eXtra Youthquake Zone | ナノ





「救命ボートの用意が整いました。乗客の皆様の避難誘導を始めたいのですが、よろしいですか?」

船長の言葉に、スコーピオは一瞬の間を置いてから、首を縦に振った。正直なところ、予測していたよりずっと早かった。当初の計画ではヒーロー全員を無力化してから、自分たちだけでレスキュー作業を行い、船が空っぽになってから船底貨物室のコンテナに隠したダイナマイトを遠隔操作で爆発させ、あとから捜査機関の手が及ばぬようすべてを海の底に沈める手筈だったのだけれど──少しずつ予定が狂ってきている。

(くそっ──まだここに帰還してきたヒーローが一人もいないのを見るに、制圧は順調に進行しているようだが……油断はできない。いっそ安全策を優先する意味で、既に拘束したヒーローの救助に移らせるか。たかだかテロリスト集団にしてやられたヒーローどもを我々が命からがら助け出し、甲斐甲斐しく脱出の手伝いをしてやったことにできれば、それでも及第点だろう……)

そう決断を下し、作戦変更の旨と新たな指令を飛ばすべく通信機を取ったスコーピオだったが──血相を変えて転がり込んできたヒーロー協会の構成員が持ってきた驚くべき報告を受けて、彼の手は止まった。

「大変ですっ! セレモニー・ホールの扉が、何者かによって閉鎖されてしまっていますっ!」
「……なんだと……?」

セキュリティ・システムによるロックが作動してしまっていて、押しても引いてもびくともしないらしい。抉じ開けられないのか、と訊ねてみたが、無理矢理に力を加えるとセンサーが反応して警報が鳴る仕組みになっているとのことだった。そんなことになってしまったら、ホールで会食を楽しんでいるパーティーの招待客たちに安全の保障を確約する前に、この異常事態が知られてしまう──まるで爆破予告を隠蔽するかのように水面下で事態を動かしていたことがバレて、不信感を与えてしまうだろう。

パニックが勃発するのは目に見えている。皆が我先にと救命ボートに押し寄せ、秩序ある救助活動が困難になる。最悪の事態だ。

人の手による妨害工作なのは明らかだったが、部下の誰にもそんな指示は出していない。スコーピオは額に脂汗を滲ませながら思索を巡らせて──とある人物の顔を脳裏に過ぎらせた。煮ても焼いても食えそうにはなく、一体なにを考えているんだかわかったものじゃあない、頭脳労働役として雇った、あの男。

(──アドバイザーの仕業か!)

セキュリティ・システムを統括している制御系統サーバへの不正アクセス──高度な技術と知識が必要不可欠なハッキング行為を易々としてのけられるのは彼くらいしかいない。管理室のスーパー・コンピュータを回線ごとウイルスで汚染して、監視カメラの録画機能と過去の映像をまとめてクラックしたのも彼の独力だ。

そのついでに、作戦の進行が遅れているのを察して、足止めを決行したのだろう──時間稼ぎを強行したのだろう。

(あの男、なんてことを──しかも独断で──)

怒りで脳味噌が一気に沸騰しかけたスコーピオだったが、すぐに冷めた。トップであるスコーピオに相談もなしに、許可も取らずに状況を大きく変えてしまったのは許しがたかったけれど、反逆の一歩手前くらいの行為だったけれど──これは紛れもなくチャンスだった。

パーティーの終了予定時刻まで、まだ一時間ほどある。それだけの猶予が生まれたということだ。しかし「気分が悪くなったから救護室に行きたい」という者が出ないとは限らないので、油断は許されない。招待客が閉じ込められていることに気づく前に、全ヒーローを戦闘不能に陥らせて、ヴァルハラ・カンパニーが勝利を収めなければならなくなった。引き際を先延ばしにした代わりに、タイム・リミットが明確になった形だった。

スコーピオは蛇のように昏い眼差しで、唇を噛む。



(相当なハイリスク、ハイリターンのミッションになってしまったが──泣き言を吐いてはいられない。好機と捉えるべきだ。大至急、総力を挙げて残りのヒーローを狩り、避難に移らなければならない。我々に残された道はそれだけだ!)



「……って、スコーピオ閣下は考えているんだろうね」

間延びした緊張感に欠ける調子で、客室のカウチ・ソファにどっしりと腰を据えている“アドバイザー”は笑った。自前らしいルービックキューブをかちゃかちゃと弄繰り回しながら、組んだ脚の爪先をふらふらと揺らしている。

「ポジティヴなのは、素晴らしいことだよね。うんうん。僕は敬意を表するよ。でもそれとこれとは別だ。ここまで僕がお膳立てしてあげたんだから、ちゃんと仕事を果たしてもらわないとね。まあ──正直もう、望み薄だけれど」

彼の前のローテーブルには、ノートパソコンが開かれている。複数のウインドウが開いていて、キーボードには誰も触れていないのに、それぞれに猛烈なスピードで文字列が更新されている──予め周到に組まれた攻撃プログラムが自動的に働いて、船のセキュリティ・システムを内側から書き換えていた。

「え? どうしてかって? そりゃあ──彼が乗っているからさ。彼に出張ってこられたんじゃ、もう勝ち目はないよ。……毒殺天使ちゃんが来賓ゲストとして招待されてるって情報を得た時点で、プロジェクトを見直すべきだったかもね。今更そんなこと言ったって後の祭りで、覆水は盆に返らないし──なにより、彼を力で屈服させるなんて、どれだけ頭を働かせたって、どれだけ姑息な手段を使ったって、ヴァルハラ・カンパニーの連中には無理だけれどね。それくらいの障碍なのさ──あの“先生”はね」

彼の手中で、ルービックキューブがくるくると踊っている。

「グレーヴィチ御大の研究所で、彼の強さは僕も思い知らされた。いずれは消さなきゃならないだろうが、それは今じゃない。今じゃなくてもいい。やり方はいくらでもあるんだ。焦ることはないよ。今日は──今日の僕に課せられた任務を果たすことが最優先だ」

あっという間に六面すべての色が揃う手前まで来て、完成まであと一歩に迫ったルービックキューブを、彼は再びぐちゃぐちゃに乱してしてしまう。さっきまで彼がしていた本来の遊び方より──パズルを解いていたときよりむしろ嬉々としながら、鼻唄混じりで整列した正方形を壊していく。

「……そう怖い顔をしないでほしいな。安心してくれよ、君たちに迷惑を掛けることはしない。それだけは宣言しておくよ。この僕の──天下のイサハヤさんの名に懸けてね」

糸のように細い目をさらに絞って、彼は──“アドバイザー”は嗤う。
底知れぬ闇を内包した胸の内をその笑顔で隠すように。

「なに? ……“既に迷惑は散々被ってる”って? おいおい、ひどいなあ、兄弟。家族のちょっとしたわがままくらい聞いてくれたっていいじゃないか。あの件については、僕だってなにも無計画にゴネてるわけじゃないんだから。うまくいかなかったときのことは、ちゃんと考えてるさ。尻拭いはするよ。……なにはともあれ、ひとまずは現状をどうにかしないとね。そろそろクライマックスだし、盛大にお見送りしてやるとしようじゃないか──産声を上げて間もなく大海に散る、この哀れな『セント・クラシカル・ネプチューン』号をね」

アドバイザーの芝居がかった台詞の最後は、騒々しい足音に掻き消されてしまっていた。何者かがこちらへ向かってくる明確な気配にも、彼は綽々とした態度を崩さない。軽佻浮薄なくらいの素振りで、手遊びをやめようとしなかった。

勢いよくドアを開け放って飛び込んできた汗だくのスコーピオに、アドバイザーは「やあ」と軽く手を挙げた。軽率な行動に反省の色を呈するでもなく、恩着せがましく自らの機転を誇示するでもなく、普段通りの飄々とした振る舞いでいる彼に──スコーピオは叱責する気力も削がれたのか、がっくりと肩を落とした。

「……よくもやってくれたな、貴様」
「すいませんね。これが最善策だと思ったもので。打診する時間もなさそうだったので、勝手に断行させていただきました。……お怒りでいらっしゃいます?」
「……いや」

スコーピオは上がった呼吸を整えつつ、アドバイザーの質問を否定した。諦めの濃い仕種だった。

「こうなってしまったら、仕方がない──もう取り返しはつかない。このまま突っ走るしかない。総員にヒーロー狩りを続行するよう指令を出した。じきに完遂できるだろう。それが済み次第すぐさま救助に移る。自分たちで倒した連中を自分たちで介抱するというのも、実に間抜けな話だが、もとよりそういう作戦だ……お前もすぐに避難できるよう準備をしておけ。パーティーの招待リストにお前を入れてあるから、乗客の振りをして救命ボートに乗り込め。正式契約を結ぶときにも伝えたように、我々ヴァルハラ・カンパニーは、お前の脚が埠頭の桟橋を踏みしめたその瞬間に、お前との協力関係を打ち切る。あとのことは自分でなんとかしろ。いいな?」
「重々わかっておりますよ、閣下」
「……まあ、我々とお前にはグレーヴィチ研究所で辛酸を舐めた縁がある。今回の共同戦線も、そこから繋がったわけだ──今後もしも根なし草のお前が路頭に迷うことがあったら、俺が拾ってやってもいい……お前のその不気味なまでの抜け目のなさがあれば、そうはならんだろうがな。……ところで」
「なんでしょう?」
「お前、さっき誰かと喋っていなかったか?」

俺が部屋に入る前から、声がしていた気がするのだが──と。
別段とりたてて興味があるふうでもなく、世間話の一環としてそんなことを訊いてきたスコーピオに、アドバイザーは──イサハヤは、道化師じみた純然たる愉悦に満ちた笑みを殊更に深くして、答える。

「ただの独り言ですよ」