eXtra Youthquake Zone | ナノ





アイドル・タイムのファミレスに、いつものメンバーが勢揃いしていた。

シキミとツルコとヒメノ──彼女らが通う高校の教師を以てして「女版ズッコケトリオ」と呼ばれる三人で集まって、残すところ僅かとなった夏休みの課題と奮闘しているのだった。寄らば文殊の知恵──ということらしい。禁煙席を陣取って、問題集を相手に火花を散らしている。

「だから、これは(u,v)で同じ接線を持つから、この点での接線の傾きは等しいわけでしょ? それでC1:y=3x^2だから……こうなって……こうなるでしょ……」
「ちょっと待ってゴメンついてけてない」
「なんでだよ! ここまで丁寧にやってんのに! ツルコあんたマジで数Aからやり直したら? むしろ算数から復習してきたら?」
「もうやだー! シキミー! ヒメノが怖いんだけどー!」

シャープペンを投げ出して、ツルコは隣に座るシキミに縋りついた。しかしシキミはシキミで余裕がないので──苦手科目である英語の文章題の解読に必死こいているので、どうしたって友人の救いを求める声にもリアクションが薄かった。

「わかったから黙ってやんなさいよ」
「うわあああ! シキミまで冷たい! 絶対零度!」
「うるっさいなー、こっちだっていっぱいいっぱいなんだってば」
「確かにシキミ、文系まるでダメだもんねえ。理数系は優秀なのに。わざとやってんのかってくらい差があるってゆーか」
「しょーがないじゃん、なんか現代文とかって、答えが曖昧なんだもん。このときの主人公の心情を百字以内で述べよ、とか言われたってさ、そんなの知らないっつーの。作者に聞いてこいっつーの」
「ひぃい……シキミが荒れている……毒殺天使が……」

大袈裟に怯えてみせるツルコ。シキミは溜息をひとつ吐いて、ドリンクバーのペプシネックスで喉を潤した。溶けた氷で味が薄まってしまっていて、あまりおいしくない。

「とにかく、間違ってようが正解してようが課題なんて提出したもん勝ちなんだから。夏休みもうあと十日もないんだよ? わかったら、はい! 手を動かす!」
「くうっ、この鬼教官め……」
「誰が鬼教官だ。あんたらのためにやってんだっつの」

分厚い辞書の背でツルコの脳天にチョップを決め、ヒメノはソファにふんぞり返る。彼女は既に夏期休暇に課せられたすべての責務を終えているので、こうして間に合っていない二人にあれこれと世話を焼いているのだが──なかなかに困難な仕事だった。

「大体ねえ、毎日ちょっとずつでも片付けてたら今こんなふうに焦らなくて済んだんだよ? 海だのなんだの行って遊び呆ける暇があったなら、寝る前に一ページでも二ページでもやっておけばよかったんだよ。ツルコ聞いてんの?」
「それはシキミにも言えることじゃん」
「シキミは忙しかったでしょ。ロックフェスもあったし、でっかい樹のこともあったし、昨日だって銀行強盗とかあったし。ヒーローに休みはないんだから」
「なんでヒメノがそんな自慢げなのさ」
「別に自慢してるわけじゃないし。むしろ心配してんだけど。あんな事件があった昨日の今日で、シキミ、こんなところでのんびり勉強してていいの?」

ヒメノの問いに、シキミは「まあねー」と曖昧に答える。

「怪我とかしたわけじゃないし。今回は被害がないうちに解決したから、マスコミのバッシングも少ないみたいだし。なんか問題があったら協会から連絡が来るよ」
「なんか淡々としてんねえ」
「ランキング上がるんじゃないかって、テレビで言ってたけど」
「うーん、ランキングには興味ないからなあ。……でも、まあ、ありがたい話なんだけどね。正直いろいろあって、あたし今あんまり協会内での立場よくないし──」

そう──いろいろあった。

なにせ協会の上層部が、喉から手が出るほど欲しがっている情報を持った唯一の重要参考人の逃走を手助けしたのだ。如何せんデリケートなトラブルなので、そのことを表向きには咎められなかったが、ただの譴責さえも科せられなかったが──これ以上の勝手は許さない、という目に見えない圧力が、今のシキミには掛けられている。

彼女は現在、第一級指名手配犯として目下捜索中であるらしい。それは一般には公表されていない指令なので、恐らくツルコもヒメノも知らないだろう。

なぜ彼女の──“ホワイト・アウト・サイダー”の情報が秘匿されているのか、その真意こそ通達されてはいないものの、推測は簡単にできる。まずひとつは、協会の今後を左右しかねない重大な鍵を握る彼女を易々と取り逃がした失態の隠蔽。そしてもうひとつ──彼女を捕縛した後で非合法な尋問を行うのに、恐らく民衆から湧き立つであろう義憤が障碍にしかならないからだ。

なぜなら彼女は、かの大樹“ハルピュイア”の討伐において、最も貢献した存在であると世間に信じられている。

民間のヘリコプターが上空から撮影した、倒壊したハルピュイアから己の脚で脱出し、超然と佇む血に塗れた神郷的でさえあった彼女の映像──それは市民たちに“彼女こそが救世主である”と思わせるには充分すぎる光景であった。すぐさま報道規制が敷かれてしまったので現在その一件はマスメディアにとって禁忌となっているが、インターネットの掲示板などではいまだ激しく議論が交わされている。彼女を天使のように崇拝するスレッドも散見されるほどだ。

この調子では、いずれ彼女の失踪は明るみに出てしまうだろう、とシキミは思っている。協会の権力で操作できるレベルを既に超えつつある──掌握できるエリアを既に外れつつある。そうなったとき、一体どうなってしまうのだろう。

「……大丈夫なの? それって」

ヒメノの心配そうな声音に、シキミはふと我に返る。ツルコも表情を曇らせていた。シキミは慌てて笑顔を作り、なんでもないというふうに首を横に振った。

「大丈夫だよ。まあ大変だけど、でもたとえどうなったって、あたしはヒーローとしての活動を続けるだけだし」
「無理しないでよね」
「わかってる」

なるようにしかならないように、この世界はできている。
先は見通せないけれど──脚は動く。
体は軽い。
そして追うべき彼の背中が、道を作ってくれる。
まっすぐ走れる。きっと過去さえも振り切れる。

今の自分に、恐るべきものなどなにもない。

「…………わかってるよ」

そう──思いたい。



ゴーストタウンの寂れた街並みに、子供たちの帰宅を促す夕焼け小焼けのチャイムが流れている。住む者が誰もいなくなって久しいこの場所に響くその旋律は、どこか物悲しい。空は暮れかかっているものの、まだ明るさを残している。青と赤のマーブルに彩られた雲のはっきりとした陰影が、ゆっくりと気の遠くなるような速度で泳いでいく。

「シキミ」

背後から掛けられた名を呼ぶ声に振り向くと、ジェノスがこちらへ歩み寄ってくるところだった。シキミは目を大きくして、足を止めた。

「奇遇ですね」
「買い物にでも行っていたのか?」
「いえ。今日は友人と夏休みの課題を……駅前のファミレスで」
「そうか。ご苦労なことだ」
「学生の宿命ですよ」

並んで帰路を共にしながら、そういえばこんなふうに彼とふたりでゆっくり語らったことなんて今までなかったな、とぼんやりシキミは思った。しばらくの付き合いを経て、ジェノスが饒舌というほどではないにせよ無口な質でもない、ということは理解していたので、シキミは彼に積極的に話を振ってみることにした。

「ジェノスさんは、教授のところに行っていたと聞きましたが」
「ああ。少し仕事を手伝いにな」
「仕事……ですか」
「ヒズミの捜索任務だ」
「ヒズミさんの?」

驚いて声のトーンを上げたシキミに構わず、ジェノスは続ける。

「ヒズミと交流が深く、去り際まで側にいたから、最もヒズミの行動パターンを予測できうる人物であるという理由から抜擢された。教授本人の希望もあったらしい。失踪直前にヒズミから一撃もらった借りを返したいとかなんとか、幹部連中に直訴したそうだ」
「ヒズミさんが教授に攻撃したっていうのは聞いてましたけど……びっくりしましたけど、教授それで怪我されたんですか?」
「いや、無事だ。ヒズミの行動は恐らく協会を欺くため──教授にも攻撃を加えることで、教授とヒズミは協定を結んでいない、今回の逃走はヒズミの独断であると思い込ませるためのブラフだったんだろう。本気の雷撃じゃない。せいぜい強烈な電気マッサージ程度だ」
「そう、だったん、ですね……」
「協会サイドの信用を得るために傷の具合を偽装しているようだが、正味なところは腰痛と肩凝りがなくなってむしろ気分がいい、みたいなことを言っていた。まったく呑気なものだ」
「教授らしいですね」
「そうだな」

置き去りにされた民家の角を折れたところで、マンションが見えてきた。サイタマは家にいるのだろうか。帰ったらすぐに夕食の支度に取り掛からねばならない。昨日のセールで買い込んだ食材が残っているはずなので、今晩は有り合わせで済ませてしまおうか──そんな所帯染みたことを考えつつ、シキミはふとジェノスが提げているビニール袋に目を留めた。中央にコンビニのロゴが入っている。

「あれ? なにか買ってきたんですか?」
「……正確には、頼んで調達してもらったものなんだが──」

ジェノスは袋の口を開けてみせた。中を覗き込む。そこに入っていたものに、シキミは吃驚を隠せなかった。

「た……煙草じゃないですか」
「教授に代理で購入してもらった。年齢の都合上、俺には入手できないものだからな」
「吸うんですか?」
「誰が吸うか、こんなもの」

吐き捨てるように言うジェノスに、ますますシキミは混乱する。

「吸わないのに買ってもらったんですか? どうして?」
「これはヒズミが好んで吸っていた銘柄なんだが」
「……………………」
「煙の匂いで、ほんの少しだが、安心できるんだ……あいつの気配を……あいつがすぐ側にいるような気になれる……とでもいうのか……写真もあるが、俺はもう、それだけでは……」
「………………………………」
「姿を消す前に、あいつが残してくれた言葉を、思い出せる……それがあれば、俺は明日からも戦っていける……この先も生きていけると実感できるんだ……俺には、あいつさえいれば……それで……」

どこか陶然と目を細めているジェノスに、シキミは正直ドン引きを禁じ得なかった。要するに惚れた相手の吸っていた煙草の副流煙に、麻薬の常習者ばりの幻想を見ているわけだ。いなくなってしまった愛するひとを重ねて、思い出に浸って胸ときめかせている──女々しいとかいう次元をとっくに超えた、なんとも御しがたい話であった。

「これが噂の……ヤンデレ……!」
「失礼なことを言うな。俺はただヒズミを愛しているだけだ。ヒズミが帰ってきたら、今度こそ俺が守ってみせる。ヒズミは俺に“責任を取れ”と言った。それで俺は目が覚めた。俺はヒズミとの約束を果たす。ヒズミにはもう俺しかいない。ずっと独りぼっちだったのに、故郷まで失って、傷だらけになってしまったヒズミがやっと俺を信じてくれたんだ。俺だけを信じてくれたんだ。だから、ヒズミを本当に幸せにできるのは、この世界に俺だけしか……」
「ヒズミさん逃げてー! 超逃げてー!」

思わず頭を抱えて絶叫するシキミ。

医者が見たら「どうしてこんなになるまで放っておいたんだ」と叱ったのちに匙を投げつけてきそうな塩梅だった。こういう生真面目な人間ほど道を外れるとアレな感じになってしまうという俗説を身を持って思い知った気分だった──こんな状態のジェノスのもとにヒズミが戻ってきたら一体どうなってしまうのだろう。首輪とか手枷とか嵌められて軟禁されるかも知れない。マジで。

(とりあえず、先生には報告しておこう……)

心の内でそんな決意を固めて、シキミは夕暮れの赤に照らされる廃墟地帯を、鉛のように重い足取りで進んでいくのだった。