eXtra Youthquake Zone | ナノ





「この国ではドレスコードという概念は重要視されていないようだが、海外じゃあそうはいかない。まして世界的規模のクルーズ客船を舞台に催される祝典となればなおさらだ。各界の大御所が集うとなれば、それはそれは華やかだろう。恐らくパーティー慣れした金持ちばかりだからね。衣装には相当に気を遣わないと、会場でひどく浮く羽目になるぞ、サイタマ氏」

ベルティーユが熱く語っているのは、百貨店や高級ショップが犇めきあうセレブ御用達のアーケード通りを走るタクシーの中である。隣に座っているサイタマは、彼女の話を聞いているのかいないのか、窓の外をもの珍しそうに眺めっきりだった。生まれてこのかた初めて訪れた、スタイリッシュなショーウィンドウの並ぶ豪華絢爛きわまる街並みに、すっかり釘づけになっている。

「さすがに指定はフォーマルだろうが……招待状にはなんと記載されている?」

このあいだシキミの友人としてパーティーに参加する旨を協会に申請したときに、担当者から「しっかり確認して、なくさずに保管しておいてください」と渡された案内状は、無造作にジーパンのポケットにねじこまれていたせいで見るも無残な皺くちゃ状態になっていた。普通ならば呆れ返ってものも言えなくなるところだが、サイタマの大雑把な性格をよく知っているベルティーユである──最初から予想はついていたようだった。

「えーと……んー? これ、どこ見たらいいんだ? ……あ、これかな。ブラックタイって書いてあるぞ」
「ほう。ならばタキシードだな。せっかくの機会にスタンダードな黒では面白味がないから、白とかグレーとか、洒落たものにしてみたらいいんじゃないか?」
「そういうの俺わかんねーから、教授に任せるよ」
「おやおや、無頓着だね。普段と違うハイセンスな恰好で改めてシキミを口説こうという気はないのかい?」

ベルティーユの言葉にサイタマは窓枠についていた肘をずるっと滑らせ、ついでに助手席のシキミも咳き込んだ。思わぬ飛び火に、シキミは慌てふためきながら後部座席を振り返った。

「ちょ、ちょっと教授……なんてこと言うんですか」
「君たちは浅からぬ仲なのだろう? なにを照れることがある」
「……なんで知ってんの?」
「いいや、知っていたわけじゃあないが、今のサイタマ氏の発言で疑念は確信へと姿を変えたよ」
「……………………」

どうやら墓穴を掘ってしまったようだった。
深い地核のあたりまで、思いっきり。

「ふふふ、年長者の勘を侮ってはいけないよ、若人」
「あんたにゃ敵わねーな、本当」
「お褒めに与って、至極恐悦の思いだよ。……そろそろ着きそうだな。降りる支度をしてくれたまえ」

ベルティーユの紹介で訪れたのは、彼女の知人が経営に携わっているという、オーダー・スーツをメインに取り扱う個人ブランドの店だった。正装なんて就職活動用のリクルート・スーツくらいしか着たことがないと笑っていた庶民のサイタマにただならぬ危機感を覚えて、ベルティーユ直々に彼をどこに出しても恥ずかしくない紳士に仕立て上げるべく、忙しい仕事の合間を縫って、こうしてはるばるタクシーで出掛けてきているのだ。

最初こそサイタマは遠慮していたが──単に面倒くさかっただけかも知れないけれど──ベルティーユが「グレーヴィチ研究所で危機から救ってもらった礼をさせてくれ」と資金援助の提案をしたところ、くるっと掌を返したのだった。なんとも現金な男である。そんな潔いくらいのがめつさも、まあ、彼の魅力といえば魅力に違いない。シキミはずっと自分にそう言い聞かせていた。

背の高いオフィス・ビルディングに挟まれた、派手さはないが品のある雰囲気の小さな店舗の前で、ベルティーユは車を停めるよう運転手に伝えた。歩道に降り立ったサイタマが大欠伸しながら背中を反らせているあいだに、ベルティーユが手早くカードで支払いを済ませ、手慣れたふうに澱みない足取りで先頭に立って入口へ歩いていく。

ガラス張りの壁から覗ける店内には様々なスーツやドレスを纏ったマネキンが行儀よくポーズを決めているばかりで、他の客は見当たらなかった。自動ドアの奥にある受付カウンターに立っていた店員が即座にこちらに気づいて、恭しく一礼してきた。

「ようこそ、お越しくださいました。ベルティーユ様」

ホテルマンのような洗練された仕種でベルティーユの上着を預かり、店員の男はサイタマとシキミにも丁寧なお辞儀で歓迎の意を示す。

「うむ。予定の時間より少し早く来てしまって、申し訳ない」
「とんでもないことでございます。ご用意はできておりますので、どうぞ。オーナーが二階でお待ちです」
「そうかい。今日は私ではなく、この男性のパーティー用のタキシードと、この子のドレスを見繕ってほしいのだが」
「ええ、お伺いしております」
「話が早くて助かるよ。それでは、私はオーナーに挨拶してくるとしよう。ああ、そうだ、レディース衣装の取り扱いは二階だったね。シキミもついておいで」
「あ、はい。サイタマ先生は……」
「彼から詳しい説明を聞いていておくれ。しばらくしたら戻るから、それまでにどういう仕様にするか、漠然とでいいから固めておくといい。生地の好みもあるだろう」
「ふーん。よくわからんけど、わかった」

サイタマの適当な返事を聞いて、ベルティーユはシキミを連れて二階へ繋がる螺旋階段を上がっていった。いかにも金のかかった、デザイナーズ・ショップらしい瀟洒な造りだった。こういう場に馴染みの薄いサイタマはやや浮き足立っていたが、さすがにシキミは初めてではないようで、その振る舞いは落ち着いたものである。図らずも年下の恋人との品格の差を思い知らされたサイタマであった。

(……これはちょっと、気合い入れねーとな)

先程のベルティーユの言を真に受けたわけではないけれど──豪華客船で過ごす優雅なひとときなんて、この先いつ肖れるかわからない。ちょっとカッコつけたいと、俺だってたまにはバッチリ決めてやるときゃやるんだぜと、どうだ惚れ直してみろと浅はかな見栄を張ってしまうのは、悲しい男の性だ。

「では、サイタマ様、どうぞこちらへ」

店員の彼はサイタマを商談用に拵えられたガラス製のテーブルに招いて、おもてなしのコーヒーと、そして広辞苑ばりに分厚いファイルをどさりと置いた。

「……なにこれ?」
「当店のカタログでございます。格式ある式典へのご参加ということですので、生地はこのあたりの……“キース・アンド・ヘンダーソン”か、もしくは“タリアデルフィノ”などいかがでしょう。どちらも高級感のある素材でございます。こちらの“イエガー”には、独特の気品があります。ああ、こちらの“ミノバー”は仕立て映えが男性的でありながら、とても体に馴染みやすいので、着心地は大変よろしいかと」
「…………………………」
「他の方々と一味違う味をお求めなら、この“マーチンソン”もお勧めでございます。古くからの伝統を守った紡毛繊維でして、現代においてこの製法は非常に稀なのです。お色や柄も非常にクラシックで、注目の的になれるかと思いますよ。サイタマ様はお顔立ちに貫録がおありですから、こちらの“クイーンディッチミル・クイーンディッチ”なども大層お似合いになるかと──」
「…………………………」

あっという間にサイタマの決意は砕かれた。
浅はかな見栄の底が露呈した。

まったく理解できない横文字の羅列に貧乏人の精神を攻められ脂汗を滝のように流しながら、サイタマはただひたすら、一刻も早くベルティーユがこの場に戻ってきてくれることを祈るばかりであった。