eXtra Youthquake Zone | ナノ





シキミとジェノスが協会本部からサイタマの待つマンションに帰り着いた頃には、既に夕飯時といえる時間帯だった。テレビからはゴールデン・タイムの人気バラエティ番組が流れ、オーディエンスの賑やかな笑い声が玄関まで聞こえてくる。それを聞きながら、短い廊下を抜けてリビングに出る。フローリングに寝そべって寛いでいたサイタマが、のそのそと体を起こして振り返った。

「ただいま戻りました、先生」
「おー、おかえり」

ジェノスの必要以上に畏まった帰還報告にも、サイタマは気の抜けた表情のままである。

「遅くなってしまってすみませんでした」
「一緒に帰ってきたんだな」
「はい。協会で会って、教授たちとお茶して……お互いの用が終わるタイミングが重なったので」
「そうか。教授は? 元気そうだった?」
「相変わらず、第一線で頑張ってらっしゃるようです。ヒズミさんの捜索任務が難航しているようで……あまりにも尻尾が掴めなさすぎて進捗を協会に隠す必要もないくらいだ、と仰っていました」
「うまいこと逃げてんだなー、アイツ」

感心したように繰り返し頷いているサイタマに、ジェノスは苦虫を噛み潰したような顔をした。複雑な心境なのだろう──ヒズミが捕縛され口封じされる心配がなさそうなのは望むべく展開だとしても、つまりそれだけ彼女が自分から遠い場所にいるということでもあるのだから、ジェノスとしては感情の収めどころがない。

「教授がヒズミの保護を依頼した手練の“掃除屋”とやらが、随分と優秀なようです」
「みたいだな。そんなに強いヤツなら、俺も会ってみてーもんだ」

呑気に伸びをして、サイタマは腰を上げる。

「さーてっと、揃ったところでメシにするか。あー腹減った」
「えっ? 待っててくれたんですか?」
「まあな」
「す──すみません! すぐに支度しますっ!」
「あーいいよ、もうカレー作ったから」
「なんですって!」

シキミはサイタマの言葉に甚大な衝撃を受けたらしかった。背景に漫画チックな稲妻の効果すら見えるようだった──口元に手の甲を当てて、一歩引いて軽く仰け反る。

「なんだお前そのポーズ。ガラスの仮面?」
「せ……先生に炊事をさせるなど……あまつさえ我々の分まで用意させるなどっ! 弟子にあるまじき失態っ! 申し訳ございませんっ!」
「や、やめろよ、別に俺も好きでやってることなんだから」
「しかしですね……」
「いいって言ってんだろ。ほら、カレー食おうぜ」

サイタマがたっぷりと愛情を込めた──かどうかは定かでないが、とにかく直々に用意したカレーはシキミにとって最上のディナーだったといえよう。カットされた芋や人参ののサイズが大きく、噛んで飲み込むのにやや苦労したということを差し引いても、畏れ多いくらいにありがたかった──充実した満腹感があった。

「ご馳走様でした、先生」
「おう。お粗末さん」
「あたし洗い物してきますね」
「俺も手伝うわ」
「いいえ! そこまで先生のお手を煩わせるわけには! どうぞお風呂でごゆっくりしてくださいっ!」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」

使命感に燃えながら憤然と後片付けに立候補するシキミに気圧されて、サイタマは素直に任せることにした。タオルと寝間着を手に、浴室へ向かおうとして──上げかけた腰を、ジェノスの隣に下ろした。

「? どうかしましたか、先生」

真剣な表情でノートにペンを走らせていたジェノスが、怪訝そうに面を上げた。疑問符を浮かべている彼に、サイタマは内緒話でもするかのようにそっと耳打ちする。

「お前シキミと協会で一緒にいたんだよな」
「はい。終始一緒に行動していたわけではありませんが……」
「アイツ教授になんの用があったの?」
「さあ……。なにやら込み入った話をしていたようですが、その内容までは……揃って軽食を摂ったのはほんの三十分程度でしたし、あとは俺も自分の仕事に没頭していましたので」
「そうか……」
「注意力散漫で申し訳ありません」
「いや、別に謝ることじゃねーんだけどさ」

教授に用がある、といって外出していったシキミを、サイタマはさらりとなんでもないふうに見送ったのだが──振りはあくまで振りだけである。シキミはサイタマに具体的なことをなにも言わなかった。それが気に食わないというわけではないが、なんだか隠し事をされているようで落ち着かない。

ハルピュイアとの一悶着で受けた傷の経過について問診でも受けたのだろうか。それともあるいは“込み入った話”というのはジェノスの勘違いで、ただ焼菓子の差し入れを持っていったついでに世間話に花を咲かせていただけなのか──どちらにせよ、自分が首を突っ込んでとやかく口を出すようなことではないと、そう理解してはいるのだが。

「…………ふーん」

なんとなく。
放っておけないような。
否──放っておきたくないような。

シキミに関係することで、他の誰かが知っているのに自分は知らない真実があるのが、ちょっと面白くないような。

「先生?」
「なんでもない。風呂もらうわ」
「……はい」

サイタマの普段と違う様子を察したのか、ジェノスは不思議そうに目を丸くしている。しかし言及するようなことはせず、シンクで洗い物に奮闘するシキミの横を通り過ぎてバスルームに消えていったサイタマの背中を黙って見送った。



そんな微妙な心持ちのまま、夜が明けて。

サイタマは携帯電話を握り締めてリビングに胡坐をかいていた。それはジェノスから借り受けた予備の通信端末である──彼は朝食を済ませてすぐ協会本部へ出掛けていったので、現在ここにはいない。差し出がましいかも知れませんが、よろしければお使いください、と差し出されたそれをサイタマはありがたく受け取って、今に至るというわけだ。

あの朴念仁にもわかるほど、昨晩の自分は平常ではなかったらしい。聞きたいことがあるなら聞けばいいじゃないですか、と言外に突きつけられてしまった形である。シキミ本人に問い質しづらいのなら、教授に訊ねてみればいいのでは──と、ジェノスなりに気を利かせて、ベルティーユ直通の番号が登録してある携帯電話を貸与してくれた、ようだった。

みっともないのは承知の上だが、どうにもシキミのこととなると調子が狂う。惚れた弱み、というヤツだろうか。シキミとちゅーしたとか交際に発展したとかそのあたりのカミングアウトをジェノスにはまだしていないのだけれど、あの男に限ってそんな瑣末な変化に気づくわけがないだろうと高を括っていたのだけれど──ひょっとしたら案外もうバレているのかも知れない。なんとも頭の痛い話だった。

「……うっし」

己を奮い立たせる気合いをひとつ、サイタマは慣れない手つきでキーを叩く。電話を耳元に持っていき、スピーカーから呼び出し音が聞こえたことに安堵を覚えつつ、ベルティーユが着信に応じるのを待った。三度目のコールで出たベルティーユは、受話器の向こうから聞こえてきた声がジェノスのものではないことに少し驚いたらしかった。

「おや、サイタマ氏じゃないか。ごきげんよう」
「どーも。電話いい? 忙しい?」
「忙しいか忙しくないかと問われれば、今まさに忙殺されかけているところだが──構わないよ。このベルティーユに用があるんだろう? 聞こうではないか」

悠然と答えるベルティーユに「悪いな」と一言だけ詫びて、早速サイタマは本題を切り出す。

「昨日シキミがあんたんとこ行ったんだって?」
「ああ。上質なマドレーヌを持ってきてくれた。非常に美味だったので、どこの店で買ったものかと訊いたら、自分で作ったというので仰天させられたよ。いやはや、彼女はいい嫁になる──で、それがどうかしたのかい?」
「アイツ、あんたに用があったんだろ」
「そのようだったね」
「なんの話したの?」
「女同士の秘密だ」

間髪すら入れず、ベルティーユは回答を拒否した。

「人に言えないようなことなの?」
「殿方に隠しておきたいことのひとつやふたつ、レディは誰だって持っているものだよ。どうしても気になるなら、シキミに確認してみたらどうだい。他ならぬ君の頼みなら──“命令”なら、彼女は逆らえないんじゃないのかい?」

ベルティーユの口振りは飄々としていたが、どことなく老獪な底意地の悪さがあった。まるでサイタマとシキミの間にある矢印の向きを把握していて、それと知りながら“命令”などという怜悧な単語を選んでいるような──そっと突き放されて、シャット・アウトされたような。

「……あんたにゃ勝てねーわ、本当」
「おやおや、君ほどの実力者にそんな評価をいただけるとはね。恐縮だよ。まあ、現段階で君が気にするようなことはないから、安心したまえ。師として彼女を温かい目で見守ってやってくれ。なあ、──“先生”」
「…………………………」
「話はそれだけかい?」
「……ああ。時間とらせて悪かったな」
「気にするな。それでは、私は失礼させてもらうよ。もうすぐ客人が来るのでね」
「あんたも大変だな」
「好きでやっていることだ。苦ではない。君もそうだろう?」
「…………………………」

サイタマの反応を待たずして、ベルティーユは通信を切った。通話終了を告げる無機質な電子音に溜息をついて、サイタマは携帯電話をクッションの上に放り投げた。結局なにも聞き出せなかった──うまくはぐらかされてしまった。完膚なきまでに蚊帳の外だった。

「……くっそ」

毒づいて、ごろんと床に仰向けに寝転がる。腹の虫が収まらない。ここまで自分の気持ちを持て余したのは初めてだった。自分勝手な不満の行き場がどこにもなかった。

シキミは今頃なにをしているのだろう。彼女は隣の、ヒズミの部屋で寝泊りしている。大絶賛行方不明中のヒズミに代わり、ハウス・キーピングを兼ねて住み込んでいる形だ。そこで課題に励んでいるのか、またこっそりサボってテレビゲームでもしているのか、はたまた既に友達と遊びに出掛けているのか。

そんなことをつらつらと考えているサイタマは。
まだ──気がついていない。
ベルティーユの発言の意味深長な切れ端を見落としている。

──いわく。

“現段階で”君が気にするようなことはない、と──

先の暗雲を示唆するような。
先の暗転を暗喩するような。
辣腕の教授らしからぬ、茶を濁した言い種に。

猛毒に盲目のヒーローは、まだ、気がついていない。