eXtra Youthquake Zone | ナノ





ベルティーユの管理する資料室でひとり、ジェノスは黙々と作業に勤しんでいた。彼の手にある分厚いファイルに綴じられているのは、これまでにベルティーユがヒズミを診察してきたカルテのすべてである──遺伝子を構築する塩基配列ごと書き換えられ、人間という生物の枠組みから逸脱した彼女の変異の記録が余すところなく詳細に記されている。

それらは機密情報にカテゴライズされる類の内容であるため、言語がバラバラだったり、意図的に支離滅裂な文字列として暗号化されていた。他の追随を許さない稀代の天才たるベルティーユ直々のエンクリプションであるので、解読はジェノスですら困難を極めたが、それでも午前中をまるまる費やして半分近くは繙くことができた。常人ならば知恵熱でも出そうなところだが、サイボーグであるジェノスには主脳とリンクする高性能演算チップの補助がある。頭の中にスーパーコンピュータが内臓されているようなものだ。この調子でパターン化に成功できれば、今日中に全データを把握することができるだろう。

(まあ、あの教授が易々とパターン化できるような程度の暗号を使用しているわけはないだろうがな──この数列も一見ただの十六進数のようだが、ブラフに思えてならない……うまく引っ掛けられているような気がする。先程のRSA暗号の素因数分解から推察するに……)

複雑な思考に没頭していたジェノスの耳に、扉がノックされる音が届いた。顔を上げてそちらを窺う。三分の一ほどドアを開けて、その隙間から顔を出してきたのは、ジェノスも知る男だった。

「やあ、ジェノス氏。進捗どうだい?」
「……アーデルハイドか」
「ハイジって呼んでくれってば」

そう言って、ハイジは子供のように屈託なく笑う。すらりと背が高く、八頭身のモデル体型で、顔立ちも彫りが深く精悍であり、羽織った白衣は二枚目の映画俳優のように似合っているのだが──どうにも表情や言動が幼いので、妙なズレのようなものを感じさせる。

「毒殺天使ちゃんが来てくれたんだ」
「シキミが?」
「うん。なんか教授に用があったみたいで、いま上の階の客間で話してる。ついでに差し入れ持ってきてくれたんだ。おいしそうなケーキだったよ。ちょっと休憩しようぜ。一緒に食べよう」
「……そうだな」

ファイルを閉じて書棚に戻し、ジェノスは素直にハイジの提案に応じた。正直なところ、やや困憊していたのも事実だった──疲れたときには甘いものだと、相場は決まっている。

ハイジと連れ立って、協会本部の廊下を進んでいく。

宇宙海賊の襲来によって壊滅的被害を受けたここA市の復興は順調に進んでいるらしかった。なんでも新しく道路を建設するプランが発足しているそうだ。蜘蛛の巣のように交通網を張り巡らせ、どの街にも迅速に駆けつけることができるようにするとのことだった。それと同時に協会本部の改築にも着手し、既存の防御壁を更に強化すると共に居住スペースを新設、A級以上のヒーローに移住する権利を与えるらしい──あくまで計画段階なので公には発表されていないが、そこかしこを慌ただしく往来する関係者の姿を見るに、急ピッチで作業に取り掛かっているのだろう。

「なにか手掛かりになりそうなことはあったかい?」

エレベーターに乗り込んだところで、ハイジがそう訊ねてきた。周囲に人のいない、盗み聞かれる心配のない密室になったタイミングを選んだようだ。この男にもそれくらいの知恵はあるんだな、と限りなく上から目線の感想を抱きつつ、ジェノスは腕をこまねいて小さく首を横に振った。

「いや──ヒズミの体について知らなかったことをいくつか知ることはできたが、捜索のヒントになるような発見は、これといってなかった」
「そうかい。残念だったね……でも、前進しているのには間違いないだろ?」
「どうだろうな。……そう思いたいが」

彼女は今もどこかで泣いているのかも知れない。

望まぬ変異に苛まれる、不安定な生命を抱えて。
敵だらけの世界で、たったひとり、頬を濡らしている。
そう考えるだけで気が狂いそうになるのだ。

早く会いたい。
抱きしめて涙を拭いてやりたい。

柔らかい彼女に触れたい──それだけだった。

「ジェノス氏は本当にヒズミのことが好きなんだね」
「なにか文句でもあるのか」
「違うよ。いいなあ、って思って。羨ましいんだ」
「羨ましい?」
「俺、そんなふうに恋したことないから」

ハイジはどこか寂しげに、遠い目をして言った。ジェノスはそんな彼を、ほんの少しだけ訝る。

彼は自分よりも年上に見える。骨格や筋肉の成長具合から推測するに、二十代の半ば──サイタマと同年代くらいだろう。それでいて恋愛感情のひとつも抱いたことがないというのは、いささか常識の範疇から外れている気がする。まあ例に挙げたサイタマもさして女性に興味があるふうではないし、同じく歳の近いヒズミだって男女交際の経験は皆無だと話していた。現代社会に生きる人間とは、得てしてそういうものなのだろうか。

「いつか俺も素敵な女性と出会えるといいなあ」
「そうだな」
「ヒズミみたいに、強くて綺麗でカッコいい人がいい」
「ヒズミに手を出してみろ。燃やすからな」
「……君って、すごく怖いヤツだよね」

真面目に引いているハイジを黙殺して、ジェノスはちょうど役目を果たしたエレベーターから降りた。背後からぴょこぴょこついてくるハイジと、ベルティーユの所有する客間を目指す。



これでもかと高級感を漂わせる調度品の数々が設えられた広い部屋は、つい昨日ジェノスとベルティーユとその子供ふたりが騒々しい朝食を囲んだのと同じ空間だった。しかしシキミはそんなことを知る由もない。庶民には馴染みのないセレブリティな空気の充満する室内で、借りてきた猫のようにひたすら縮み上がっていた。

尻を置いただけでどこまでも沈んでいきそうな、ふかふかのカウチ・ソファに坐してがちがちに全身を強張らせているシキミに、ベルティーユは女神のように笑う。テーブルを挟んで向かい合う二人の前に、ドロワットが優雅な所作で紅茶の注がれたカップを置いた。

「そう緊張しないでくれたまえ。お茶でも飲んで、リラックスするといい」
「はい……すみません、こういうの、慣れてなくて」
「それだけかい?」

少女めいた悪戯っぽい仕種で小首を傾げるベルティーユ。シキミは膝の上に置いて握りしめていた拳に、いっそう力を込めた。

「……お見通しみたいですね」
「私が君をプライヴェートで招待するのは、別にこれが初めてじゃあないからね。君がそこまで震え上がる理由として、君を取り囲む家具の値段は相応しくないと思っただけさ」
「……………………」
「話があるんじゃないのかい? このベルティーユ・Q・ラプラスに」
「……………………」
「安心したまえ。私は饒舌な女だが、決して口は軽くない。患者の秘密は守る。ゴーシュとドロワットが常に目を光らせているから、盗撮や盗聴の心配もないよ」

諭すようなベルティーユの口調に──シキミは重い口を開いた。

「ずっと、迷ってたんです」

髪を垂らして俯いたまま、細い声を絞り出す。

「あたしが今まで隠してきたことを、打ち明けていいのかどうか──本当はお墓まで持ってくつもりだったんです。誰にも話さずに、死ぬまで秘密にしてようと思ってたんですけれど」
「けれど?」
「……あたしのことを、好きだって、大事だって言ってくれる人がいるんです」
「ほう。素晴らしいことだね」
「そうです。素晴らしいことなんです。それで、あたしは、あたしなりに悩んで……考えて、その人に一生ついていこうって決めたんです。だから──今のままじゃ、いけないんです」

シキミは顔を上げて。

「教授は前に、あたしに言ってくれましたよね。なにかあれば力になってくれるって。より詳しく検査して、誰よりあたしについて深く理解して、正しく分析できるって」

頷くベルティーユを真っ向から見据える。

「その通りだ。間違いない」
「あたし、教授には全部お話します。自分がどうして“こうなった”のか、自分がどういうイキモノなのか……だから……だから、お願いします」

深々と頭を下げて、シキミは続ける。
必死に飲み下そうとして飲み込めなかった言葉を。

不安の重圧に押し潰されそうになりながら──
敬愛する彼への想いだけを支えにして。
ずっと押し殺していた願いを。
胸の底から吐き出した。

「──あたしを“解毒”してください」