eXtra Youthquake Zone | ナノ





気がついたときには、挨拶が終わっていた。

比喩でなく頭の中が真っ白になっていたので、なにを喋ったのか、自分でも覚えていない。他のヒーローたちと一緒にステージに立たされて、順番に式辞を述べていって、司会からマイクを渡されたところまではかろうじて記憶にある。そこからの展開がごっそり抜けているのだ。未知のスタンド攻撃を受けたのかも知れないとシキミは呆然自失になりながら本気で思っていた。

「おーっす、シキミ、お疲れさん」

既に大半の客たちが解禁された船内の自由見学に向かったあとの、人口密度の少なくなったセレモニー・ホールの隅で燃え尽きていたシキミを現実に引き戻したのは、サイタマの声だった。後ろにはジェノスとハイジもいる。別れてから一日も経っていないのに、数年振りに会ったような心地がした。

「ああ……先生……せんせぇえ……」
「うおっ、ちょ、お前なんで泣いてんだよ」
「怖かった……怖かったんですよぉ……」

目尻に涙を滲ませているシキミに面食らいつつ、サイタマはあやすように彼女の頭を撫でた。髪型が崩れてはいけないので、ぽんぽん、と軽く叩く程度だったけれど、シキミを落ち着かせるには充分だった。

「しっかりスピーチしてたじゃねーか」
「本当ですか? あたし、なんにも覚えてないんです」
「それは緊張しすぎだろ……まあ、なにはともあれ、お前はよくやったよ」
「……せんせええええええええ!」
「だから泣くなっつーの! メイク落ちるぞ! せっかくキレーにしてんだから、ちゃんとしろよ」
「……綺麗に……」
「おう。すげえキレーだよ。化粧もドレスも、よく似合ってんじゃん」

今にも零れ落ちそうだった涙が瞬時に引っ込んで、代わりにシキミは耳まで真っ赤になった。蚊の鳴くような声で、ありがとうございます、と言ったきり、もじもじと俯いてしまう。

「俺もそう思うよ。すごく綺麗だ」
「あ、ありがとうございます、ハイジさん」
「俺は協会から直接ここ来たからさ。シキミのドレス、今日はじめて見たし。びっくりしたよ。宝石みたいに輝いてるね。女優さんがスクリーンから飛び出してきたのかと思っ」
「……お前、その辺にしとけよ」

サイタマが低く唸ってハイジにチョーク・スリーパーを決めて、ずるずると引き剥がした。シキミに聞こえないくらいの小さな声で、苦悶に呻くハイジの耳元に囁きかける。

「お前みてーな男前がそんなべらべらカッコいい台詞で褒めたら、俺の立つ瀬がねーだろうが」
「さ、サイタマ氏、痛い、マジで締まってるって」
「こういうときは大人を立てろ、いいか? わかったか? オイ返事しろ、わかったか、このイケメン七歳児め」
「わ、わかっ、た、わかったから痛い痛い痛いっ」

要するに──おとなげない脅迫であった。
良識ある二十五歳の所業ではない。
やっと解放されたハイジは床に膝をついてぜいぜいと肩を上下させながら息を整えている。反してサイタマは素知らぬ顔で、暴力の行使によって乱れたタキシードの襟を直していた。

「先生とハイジさん、なにしてるんでしょう?」
「……さあな」

ぽかんとしているシキミに対し、おおよその予想がついているジェノスは適当に茶を濁して、視線を巡らせた。船員が既にディナー・パーティーの支度を始めている。料理を載せる目的らしいテーブルをいくつも運び込み、染みひとつない清潔なクロスを掛けて、恐らくオーケストラの生演奏でもするのだろう、空になったステージには物々しい楽器が並べられていく。

「先生、俺たちも出ましょう。準備の妨げになります」
「そうだな、せっかくだし見学に……行っ……」

ジェノスの言葉に冷静さを取り戻しかけたサイタマだったが、ある一点を見つめた状態でフリーズしてしまった。驚愕に染まったその視線の先を、シキミとジェノスとハイジも揃って追って──同じように硬直した。

「な、なにあのでっかいの!?」
「すごい……」
「……あの質感は、……氷か」

搬入口らしい大きな扉から、大の男が数十人がかりになって台車で転がしてきたのは──見上げるほどに巨大な氷像だった。躍動感のある雄々しい肉体を模した、透明な彫刻。細部にまでこだわりの行き届いた、溜め息が漏れるほどに美しい造形の芸術作品である。

「なにあれ? なんの像?」
「恐らく、ローマ神話の“ネプトゥーヌス”ではないかと……この船が冠する名にも引用されている、水の神です。ポセイドンと同一視されることも多いですね」
「難しいことはよくわかんねーけど、でも本当すげーな。近くで見てえんだけど、いいのかな?」
「俺も見たいな。あんなの、なかなかお目に掛かれないよ。……だけど、温度調整とかってどうしてるのかな。まだディナー・パーティーまで数時間あるのに、こんな常温のところに出したら溶けちゃうんじゃないの?」

ハイジが呈した疑問は、至極もっともであった。あれだけの規模の氷像でありながら、それを維持するための冷却器などは見当たらない。空調が効いているとはいえ、それだけでは足りないだろう。あっという間に溶けてしまうはずだ。

氷像の周囲で作業している者たちの輪の中に、楽屋で世話を焼いてもらったメリッサがいた。彼女なら話くらいは聞けるかも知れない、願ってもない僥倖だとばかりに、シキミが先頭に立って声を掛けることにした。作業員とメリッサが離れた隙を見て近寄っていき、自然な挨拶を装った。

「お疲れ様です、メリッサ様」
「ああ、毒殺天使様。お疲れ様でございます。先程は素晴らしい式辞でございました」
「緊張しすぎて、あんまり覚えてないんですけどね……えーっと」
「こちらの氷像のことでしょうか?」

メリッサは含みありげに口角を上げている。興味津々なのがバレバレだった。

「ええ、すごいですね。協会が用意したんですか?」
「左様でございます。とあるヒーローの力をお借りしまして」
「とあるヒーロー、といいますと?」
「ちょうど、あそこにいらっしゃいますよ」

メリッサが掌で指し示した先にいたのは──なんとも妙な風体をした青年だった。

薄い水色の分厚いダウンを着込み、おまけにファーのついたフードまで被っている。履いているのもスキーウェアのような防寒用のズボンで、裾を編み上げのスノーブーツに詰めている。完全に真冬のスタイルであった。どう見ても、いまだ残暑の厳しい時季にする恰好にはそぐわない。華やかなパーティー会場に相応しくないどころの話ではなかった。

サイタマたちの視線を感じ取ったのか、彼がくるりと振り向いた。蜂蜜色の髪はパーマでも当てているのかふわふわとカーヴしていて、とろんと眠そうに下りかけた瞼の下には、意志の希薄そうな、あまり生気のないアイス・ブルーの瞳が覗いている。後ろからではわからなかったが、毛糸のマフラーを巻いているようで、口元は見えなかった。ぺこりと会釈してきたのを見るに、排他的な性格ではないらしい。

「……彼が?」
「はい」

そうこうしているうちに、謎の彼がぽてぽてとスノーブーツの底を鳴らしながら、こちらへ近づいてきた。顔の下半分を隠していたマフラーを下げて──その手にも、茶色い革の手袋が嵌められている──にっこりと微笑んだ。

「どうも、はじめまして。先輩」
「せ、先輩?」
「僕は半年前にヒーローになったばかりなもので。毒殺天使さんは、僕の先輩です」
「はあ……そうなんですね」

シキミがややリアクションに困り気味なのを察したのか、彼は相変わらず棘のないにこにこ顔のまま、後ろにいるサイタマたちとも改めて目線を合わせて、自己紹介に切り替えた。

「申し遅れました。僕はトーラスといいます。ヒーローネームは“しろくま”。現在A級です」
「……随分かわいいお名前ですね」
「そうでしょう? ちっとも強そうな感じがしないから、あんまり名乗りたくないんですよねえ。できれば名前で呼んでください」

雇い主であるヒーロー協会の構成員であるメリッサを目の前にして、堂々と己の二つ名にケチをつけるトーラス。怖いもの知らずなのか、はたまた単にマイペースなのか──きっと恐らく後者だろう。

「ところでさ、お前がこれ作ったって、マジなの?」
「ええ、そうですよ」

サイタマの不躾な質問にも、トーラスは嫌な顔ひとつせず、気さくに答える。

「どうやって?」
「──こうやって」

そう言うとトーラスは右手のグローブを外して、掌を上にした状態で、サイタマの前に差し出した。皺の少ない、雪のように滑らかな白い肌には、なんの変哲もないように見えた。しかし、劇的な異常がそこで起きた。

ひゅうっ──と、旋風のような音が発生して。
──そこに現れたのは、目視できるほどの“冷気”だった。