eXtra Youthquake Zone | ナノ





展望ラウンジからオープン・デッキに出たシキミを出迎えたのは、まるで夢みたいな満天の星空であった。黒々と広がる夜の海と空との境目は溶融してしまったかのように判然とせず、宇宙空間を漂っているような錯覚に囚われる。全身を撫でて通りすぎていく風に含まれた潮の香りが優しく鼻孔をくすぐった。

闇を鮮やかに彩る『セント・クラシカル・ネプチューン』号の色とりどりのネオンは天国のように幻想的で、とてもロマンチックな景色だったけれど──ラウンジ内に設えられたバー・カウンターでノンアルコールカクテルでも飲みながらセレブリティな雰囲気に浸りたいところだったけれど、残念ながらそんな優雅なひとときを過ごしている場合ではない。

せっかく綺麗におめかしをして。
お姫様みたいなドレスまで着て。
年上の恋人と一緒にいるけれど。
だからといってここぞとばかりにいちゃいちゃしている場合ではないのだ。

「うおー、すげえ眺め。めっちゃ綺麗だな」

遅れてオープン・デッキに足を踏み入れてきたサイタマが、感嘆の声を漏らした。きょろきょろと辺りを見回して、あんぐりと口を開けている。きっと本気で美しい夜景に見蕩れているのだろう。

爆弾なんて、ひとつも探しちゃいないのだろう。

「……怪しいものは、なさそうですね」

ぐるりと一周してみたものの、それらしき危険物は見当たらなかった。シキミは額の汗を拭う。厚く塗ったファンデーションが手の甲に付着していたが、そんなことに構ってはいられない。

「あっ、そうだ、シキミ、ちょっと」
「? なにかありましたか?」
「いや違う。いいから、ちょっとこっち来い」

付近でうろうろしていたサイタマが、なにか思いついたふうにシキミを手招きした。訝りながらも素直に寄ってきたシキミを──サイタマは、ひょいっ、と担ぎ上げてしまう。

「ひぇえっ!?」
「あれ、お前こんな軽かったか? 痩せたんじゃね?」
「え、ちょっ、やだ、先生!? なにを──」

混乱しているシキミを抱き上げたまま、サイタマはデッキに取り付けられた落下防止の柵をよじ登って超えて、鳥類の嘴のように尖った船首に上っていく。

「せ、先生っ! 危ないですよ! 落ちますって!」
「大丈夫だってば。落ちても拾うから」
「そういう問題で──はっ!?」

本当に縁ぎりぎりの、海面が目視できる位置で、すとん、と降ろされた。ひとたびバランスを崩せば数十メートル真っ逆さま、海の藻屑と化してしまうだろう。不安定な足場への恐怖に支配されて涙目になっていたシキミを、サイタマが後ろから「よいしょ」と改めて抱きしめた。左腕を腹部に回して固定して、右腕でシキミの手首を取る。

「ちょっとちょっと先生なにするんですかちょっ」
「シキミ、そのまま両手を、こう……こんな感じで……」

強引に両腕を水平に持ち上げさせられた。まるで鳥が羽ばたこうと翼を広げたときのような──

……なんだか見覚えのあるポーズだった。
そう──あの、豪華客船が舞台の、有名な映画で──

「エンダアアアアアアアアアアアアアアイヤアアアアアア!!」
「やっぱりいいいいいいいいいい!!!!」

サイタマ渾身の熱唱と。
シキミの絶叫が大海原に響き渡った。

「やめてくださいマジで!! 縁起でもない!!」
「え? ……あ、そっか、アレそういやラストで沈むな」
「あとそれタイタニックの曲じゃないです……別の映画です……」
「ええっ!? そうなの!? うっわ俺かなり恥ずかしいじゃねーかコレ」

それはこっちの台詞だ、と反論したい思いを、シキミはぐっと飲み込んだ。恐怖が薄らいだことで、代わりに途方もない羞恥がシキミを襲っていた。この緊急事態になにをやっているんだ、こんなふうに密着して抱き合って、誰も見ていないからいいけど、いやよくないけど──と脳内をぐるぐる席巻しながらも少しずつ冷静さを取り戻しつつあった思考が、背後から飛び込んできた怒鳴り声によってまたもや引っ繰り返された。

「ちょっとー! あなたたち、なにやってるんですかーっ!」

ぎょっとしてそちらに首を回すと、トーラスがいた。目深にフードを被って、マフラーも巻いて、これから雪山を登りに行きますみたいな例の格好で、奇行に興じるサイタマとシキミを唖然と見つめていた。

「そこ危ないですからー! 戻ってきてくださーい!」
「……チッ。邪魔しやがって……」

忌々しそうに吐き捨てたサイタマとは対照的に、シキミは安堵に胸を撫で下ろしていた。渋々といったふうなサイタマに再度よいしょと担がれて、二人はようやくデッキに戻る。生きた心地が蘇ってきて、シキミは心底げんなりしつつ、よれてしまったドレスの裾を直した。

「お前、ここの調査担当なの?」

サイタマの質問に、トーラスは答えなかった。きょとんと目を大きくして、不思議そうな表情を浮かべて、ややあってから思い出したように「あっ」と手を打った。フードを脱いで、その下に隠れていた分厚い耳当てを外す。

「道理で聞こえづらいと思った。えーっと、なんの話でした?」

エマージェンシーの最中にあっても、トーラスのマイペースっぷりは不変のようだった。もしかしたら彼の表情筋は微笑しか機能を備えていないのかも知れない。サイタマは辛抱強く同じ問いを繰り返した。

「ここの調査に来たのか?」
「ええ、そのように命令されました。あとから警備員の人たちも来て、手分けして調べる予定だったんですけど……あらかた終わっちゃってます?」
「一通り見回ってみましたが、不審物はありませんでした」
「そうですか。ご協力、感謝します」
「いえ──あたしたちにできることなら、なんでも」
「頼りにしてますよ。とりあえず操舵室にいるクレーシヴァルさんのとこに行って、オープン・デッキにそれらしきものはなかったと報告しましょう。一緒に来てもらえますか?」
「はいっ! 勿論です」
「急ぎましょう。早くしないと、警備員の人たちとすれ違いになってしまう」

別段とくに焦っているふうでもなく、トーラスは耳当てを戻し、フードを被り直した。そして、ぶるぶるっ、と大袈裟なくらいに身震いする。

「いやあ、外は寒いですねえ」
「……寒いか?」
「もう凍えそうですよ。風もありますしね。早く家に帰って、あったかいココアが飲みたい……うー、さぶさぶ」

寒がり──というには少し、程度が激しすぎた。シャツにベストを重ねたタキシードのサイタマはまだしも、シキミに至っては袖のないドレスを着ているが、肌寒さなどまったく感じていない。氷を操る能力を持っているくせに──“しろくま”などと呼ばれているくせに、こうも冷気に弱いのか。いや、それ所以なのかも知れないが──どっちにしたって、事態が収束するまでは耐えてもらわなければならない。船ごと海の底に沈んで魚の餌と成り果てる危険に晒された乗客たちを安全に陸地へ送り届けるまで、ヒーローに安息はないのだ。

シキミは港の方角へと目を凝らす。
しかし夜の帳が下りた世界は延々と真っ暗闇だった。
退路は、どこにも見えなかった。



厳重に閉ざされたゲームセンターと裏の従業員通路を隔てる巨大な扉は見た目通りに重たく、ほとんど体当たりくらいの力でやっと少し動かすことができた。そうして空いた隙間から、ハイジは中をそっと覗き込む。迂闊に内部に侵入しなかったのは用心ゆえのブレーキだったが、それが功を奏していた。

広々とした空間全体が、白く霞んでいる。
ステージの上で踊り子の舞うダンス・ショウのためにスモークが焚かれているわけでもない──今日は健全な式典の日である。そんな大人向けの娯楽が催される予定はない。

(……ガス撒いたんだな。結構まだ残留してる。でも拡散性が強くて、だいぶ薄まってるみたいだ……となると)

ハンカチで口元を覆い隠しながら、ハイジは行儀悪く足でドアを押して開け放った。新たに空気の流れ道が形成されたことで、溜まっていたガスが滑るようにハイジの方へ押し寄せてくる。致死性の毒素を含んだガスであったなら、布切れ一枚しか防衛手段を持たないハイジはひとたまりもなかったのだが──そうでないことを、彼は“識って”いる。

爆破予告がヴァルハラ・カンパニーによる壮大なブラフであることを、さっき“記憶”した船内の映像や、これまでに執ってきた作戦行動の方針から、彼は既に確信しているのだ。

(ヒーロー協会の人に聞いた話じゃ、ゲリラ集団の襲撃を受けたとかって報告を上げてるみたいだけど──そんな物騒な部外者が何十人もうろうろしてたらさすがに誰か気づくよ。この船に監視カメラ何台あると思ってんだ……大方はったりでヒーロー協会に恥かかせて、自分たちの手柄をでっち上げようって魂胆なんだろうな。そういう計画なら、まかり間違っても死人が出るような方法は取らない。そんなことになったら彼らの信用はさらに落ちる。彼らの本分は警護だからね。あくまで犠牲者のない、平和的な解決が狙いのはずだ。切羽詰まった人間ってのは恐ろしいもんだよね、本当──)

そう。
恐ろしいのだ──背水の陣に立った者というのは。
もう後がないからこそ、失うものを持たないからこそ。
なんだって、やってのけられる。

たとえば万が一にも、この無謀な計画が頓挫したとき──
すべてを無に帰すために、一切の証拠を自分たち諸共この大海の底へ沈めるくらいのことは。

覚悟の上で──織り込み済みなのだろう。

(爆破予告が嘘であることと、この船に爆弾を積んでいないということは、イコールにならない──最初にヒーロー協会にわざと“見つけさせた”ダイナマイト以外にも、十中八九、ヤツらは兵器を持ち込んでる)

しかしそれはほとんどの下っ端には知らされていない、とハイジは推測している。失敗したら一家心中ならぬ“一社心中”だなんて、忠誠心の低い末端の平社員は確実に尻込みしてしまう。全部バラして命だけでも助かろうとする者もあるかも知れない。そんな敵前逃亡を防ぐためにも、最終手段は伏せているはずなのだ。

(彼らのうち、どこまでが“それ”を知っているのか、それが問題だなあ……急いで頭をとっ捕まえてリーサル・ウェポンの在処を吐かせないと、この船、マジで夜明け前に幽霊船になっちゃうよ)

想定していたよりもガスの濃度が高く、これ以上は踏み込めないな、とハイジは即時に判断を下した。分析能力が誰より優秀であるゆえに、見る者がいれば呆れるであろうくらいに見切りが潔い──諦めが早い。

このゲームセンターのどこかに制圧されたヒーローが拘束されていることを予見して、ここまで人目を掻い潜りながらやってきたはいいが、独力では救出できそうにない。応援を呼ぼうと思えば困難ではないが、確かこの領域の担当に選ばれたのはC級ヒーロー二名だったはずだ。わざわざ人員と時間を割いてまで戦線に復帰させる意味がある人材ではない。見捨てていくことへの罪悪感はあったが、そんなことに構っている場合ではないのだ。

(ごめんよ──君たちの仇は、ジェノス氏とサイタマ氏とシキミが取ってくれるから。……たぶん)

心中で謝罪を述べて、ハイジは踏ん張って扉を閉めた。さて──ひとまずはジェノスか、もしくはサイタマと合流するのがいいだろう。途中でヴァルハラ・カンパニーの警備員とエンカウントしないことを神に祈りつつ、ハイジは『セント・クラシカル・ネプチューン』号の薄暗い廊下を駆け抜けていった。