eXtra Youthquake Zone | ナノ





広い台の中央、窪みに填め込まれたルーレット・ホイールに、大勢の血眼が集中している。

ディーラーがベットの開始を知らせるベルを鳴らした。サイタマはテーブルに赤と黒で書かれた数字の表と、ディーラーがボールを投げ込むのを交互に見て、手持ちのチップを乗せる。大当たり狙いの一目賭けだった──その配当は三十六倍。ハマれば超ド級の儲けを獲得できることになる。

固唾を呑んでボールの行く末を見守るサイタマの後ろで、シキミも両手を組んで祈るようなポーズを取っている。しかし彼らの必死の思いも虚しく、ボールはサイタマのベットとはまったくかすりもしない位置へ静かに収まった。歓声と嘆息と拍手とがそれぞれ同時に沸き起こった。

「ああああああ……」

サイタマは両手でハゲた頭を抱え、台の縁に突っ伏した。シキミがおろおろと慌てふためきながら彼を慰める言葉を探す目の前で、ディーラーが無情にもチップを回収していく。現実は残酷だった。

そして同じディーラーの手から、的中したベットに配当が行われる。敗北を喫したサイタマの左隣に座っているハイジにチップが差し出された。彼はサイタマのような大博打には手を出さず、アウト・サイド・ベットと呼ばれる比較的に狙いやすい賭け方に徹し、堅実に着実に確実に勝ちを重ねている。華々しさに欠ける地味な戦法なのは否めなかったが、それでも彼の手持ちは既に最初の二倍弱まで増えていた。

「なに、サイタマ氏、また負けたの?」
「うるせえ! 放っとけ!」
「そんなふうにドカンと雑に賭けるからだよ。もっと考えなきゃ。履歴とかディーラーさんの動きとか見たら、大体どの辺に転がるかわかってくるじゃん」
「俺にゃお前みたいな分析力ねーんだよ! こんなもんはな、勘なんだよ! 勘!」
「そうやって意地になって泥沼になればいいよ。俺はそのあいだに勝って勝って勝ちまくって、あとでシキミにブランドの店で買い物させてあげるんだ」
「えっ? そ、そんな、あたしはいいですよ」
「遠慮しないでよ。教授に言われてるんだ。男が正装してパーティーに出るからにはレディーに楽しい思い出を作ってあげなければならないぞ、ってね」

色男っぽくウインクしてみせるハイジを、サイタマは鬼の形相で睨んでいる。シキミが遠慮してはいてもやっぱりちょっと嬉しそうなのが余計にサイタマの対抗心を煽っていた。ジェノスは我関せずとばかりに脇で成り行きを傍観していたが、さすがに見るに見かねたのか、口を挟むことにした。

「先生、あちらのテーブルに行かれては?」
「なんか違うの? あっち」
「あちらの台はヨーロピアン・スタイルという、少々プレイヤーに有利なシステムを採用しています。大した違いはありませんが……、気分転換になるのでは? 席が空いているかどうかは、確認してみないとわかりませんが」

ジェノスが指し示した方向を、サイタマは目で追った。なにやら人集りができている。その隙間から、椅子にふんぞり返っている女性の背中が垣間見えた。どこに売っているんだと聞きたくなるド派手な色合いをした毛皮のコートを着ている。腰まで届きそうな長さのある頭髪も、赤と紫とピンクのマーブル模様で、たいそう異様だった。絶対に地毛ではないだろう。手間暇かけて染めているのか、はたまた鬘でも使用しているのか──遠巻きからではわからなかった。

その傍らに、カジノに来る途中で擦れ違った“ヴァルハラ・カンパニー”の派遣警備員と同じ防護服を纏った者が控えている。ごてごてした装備を着用しているのでわかりづらいが、他の男たちと比べると、かなり体躯の線が細い。左手にくっついた肩まで覆う鎧めいた籠手が、照明を反射して重厚感を誇示しながら黒光りしている。ファンタジー系のゲームに出てくる防具みたいだった。体の前で手を組んで、なにもせず立っているだけのように見えるが、周囲に一分の隙もない警戒を走らせているのがシキミとジェノスには伝わっていた。どうやら、そこそこ腕は立つようだ。

「わあ、すごい恰好した女の人がいるね」
「なにあれ? レディー・ガガ?」
「先生、レディー・ガガは知ってるんですね」
「こないだ裸に生肉巻いて踊ってるのテレビで観たぞ」
「どうしますか、先生? あちらのテーブルに移動しますか?」
「…………いや、行かねえ」

少し間を置いて、サイタマは断言した。タキシードの袖をまくって、鼻息荒くルーレットを睨む。

「逃げるみてーだから、なんかやだ」
「負けず嫌いだね。サイタマ氏」
「ヒーローに敵前逃亡は許されねーんだよ。おら、次だよ次! さっさと来いよ! ちくしょー! べらんめー!」
「がんばってください! あたし応援してますのでっ!」
「おう任しとけ! お前にいいもん買って思い出作ってやんのは俺だ! 待ってろ! 一生忘れられねー夜にしてやるからな!」

恥ずかしげもなく吐いた台詞にシキミが口をもごもごさせているのにも気づかず、サイタマはチップをテーブルに叩きつけた。情けない男の見栄と意地と下心を少ない有り金を乗せて、再び円盤が回転しはじめる。



……それから数時間後。

ディナーパーティーが始まって、セレモニー・ホールは貴族の集会めいた絢爛な空気に包まれていた。オーケストラの生演奏によるクラシック音楽がゆったりと流れ、テーブルには一流シェフの拵えた料理が数えきれないほど並んでいる。カクテルを注文するためのカウンターまで用意されていた。無駄に見目のいいバーテンダーが二人、背筋を伸ばして待機している。

なにより目を奪うのは──ホールの中央に設置された、あのネプトゥーヌスの氷像である。

しかしトーラスの姿は見えなかった。たまたま通りすがったメリッサに聞いてみたら、一通り作業が終わったので警備の方に駆り出されたとのことだった。朝から晩まで働きづめらしい。ご苦労様ですと内心で呟いて、縁の下でこの宴を支える彼のためにも、シキミはパーティーを心から楽しむことにした。

新鮮な野菜を贅沢に使ったサラダを食べるシキミの横で、ハイジは薄切りのローストビーフを皿に山盛りにして脇目も振らず口に詰め込んでいるし、ジェノスは林檎風味の炭酸水──無論ノン・アルコールである──をちびちびと飲んでいる。どの品にも手をつけず、ウエイターから勧められた食前酒さえ受け取らず、最終回の矢吹丈がごとく真っ白に燃え尽きているのはサイタマだけだった。

「サイタマ氏、いつまで落ち込んでんの?」
「俺はもうダメだ……死にたい……消えてなくなりたい……」
「なに言ってんだよ。まあでも、あんだけ盛大に負けて素寒貧になっちゃったんだし、気持ちはわからなくもないけどね」
「うるせー! お前に俺のなにがわかるってんだ! 言ってみろ!」

理不尽な激昂でハイジに噛みつくサイタマは、なんとも哀れであった。結局あのあと一度も予想は的中せず、ベルティーユからタキシードと一緒にもらっていた小遣いを残らず使い果たしてしまった彼は、シキミに気前よくショッピングを堪能させてやるどころか今晩パーティー会場からZ市に帰るタクシー代すら失ってしまったのだ。正式な来賓であるシキミには協会から送迎車が出るので、どうせ帰る場所は同じなのだから一緒に乗せてもらえばいいとして、しかし男として立つ瀬がないのは否めない。

「……あれは止めなくていいのか?」

眉根を寄せながら、ジェノスがシキミに小声で訊ねるが、シキミはしれっと「いいんじゃないですか」と返しただけだった。彼女が腕から提げている、有名ブランドが今年の新作としてリリースした淡いピンクのポシェットは、ハイジが宣言通りキャッシュ一括で購入してプレゼントしたものである。それが余計にサイタマの敗北感を焚きつけていることに、果たして彼女は気づいているのかいないのか。どちらにせよ本当に気に入っているようなので、外すつもりはないのだろうけれど。

「あたしはもう慣れましたから」
「俺は一体どうしたら……」
「温かく見守りましょう。しがない弟子の我々にできるのは、それくらいです」
「……そうだな」

腑に落ちない部分はあったが、それをどうこう言っても仕方がない。ジェノスは荒れるサイタマを宥めるのを潔く諦めて、自分も料理に手をつけることにした。手近な位置にあるテーブルの上で、透き通ったドレッシングのかかった魚介のカルパッチョが、宝石のように輝いている。ヒズミがいたら年甲斐もなく豪華なディナーにはしゃいで、あっちこっち勝手にうろうろして、行儀悪く食べ歩いて、きっと目が離せない。はぐれないよう手を引いて、優しくエスコートしてやらなければならないのだろう──そんな空想に浸って途方に暮れながら、ジェノスは人知れず溜め息をつくのだった。