の箱を触りながら、操舵室が禁煙でないことをひそかに祈る彼であった。



タツマキとゾンビマンが船首側から乗り込んできたのは、船体の中央デッキで激闘を制したばかりのサイタマたち一行にも見えていた。まっすぐに甲板を横断する亀裂の側で、彼らは事件の幕が下りたのを悟り、ぐったりとへたりこんでいた。

「お、終わったんですよね……?」
「そうだね。ひとまずは一件落着って感じかな」

おそるおそるといったふうのシキミに、ヒズミが頷いた。そして船がゆっくりと向きを変えて、ひとりでに動き始める──恐らくタツマキが“操縦”しているのだろう。そこそこのスピードで滑空しているが、あの彼女のことであるから、パーティーの招待客や船員たちに被害が出ないよう、なんらかの配慮はしているはずだ。埠頭までの航路は、任せておいていいだろう。

「今回はさすがのオレも肝が冷えたぜ。一体全体なんだッたンだ、あのロボットは? どう見ても国際治安維持法が許す代物にゃア見えなかッたがな……ま、そりゃ追々だ。スコーピオの野郎を締め上げて吐かせりゃいいや」

それがもう不可能であることを──スコーピオが先程の爆発に巻き込まれ、この世に存在していたのが嘘のように跡形もなく消滅してしまっていることを、トゥイーニィが知るのはまだ先のことである。

「とりあえずは、アレだな。港に帰ってからのことを考えるべきだな。どォせオレらは協会本部まで重要参考人として連れてかれンだろォしよ。どッからどこまで正直に喋るか、口裏を合わせとかねェと面倒なことになるぜ」
「協会本部──」

そこでジェノスはようやく気づいた。この『セント・クラシカル・ネプチューン』号でなにがあったのか、真相解明のために捜査機関へ情報を提供することに抵抗はない。自ら進んで赴き、必要ならば数日間の拘束くらいは受け入れるつもりでいる。

しかし──ヒズミは。
そうもいかない。
なにせ彼女は追われている身なのだ。
マスコミには報道規制が固く敷かれているものの、いまだインターネットの匿名掲示板などでは盛んに話題に上っている、かの大樹“ハルピュイア”事件の関係者として。

ヒーロー協会が血眼になって探している、指名手配犯なのだ。

「ヒズミ、お前、こんなところにいていいのか? 逃げないとまずいんじゃないのか」
「あ、そういえばそうだな。捕まっちまうんじゃねーの?」

血相を変えたジェノスに、サイタマもにわかに焦りだしたようだった。シキミも心配そうに眉尻を下げている。しかしヒズミはどこか諦観の滲む面持ちで、ゆるゆると頭を横に振った。

「問題ないよ。もともとそのつもりだったしね」
「そのつもり……?」
「この“仕事”が終わったら、ヒーロー協会に出頭する予定だった」

予想外の発言に、ジェノスは黒い眼を剥いた。

「ばッ……なにを言っているんだ! そんな、そんなことをしたら、お前は……!」
「わかってるよ。ほとぼりが冷めるまでは、お師匠さんと死にもの狂いで逃げ回るはずだったんだけど……そうも言ってられなくなっちゃってね」
「……なにかあったのか?」
「まーね。まあ、でも、大したことじゃないから。ジェノスくんに迷惑はかけない。そのために帰ってきたんだよ、このビリビリ女ちゃんは」

含みありげに悪戯っぽく嘯いて、ヒズミは短くなった煙草を、火の点いた状態のまま握り潰した。あわや大火傷かと思われたが、鋼鉄の巨大ロボット三台を一撃で葬り去るほどの熱量を生み出せる彼女が、その程度でダメージを負うはずもなかった。吸殻は彼女の掌に生じた高圧電流によって燃え尽きて、灰になって風に流されていった。

「こっち戻る前に教授に連絡できれば心強かったけど、そんな暇もなくてね……でも、今回の騒動で協会には大きな貸しができたわけだし。なんとかなるよ、多分」
「そんな悠長な……」
「それにさ」

言い募ろうとしたジェノスを遮って、ヒズミが照れたふうに微笑んでみせる。

「久し振りにジェノスくんの顔を見たら、離れたくなくなっちゃった」
「…………………………」
「ごめんね」

どうして謝るのだろう。
申し訳なさそうにするのだろう。
そんな顔をしないでいいのに。

そう言ってやりたいのに、喉が震えて、言葉にならない。

「ヒズミ……」

彼女の名を呼ぶ細い声が、闇夜の月に溶けていく。
嬉しそうに双眸を細める彼女が、ただただ、正気を失いそうなほど愛おしかった。