eXtra Youthquake Zone | ナノ





さすがにもう奇襲の気配もなく、オープン・デッキに落ち着きが戻ってきて、セレモニー・ホールから響く悲鳴がサイタマたちにも聞こえてきた。それも無理はない──ヒズミが全身全霊で放ったサンダーボルトに音を上げた船が、いよいよ垂直に近い角度にまで傾いたのだから。

「オイオイオイオイ洒落になんねーぞ、これマジで!」

雷撃の高熱によって海水が蒸発したせいで高波が生じたことも影響して、前後不覚に陥りそうなくらいの揺れが発生している。サイタマも冷汗をかいていた。最大の危機に大慌てしながら、それでもシキミを固く抱きかかえて離すまいとしているのは無意識だった。尊敬する師の抱擁を振り解くわけにもいかず、それに行動が自由になったところで自分にできることもないのでされるがままになっている彼女だったが、じっとしているだけで事態が好転する道理もない。

「そ、そうだ掃除屋のアンタ、ヒズミに遠慮すんなとか本気でやれとか言ってたけど、ひょっとしてなんか策があったのか!? そうなのか!?」
「あァ? あるわけねェだろ、そンなモン」

なにを言ってんだコイツという顔で返してきたトゥイーニィに、サイタマは開いた口が塞がらない。

「はあああああっ!?」
「デケー声を出すなッつーの。観念しろ」
「かっ……」
「あんなロボットごときに負かされるよりァ、勝って死んだ方がマシだろ?」
「バカか!! アンタどういう思考回路してんだ!!」
「いやァ、太く短く生きられてオレは満足だ。我が人生に一片の悔いなし」
「どこのラオウだ! メイド服で吐いていい台詞じゃねーぞ!」

ぎゃんぎゃんと騒がしい漫才を展開しているサイタマとトゥイーニィに対して、ヒズミはまるで動揺する様子がない。トゥイーニィのように大海へ散る覚悟を決めた雰囲気でもなかった。軽く手を挙げて、ふたりのコントに割り込んでいく。

「あの、ご両人。お取込み中のところ申し訳だけど」
「……なんだよ?」
「沈まないから大丈夫だよ、この船」

なにを根拠に──と言い返しかけたサイタマが、下から突き上げられるような振動によって口を噤まされたのと同時、波がデッキにまで押し寄せてきた。海水の激流に呑み込まれて押し流されて、成す術もなくすべてが終わる──シキミはきつく目を閉じてサイタマの胸板に顔を埋めた。

それに応えるように、サイタマも彼女に回した腕に力を込める。
しかし彼は両の瞼を下ろさなかった──見ていた。
ヒズミの唇が動くのを。

『セント・クラシカル・ネプチューン』号が海に呑まれゆく断末魔に遮られた彼女の台詞──それは、たったのひとことだけだった。



──あのひとが、もう来てる。



それをシキミは見ていなかった。四肢を引き千切らんばかりに迫る怒涛に備え、全身を強張らせていた。だが待てど暮らせど、いつまで経っても衝撃はやってこない。

「……い、おい、シキミ」
「……ふぇ?」

サイタマの呼ぶ声に、シキミはおそるおそる薄く目を開けた。
そして、目の前に広がっていた信じられない景色に絶句した。
大きく傾いていた甲板が、水平に戻っていた。先程までのような揺れもない。安定している。海面の波打つ音がやけに遠いその理由は、ひしゃげた柵の隙間からシキミにも垣間見えていた。

海面が遥か眼下にあった。

船ごと、宙に浮いていた。

支えなどない──あるはずがない。
あわや沈没船と化しかけた『セント・クラシカル・ネプチューン』号は、なんと空を泳ぐ飛行船に変貌を遂げていた。

「な……にが……」

常軌を逸した事態に瞠目しているジェノスに、ヒズミが答える。ポケットに忍ばせていた煙草の箱を取り出して、手慣れた動作でくわえて火を点けた。

「不甲斐ない私たちを見るに見かねて、助けに来てくれたのさ」
「助けに……だと? そんな馬鹿な、誰が──」
「そんなの決まってんだろ」

ふうっと細く紫煙を吐き出して、シニカルっぽく口の端を歪めて。

「ヒーロー様だよ」



「……まったく、だらしないわね」

夜空を漂う『セント・クラシカル・ネプチューン』号から西に数キロメートルほどの海上に、一隻の船が漂っていた。人力で漕いで進むタイプの、かなり安っぽいボートである。三人はとても乗れないであろう規格のそれに乗っているのは、一組の男女だった。定員ギリギリでありながらそれほど窮屈そうでないのは、女性の方がひどく小柄な体系で、あまり面積を必要としていないからだった。

「私が来なかったら、どうするつもりだったのかしら」
「さあな。そんときはそんときだろ」
「アンタみたいに適当なのばっかりだから、こんな事態になるのよ。どいつもこいつもダメね。ヒーロー試験の採用基準、もっと厳しくした方がいいんじゃない?」
「俺に矛先かよ……ていうか俺まで来る必要あったのか? お前だけで充分だろ」
「私に聞かないでよ。暇そうだったから呼んでおいたんじゃないの。アンタならたとえ海の底に沈んでも死なないでしょうからね、ゾンビマン」
「……いい加減に機嫌を直せよ、タツマキ」

重苦しい溜め息をついて項垂れたゾンビマンに、ふんっ、と鼻を鳴らして、タツマキは船に視線を戻した。半分に折れかかり、首の皮一枚で繋がっている船体は、彼女の念動力によって浮遊している。二十万トン級の物量を離れた場所から操りながら顔色ひとつ変えない彼女のエスパーとしての実力には、ゾンビマンも舌を巻くほかなかった。

「まあ──今回は大目に見てあげるわよ」
「どういう風の吹き回しだ?」
「うるさいわね。……いいのよ別に、あの子は頑張ったみたいだし」
「あの子?」

怪訝そうに眉根を寄せたゾンビマンに、タツマキは応えなかった。毛先のカーヴした前髪を指先で弄びながら、やれやれと肩を竦める。そして独り言のように、ぽつりと小さく呟いた。

「甘ったれた男の色恋沙汰に興味はないけど──あの子に免じて、せめて再会劇がどうなったのかくらいは聞いてあげてもいいかも知れないわね」



通路を兼ねた展望テラスから、イサハヤはトールが一瞬で消滅した一部始終を目撃していた。彼自身も開発に携わり、技術の粋と巨額の金を注ぎ込んで生産した機械兵が、その性能を発揮する暇さえなく、生身の女ひとりの力であっさり焼き払われてしまった──しかし彼の表情には、悲嘆も悔恨も怨嗟も絶望もない。

むしろ愉快そうに笑っている。
満足そうに、嗤っている。

「……素晴らしい」

彼の喉が震えているのは、決して恐怖に侵されているせいではない。純然たる歓喜に打ちひしがれているゆえである。
生物の進化における最高峰を目の当たりにした、その悦びに支配されているゆえである。

「僕の予想を完璧に上回ってる。一体なんなんだい、あのイキモノは? 到底ヒトとはいえない。怪人なんて下等なカテゴリに収まりきる存在でもない。なにが彼女をあれほどのモンスターに変えてしまったんだ? 素質か? 天賦の才か? いいや、きっと違う……誰しもが、ああなれる可能性を秘めているはずなんだ……」

ぶつぶつと、イサハヤは誰にともなく独白を続ける。

「彼女の異能の発端は“ジャスティス・レッド”の研究だったんだっけね? 彼は僕のことを毛嫌いしていたようだから、あまり話は聞けなかったけれど……惜しいことをしたな。無理にでも深くプロジェクトに関わっておくんだった。まったく彼みたいに嗅覚の鋭い男は扱いに困るよ。根っから正義漢って感じでね。まあ、あれだけのことをしておいて正義漢もなにもあったものじゃあないけれど──そんなことを今になって蒸し返したって、どうしようもない」

前髪を潮風に靡かせつつ、イサハヤは淡々と語っている。

「彼の研究チームに加わっていたメンバーに、詳しく伺ってみるとしよう。僕の悲願を成就する足掛かりになるかも知れない……そろそろタイムリミットが近いからね。やれることは全部やっておかないと。現在もっとも優先すべきは次の“被験体”を用意することだ。投薬に対する拒絶反応が薄く、順調に進化を遂げていた“後釜”の最有力候補たるクローディアちゃん亡き今、第二の彼女を早急に発見する必要がある。しかしグレーヴィチ博士の“怪人心臓細胞移植”は応用できない。いくぶん時間が掛かりすぎる。染色体の数すら合致しない細胞が適合して馴染むのには、個体差はあるが数年単位で待たなければならない。そんな猶予は残されていないんだ。もとより強靱な肉体と最低限の知性を備えた対象でなければ、僕の“改造”には耐えられない……それこそあの“ホワイト・アウト・サイダー”みたいにね」

獲物を狙う猛禽類のように、音もなく双眸を細めてみせる。

「けれど彼女はもうハイエンドだ。成長の可能性をすべて体現してしまっている。あれ以上はどうにもならないだろう。僕の野望を託すには相応しくないね。完成してしまった作品に魅力は感じない。発展途上の存在にこそ、惹かれるものがあるのさ。解剖でもして生体メカニズムを調べることができるなら、それはとても腕が鳴るけれど……まあ、それはそれだ。置いておくとしよう。とりあえずは脱出するのが先決だね。将来のことを考えるのはそれからだ。ああ、陸が恋しいよ」

純白のタキシードの裾を翻して、イサハヤはテラスをあとにした。協会本部からS級ヒーローが派遣されてきているのは、彼も知るところだ。最強エスパーの称号を欲しいままにする戦慄のタツマキが、沈没しかけた船をまるごと操って浮遊させていることにも見当がついている。彼女の念動力を頼りに、このまま港に戻るのを待つだけだ。それまでは適当に身を潜めてやりすごすか、それとも夜風に当たるために外に出たら迷ってしまった招待客を装って保護してもらうべきか、イサハヤは思案を巡らせる。

そんな謀略の化身ともいうべき彼に──このあと、思いがけない出逢いが訪れる。
その邂逅が吉と出るのか凶と出るのか、それを知る者は、現時点ではまだ、どこにもいない。