eXtra Youthquake Zone | ナノ





「お久し振りです、ジェノス様」

不意に呼ばれて顔を上げると、そこにいたのは三十代半ばくらいの男だった。皺のないスーツを姿勢よく着こなしているが、客でないのは一目瞭然だった──船内見学のとき、防護服を着て監視に従事していた連中と同じ腕章を左腕に巻いている。

「……あの研究所以来だな」
「ああ、覚えていてくださいましたか」
「当たり前だ。腰を抜かして震えていた貴様の顔は、印象深かったからな──“スコーピオ”」

ジェノスの容赦ない発言に、スコーピオは苦笑を漏らした。否定できないので、それ以外のリアクションを取りようがないのだった。

かつてジェノスも遭遇して痛手を負った、あのグレーヴィチ研究所での、狂科学者の歪んだ信念が引き起こした大事件──クローディアの餌にならずに済んだのは、彼を含むごくわずかなメンバーだけだったという。ヒーロー協会からの面倒な遣いを追い返しきれなかった守衛や、暴れる双子を取り押さえようとして力及ばず返り討ちに遭った戦闘員は、軒並み喰われてしまったそうだ。グレーヴィチからしたら、使えない下っ端を始末するついでくらいのつもりだったのだろう──彼が愛する娘の凶行によって亡き者となってしまった今、その心の内など誰にもわからないが。

またジェノスたち“部外者”を始末するために解放した化け物を制御しきれず、命を落とした所員も少なくないらしい。そういった経緯があるからして、ほとんど唯一といっていい生き残りのスコーピオは、彼が組織における階級ヒエラルキーのかなり上位に属していたこともあって、過酷な状況下に置かれることになった。警察とヒーロー協会からの事情聴取は、尋問という単語の方が相応しいほどに壮絶を極めたとニーナから聞かされている。抱えていた重要な機密は、血反吐とともにすべて搾り取られたはずだ。

それを鑑みれば、彼が前に会ったときよりも痩せているのも致し方ないことであった。こけた頬、血色の悪い顔、目の下には隈ができている。もとよりこの無慈悲な裏社会に身を置いていた人間を庇ってやる義理はないが、同情くらいならしてやってもいいかも知れない。

「この船の警備に“ヴァルハラ・カンパニー”が噛んでいると聞いて、ひょっとしたらと思ってはいたが……まさか貴様の方から声を掛けてくるとはな」
「その節は、誠に申し訳ございませんでした」
「わざわざ謝罪しに来たのか?」
「いいえ。偶然お見かけしたので、少し世間話でもと思いまして」
「貴様と話すようなことは、なにもないが……」

そこで一度ジェノスは言葉を切った。スコーピオの衣装を改めて確認して、

「それはヒーロー協会指定のスーツだな。買収でもされたのか?」
「いいえ。自分はヴァルハラ・カンパニーから派遣された戦闘員たちの総轄を任されていまして……、要するに監視役ですね。パーティー会場に怪しい者がいないかどうかは勿論のこと、部下がきちんと仕事をしているかどうか、見張っていなければならないのです。会場外の持ち場に立っているだけでいい下っ端ならともかく、こうして歩き回らなければならないとなると、防護服では景観を……華やかな雰囲気を損ねてしまいますから。支給されたこのスーツを着るよう命じられました。他のSPたちも、同じものを」
「協会の言いなりに甘んじているのか。随分と丸くなってしまったものだな」
「今の我々に、ヒーロー協会へ楯突くだけの余力はありませんからね。下手に逆らって会社ごと潰されるわけにはいきませんので」

自嘲気味に口を斜めにして、スコーピオは言った。見ていて気の毒なくらい、もう疲れ果てている──精も根も尽き果てている様子だった。

「そうやって下手に出ているうちに、気づいたら吸収合併されているんじゃないか? 傘下に置かれて、いいように扱き使われるぞ」
「ひどい言い種ですね。雇い主でしょう?」
「協会に雇われているつもりはない。今は必要だから籍を置いているだけだ」
「必要?」
「不本意だがな──後ろ盾がある方が、探し物は見つかりやすい」

ジェノスの意味深長な口振りに、スコーピオは曖昧な相槌を打ちながら、果たして「これは深く聞いてもいい話題なのか?」と自問自答しているようだった。仮にもS級ヒーローであるジェノスの機嫌を損ねるわけにはいかない。土足で越えてはならないラインを見極めなければ──と冷や汗をかいていたスコーピオの目線がふと、違う方向に動いた。そして憎々しげに、押し殺した声を絞り出した。

「……あいつら、また……」

ジェノスもなんとなく振り返って、そちらに意識を移した。スコーピオとジェノスのみでなく、他の招待客たちの視線をも一身に集めながら、豪勢なディナーを心ゆくまで満喫していたのは──カジノでも見かけた、あのド派手な毛皮のコートを着こんだ妙齢の女性だった。

皿に盛られた料理の量は、もはや山というより塔であった。サラダも刺身もカルボナーラのパスタも牛肉のタリアータも、一緒くたに積み重ねられている。初めてビュッフェに訪れた子供の悪ふざけみたいな所業だった。あれでは味の調和もなにもあったものではない。シェフが腕によりをかけて作った、繊細なメニューの数々がこれでもかというほど台無しになっていた。

休憩用に設置された四人掛けの丸いテーブルをひとりで陣取って、彼女はそれらを無心でがつがつと頬張っている。見ていて気持ちのいい食べっぷりではあったが、フォーマルなパーティーの場に相応しい姿ではなかった──実際、彼女に向けられている眼差しは批判的なものが大多数を占めていた。

しかし周りの反応など気にも留めず、マイペースに暴飲暴食を続ける彼女の背後には、あの仰々しい籠手を装着した警備員が、これまたカジノで遭遇したときと同じく、銅像のように控えている。お付きの者なのだろうか。ひょっとしたら彼女はものすごいVIPで、専属のSPが配備されているのか──ジェノスのそんな予想を、スコーピオはいともあっさり覆した。

スコーピオは厳しい面持ちでジェノスに「失礼」と短く断ってから、彼女たちのテーブルにつかつかと早足で歩み寄って、憤慨に満ちた、しかし空気を壊さないようできる限り抑えた声で怒鳴った。

「なにをしている! 遊びじゃないんだぞ!」

憤懣やるかたない様子のスコーピオが発した第一声はジェノスにも聞こえたが、少し離れているので、それ以降は音楽と喧騒に掻き消されて聞き取れなかった。聴覚の感度を上げることもできたが、さして興味があったわけではなかったし、盗み聞きみたいな下卑た真似はしたくない。それに──彼女が羽織っているコートの袖に、スコーピオと同じ腕章がくっついているのは、確認できた。ルーレットで遊んでいた際にはギャラリーに隠れて見えなかったのだが、どうやら彼女は客ではなく、ヴァルハラ・カンパニーから派遣されてきたガードマンのひとりだったようだ。

彼女は不服そうに口を尖らせて、なにやらスコーピオと言い合いをしていたが、やがて白けた表情で席を立ち、どこかへ行ってしまった。その手にはしっかり皿とフォークを持っている。随分と食い意地が張っているようだ──カラフルな髪を揺らしながら去っていく後ろ姿は、まるで孔雀のようだった。

「……………………?」

すかさずそんな彼女の背中についていこうとした付き人と、十数メートル越しに、ジェノスの目が合った。三秒にも満たないわずかな間のみではあったが、付き人とジェノスの視線が確かに交錯して──それだけだった。軽く会釈をしたようにも見えたけれど、勘違いだったかも知れない。すぐに踵を返して、人の波に紛れて消えてしまった。

ハンカチーフで額を拭いながら戻ってきたスコーピオに、ジェノスが問う。

「大変そうだな」
「ええ……とんだじゃじゃ馬ですよ」
「あれもお前の部下なのか?」
「いいえ。あれは人員不足を解消するために外部から雇った、フリーランスの専門家でして……腕は立つのですが、どうにも手綱が引けず……まったく一体なにをしているんだ──“シンデレラ”は」

なるほど、シンデレラときたか──わがままで気性の激しい苦労知らずのプリンセス、といった意味合いだろうか。おとぎ話に出てくる実際のシンデレラは、意地悪な継母たちにいじめられても健気に耐える穏やかな女性だったように思うが、ただのコードネームにそこまで辻褄を合わせる義理もない。ジェノスはさらりと流して、もうすっかり炭酸が抜けてしまって味気のないグラスの中身を傾けた。

「お代わりをお持ちしましょうか?」
「……ああ」

空になったグラスをスコーピオに預けて、ジェノスはやれやれと一息つく。彼の視界の端を、もぐもぐと頬を膨らませているサイタマが掠めた。ようやく機嫌を直したらしい。ハイジがうまく取り成してくれたのか、はたまた時間が経ってどうでもよくなったのか──定かではないが、まあ、どちらにせよ楽しそうなので、そっとしておくことにしよう。

目立ったトラブルも発生していないようだし、この調子なら、なにごともなく式典は平和に終わりそうだ。

……人間の性格というものは、どうしたってなかなか変わらない。幾度となく危機に陥っても、危険に見舞われても、学習が下手だと認識して心を入れ替えても、いくらか喉元を過ぎてしまえば熱さを忘れてしまう。三つ子の魂は百まで続くのだ。

その結果として──
ジェノスは、この油断に足元を掬われることになる。