eXtra Youthquake Zone | ナノ





シキミの背筋を、音もなく冷汗が伝い落ちる。

こちらを見据えるクレーシヴァルの視線は、鋭利に研ぎ澄まされている。ずしりと重たい鉄塊を思わせる、どこまでも無機質な、温度のない黒の瞳。

(この人は──どういう反応を、期待している?)

あの“結界”が“人災”であるという事実に、彼は辿り着いている。しかしそれは勘でしかなく、解を導くための過程にまでは到達していないようだった。常日頃シキミが悪戦苦闘している数学の問題だって、途中の方程式が正確でなければマルをもらえない。たとえ答えがわかったところで、きちんと証明できなければ、それは正解たりえないのだ。

歴史的大祭典を襲った、謎の集団昏睡。
その恐るべき真犯人と──彼らの目的。

「……あたしにも、見当がつきません」
「そうでございますか」
「ですけれど、面白半分であんなことをしでかして、どこかで笑っているっていうんなら──あたしはそいつらを許しません。ヒーローとして、戦うつもりです。それが怪人でも、人間でも」

きっぱりと述べられたシキミの宣言に、クレーシヴァルはひとまず満足したらしかった。彼は微笑みすらしなかったが、彼の周囲で強張っていた空気が少しだけ弛んだのを、シキミは感じた。

「心強い限りです。毒殺天使様」
「改まってヒーローネームで呼ばれるの、くすぐったくて慣れませんね」
「左様でございますか。それでは、控えましょう。シキミ様──あの集団昏睡事件を引き起こした者が、また近々よからぬことを企てて実行するのではないかと、私は踏んでいます」
「……………………」
「根拠も論拠もありませんが、そんな気がしてならないのです。どうか努々、油断なさらぬよう」
「……ご忠告、ありがとうございます」
「出過ぎた真似をいたしました。お引き留めして、申し訳ありません。お帰りになるところだったのでしょう? 手の空いている者に、至急クルマを出させます」
「えっ、そんな、どうかお構いなく」
「遠慮なさらないでください」

言うが早いか、クレーシヴァルは上着の内ポケットから取り出した通信端末で、さっさと足を手配してしまう。五分ほどでロータリーに送迎用のセダンがやってくるとのことだった。

「ありがとうございます。とても助かります」
「当然のことをしたまでですよ」

特に誇ったふうでもなく、クレーシヴァルはただ淡々としている。その分厚い胸の奥に人並みの感情が備わっているのかどうかさえ怪しいくらいだったが、得てして協会員にはこういう質の人種が多い。精神状態で顔色をころころ変えるアンネマリーのような者の方が少数派である。苛烈で過酷な戦いの世界に身を置く以上、そういった動じなさこそが求められるのかも知れない。

そんなことを思いながらエレベーター・ホールへ向かい去って行ったシキミの背中を、クレーシヴァルは執事のごとく慇懃に頭を下げた姿勢のまま見送っていた。彼女の後ろ姿が見えなくなって、そこにクレーシヴァル以外もう誰もいなくなって──それでも彼の鉄面皮が剥がれることはなかった。

血色の悪い唇だけが、人形のように、小さく動く。

「……どうか努々、油断なさらぬよう」



それから目立ったトラブルもなく平穏に数日が経過したとある昼下がり、サイタマとジェノスは連れ立ってZ市の都心部にある高級料理店のテーブルに着いていた。色彩の種類が少なく落ち着いた、和を基調とした内装で、レストランというよりは食事処と形容した方がしっくりくる店構えである。淡く抑えられた行灯の明かりが、店内をぼんやりと照らしていた。

表通りの喧騒から隔絶された座敷の個室で、二人の正面に坐しているのは、ギンスケとリュウヘイだった。

ギンスケはヨビツギとの乱闘により負傷した左腕を包帯で吊っていて、どうにも見た目が痛々しい。リュウヘイも頭に大きなガーゼを貼りつけて、上からネットを巻いて固定している。

「これ、本当に奢りでいいの?」
「勿論でございやす。サイタマさんにも、ジェノスさんにも、身内の揉めごとで迷惑をかけやした。お嬢を無傷で助けていただいたのに、これくらいしか返せるものがありやせんで、むしろ申し訳ないくらいで」
「いいんだよ、そんなの。俺たちはヒーローだからな。それが仕事なんだよ」

格好つけたふうに言いながら、しかしサイタマは遠慮なく豪勢な昼餉にありついている。向こう側が透けて見えそうな薄造りの鯛を醤油に浸し、あーん、と大口を開けて舌に載せる。そして恍惚の表情でもぐもぐと新鮮な刺身を咀嚼する彼は大層、幸せそうであった。

「ジェノスさんも、どうぞお召し上がりくだせえ」
「……ああ」
「お口に合いやせんか?」
「いや、そういうわけではない──世間話はこの辺にして、そろそろ本題に入りたいと思っている」

玉露の湯呑みに口をつけながらジェノスがそう言うと、ギンスケは目を細めて頷いた。そして傍らに置いていたセカンドバッグから取り出したのは、数枚の写真だった。

「これは?」
「ヨビツギの野郎がしょっぴかれてから、ワシらァいろいろと調べたんですよ。ヤツが関わっていた非合法な商売を洗い浚いお天道様のもとに晒して、きっちりケジメつけさせるためにね」

そのうちの一枚を受け取って、ジェノスは眉を顰めた。背景が暗いので、はっきりとは写っていないが、大型トラックの荷台に大勢の人々が詰め込まれているのが窺える。老若男女を問わず、肌の色もまちまちだった。ただ共通しているのは、全員が悲嘆に暮れ恐怖に染まった絶望の表情を浮かべていることだけだ。

「特にアイツがご執心だったのが、人身売買への加担だった。ガキ攫って、若い女ァ騙くらかして、搾り滓みてェな爺や婆まで拐かしてきて──そりゃもう好き勝手してやがりやしたよ。まったく反吐が出らァな。そんでそいつらガサ入れてみたら、かなり大規模な犯罪組織が大元だったんで、こりゃ一介のヤクザ屋ごときに尻尾は掴めねーかと思ってたんでやすが……そいつらの“お得意様”が、ついこないだ潰れたばかりだそうで。そっから芋蔓式に捜査機関の手が伸びておりやして、まあ要するに、連中のケツにゃ既に火が点いてたんでさァ」
「“お得意様”──だと?」
「ええ。その外道は金で買った活きのいい人間を、山奥で飼ってたバケモノの餌にしてたんだそうで──その惨状は、あんたらが一番、よく知ってるはずでやしょう?」
「……グレーヴィチか」

病によって天に召された娘を神へ昇華させるという信念のもと、その遺体を改造し、悍ましい科学技術でもって蘇生させたマッド・サイエンティスト──世間には不慮の事故で死亡したと発表されているはずだが、どうやらギンスケは真相を知っているらしい。一介のヤクザ屋ごときと己を卑下していたわりには、それなりの情報収集能力を有しているようだ。さすが政府各庁にも独自のパイプを通している天下の妙興寺組、といったところだろうか。

「そのご大層な名前の偉い学者さんが死んで、組織は大童になった。そりゃそうだ、おいしい稼ぎの大半が失われるとあっちゃア、たまったモンじゃねェ。そっから一気に瓦解していったんでしょうねェ」
「瓦解した? そいつらはもう壊滅したのか?」
「ええ、その通りで。組織の幹部どもァ根こそぎワッパ掛けられて、今頃は仲良く国際警察の檻ン中でさァ。天網恢恢、疎にして漏らさず──ってとこでしょうかいな」
「……つまり、すべては既に解決しているということか。俺たちを呼び出したのは、今回の主犯だったヨビツギと、かつて俺たちが始末したグレーヴィチとのあいだに関連性があったことを教えるためだったんだな?」

思いもよらないところで糸が繋がった驚きはあったが、さして重要事項というわけでもなかった。終わってしまったことだというなら、尚のことだ。一縷の隙さえ介入する余地がない。聞いて無駄だったとは思わないが、ギンスケがわざわざゴーストタウンに迎えをよこしてまで「あなたがたに話しておかなきゃならんことがありやす」と言ってきたことを鑑みると、少々ばかり拍子抜けさせられたのも否めなかった。

しかしギンスケは、ジェノスの予想をあっさりと覆した。
勿体ぶるように色眼鏡を外して、それだけじゃない、と首を横に振る。

「事後報告だけなら、電話でも事足りやすでしょう。サイタマさんとジェノスさんに、こんな料亭くんだりまでご足労いただいたのにゃア、相応の理由がありやすよ」
「……聞かせてもらおうか」
「ええ──この店は、ワシらの息がかかった砦です。これからお伝えする話がどこぞへ勝手に漏れることはないんで、どうぞ安心してくだせェ」

そう前置きして、ギンスケは白スーツの懐から封筒を取り出した。中を開いてみると、そこにはまた、さっき見せられたのと同じような写真が収まっていた。なんの罪もない者たちが、人権も尊厳も無視されて狭い空間に押し込められ、非情な犯罪組織に“商品”として扱われている、悲愴さに塗り潰された光景。

だがジェノスは、先程とは明らかに異なる反応を呈した。
驚愕のあまり体を構成するパーツの全機能がショートして停止したような錯覚に囚われる。金の光彩が収斂して、唇から隙間風のような呼吸音が漏れた。狼狽を隠そうともせず立ち上がって、形振り構わず大声を張り上げる。

「──これは、一体どういう、そんな──どうして!」
「ど、どうしたジェノス、落ち着けよ」

無心で大葉の天麩羅を齧っていたサイタマが、ジェノスの豹変に箸を置いた。すっかり冷静さを失っているジェノスを宥めて、彼の手から写真を引き抜き、覗き込む──そしてジェノスと同じように、ぎくりと目を見開いた。

「…………え? ……マジで?」
「その“彼女”には、前々からワシらも注目しておりやした。なにせ彼女にゃ、ヒーロー協会から莫大な懸賞金が懸けられてる。裏社会にどっぷり肩まで浸かってるヤツなら、誰だって危険なんざ省みねェで、夢中で追いかけるってモンです。まさかこんなところで出逢うとは、夢にも思っておりやせんでしたがね」

サイタマが、写真をテーブルの上に戻した。その長方形の紙片の隅に写り込んでいたのは──

「この写真を入手してから、ワシが独自に“いろいろ調べた”結果、その彼女とあなたがたには浅からぬ付き合いがあるそうで。……協会の指令なんかたァ関係なく、探しているんでやしょう? この彼女を」

短く刈られた白髪に青い瞳を湛えた、痩せぎすの女性。

いくら解像度が粗かろうと、カメラの方を見つめるその寂しそうな顔を──誰より愛しく想っている相手の顔を、ジェノスが見紛うはずもない。

「──“ホワイト・アウト・サイダー”を」