eXtra Youthquake Zone | ナノ





「おお、来たか。いらっしゃい、シキミ」

研究室を訪れたシキミを、ベルティーユはいつものように鷹揚と出迎えた。様々な機材が犇めく室内を横切って、そのまま隣室に通される。移動しやすいようドアを外して刳り貫かれた壁を潜って、主にベルティーユがデスクワークに使用しているスペースに入った。広々としているが開放感はなく、病院の診察室を思わせる空間だった。デスク脇のスツールに座るよう勧められたので、シキミは素直に従った。ベルティーユはその真正面、自身のキャスター付きチェアに悠然と腰かけてすらりと長い足を組む。

「昨日は大変だったそうだね」
「もう聞いたんですか?」
「年寄りは噂話くらいしか暇潰しがないから、耳が早くてね」

彼女が己を年寄りと称するにはまだ早いような気がしてならなかったが、なにも言わずにおいた。妙齢の女性に対して地雷を避けながら歳の話をできるほど、シキミは成熟していない。

「ご友人はまだ本部にいるのかい?」
「いいえ。さっき迎えが来て、帰りました」
「おや、そうかい。会ってみたかったのだがね……残念だ」
「やめといた方がいいですよ。金髪で白衣で眼鏡でおまけに美人なんて、あの子きっと暴走します」
「暴走? どういう意味だい」
「女医さん萌えー! 手術してー! とかなんとか叫んで、床をごろんごろん転がり回りかねないという意味です」
「それはまた、随分と……エキセントリックだね?」
「言葉を選んでいただいて、どうもありがとうございます」

他愛ない雑談もそこそこに、ベルティーユはデスクの引き出しから分厚いファイルを取り出した。そこに挟んである膨大な量の資料には、ひどく難解な医療用語と、複雑きわまりない統計グラフの類が並んでいる。

「これから簡単に検査をして、必要ならば薬を増やそう。前に渡した錠剤は、きちんと服用しているかい?」
「はい。欠かさず飲んでいます」
「よろしい。副作用も出ていないようだし、引き続き様子を見よう。そろそろ第二段階に移る頃合いだ」
「……第二段階……」

意味ありげな単語を繰り返したシキミに、ベルティーユは頷いた。

「そうだ。正念場と言い換えてもいい。君の“解毒”のね」
「……正念場、ですか」
「うむ。それに当たって、君には少しばかり酷な指示を出さねばならない」
「大丈夫です。覚悟はもうできてますから」
「今後あの“ドーピング”の使用を、断固禁止する」

ベルティーユの発言を受けて、シキミは目を閉じて俯き、ゆっくり長い息を吐き出した。

「予想はできていたようだね」
「……まあ、ある程度は」
「あれが君の肉体に負荷を掛けていることは──変異に拍車を掛けていることは、君にもわかっているだろう? 薬で正常に戻りつつある体細胞にあの劇薬が溶け込めば、すべてが水の泡になる。それどころか、あの強烈な毒素に耐えきれず、命を落とす危険さえあるんだ。聡明な君なら、理解できるね?」
「はい。勿論です」

はっきり首肯したシキミに、ベルティーユは笑った。銀縁眼鏡のブリッジに触れながら、言葉を続ける。

「徐々に常人離れした運動能力も失われていくだろう。君が日々あちこちで繰り広げている、異形の怪人を相手に大暴れするような激しい戦闘も、直にできなくなる。普通になるというのは、そういうことだ」
「…………………………」
「とてもA級ヒーローとして活動を続けてなど、いけなくなる」
「承知しています」
「そうなったら、協会を辞めるのかい?」
「それは絶対に有り得ません。あたしはヒーローを続けます」

シキミの力強い断言を、ベルティーユは肯定するでも否定するでもなく、黙って聞いていた。

「強くなればいいんですから」
「また一からトレーニングでも始めるのかい? それでも到底、今のようには──」
「なれますっ!」

ベルティーユの台詞を遮って、シキミは叫ぶ。

「それどころか、あたしは多分、もっともっと強くなれるんです。だって、だってあたしには──先生がいるんですから」

誰よりも努力して、誰よりも鍛錬して、誰よりも邁進して。
己の殻を抉じ開けて打ち破った彼。
限界点を飛び越えて突き進んだ彼。

その根源にあったのは──“ヒーローになりたい”という思いだったと、彼は言っていた。
なにものにも頼らず、固く極めた意志だけで遥かな高みへと登り詰めた。

勧善懲悪を胸に、拳ひとつで絶望の脅威に立ち向かう正義の味方。

「普通のカラダに戻って初めて、あたしはかつて先生が出発したのと同じスタートラインに立てるんです。そこで、やっと──先生を追いかけられるんです」
「…………………………」
「やっと先生みたいに、あたしも、本物のヒーローになれるんです」
「……そうかい」

ベルティーユは柔らかく表情を緩めて、デスクの上のファイルを閉じた。

「なるほど、……“本物のヒーロー”ときたか」

確かに、そういう高潔な人物が、どこかにいるというのなら。
この混沌とした世界の闇を、颯爽と晴らしてくれるひとがいるのなら。

誰もが焦がれ、憧れ、その背中に惚れ惚れすることだろう。

そして、自分もそうありたいと願うことだろう。

後ろに続く“子供たち”が道を誤らずに生きてゆけるよう、足元を明るく照らす道標でありたいと、進むべき正しい方角を示唆してやりたいと祈ることだろう──と、ベルティーユは思う。

いつの時代も、ヒーローとはそういう存在なのだった。

「いつか、なれるといいな。──君も、私も」



それからベルティーユによる身体検査が開始され、結果に基づく丁寧な説明を聞き、帰宅許可が下りたときには既に陽が暮れていた。本部には窓がないので外の様子はわからないが、時刻を見る限り、とっくに空は濃淡のグラデーションが美しい朱色に輝く雲に覆われているはずだ。

サイタマに連絡を取ろうにも、彼は携帯電話を所持していない──通信手段がないのだ。こうしている間にも、自分の帰りを今か今かと首を長くして待っているかも知れない。急いでZ市に帰って、夕飯の支度に取りかからねば。焦るあまり、エレベーターを目指して廊下を歩くシキミの歩調は自然と急ぎ足になっていた。

それが仇になった。
しっかり前を見ていなかったのも災いして、角を曲がってきた者への反応が遅れた──思いっきりぶつかってしまった。黒いスーツを上品に着こなした、体格のいい男性だった。華奢なシキミはそのまま引っ繰り返って、尻餅をついてしまう。

「あー、いっ、たたた……す、すみません! ごめんなさいっ!」
「とんでもございません。こちらこそ、失礼をいたしました。毒殺天使様」

どこまでも理知的に抑制された、いっそ機械のような声音だった。男は恭しく膝をついて、シキミに腕を差し出した。その手を借りて、シキミはよいしょと立ち上がる。改めて礼を述べようと男の顔をまっすぐに見て、その面構えに見覚えがあることに気がついた。これまでにも何度か、ヒーロー業の関係で会ったことがある相手だった。しかしどうにも、名前が思い出せない。

「……あ、えっと、……えーっと」
「申し遅れました。私、クレーシヴァルと申します」
「あっ、すみません、ごめんなさいっ! 決して忘れていたわけではっ!」
「お気になさらず。面倒な名前だと、自分でも思っておりますので」

無表情でそんなことを言うので、冗句なんだか本音なんだかまったくわからない。対処に困っているシキミに構わず、クレーシヴァルは会話の向きを変えた。

「お怪我はございませんか?」
「あ、はい、大丈夫です」
「それは幸いです。お疲れのところ、申し訳ございませんでした」

お疲れのところ──というのは、昨日のヤクザ騒ぎのことを指しているのだろうか、とシキミは考えたが、彼の意図するところはどうやら別にあるらしかった。

「ベルティーユ教授と、なにやらお話をされていたようですね」
「えっ? あ、はい……ちょっと」
「あなたと教授は、最近よく面会なさっているようです。個人的なご相談ですか?」

シキミの“解毒”の件については、協会の人間には委細を伏せている。先ほどベルティーユも言っていたことだが、二人が行っているのは要するに身体能力を平均的な水準まで落とすための処置なので、彼女がヒーローとして今までのような破竹の活躍をできなくなると知られたら、治療を妨害されかねない。ただでさえ人員不足に喘いでいる組織なのだ。それくらいのことは、いっそ清々しいくらい堂々とやってのけるだろう。そのための隠蔽で、そのための隠匿だった。

こんなところで悟られるわけにはいかない。
シキミはスイッチを切り替える。

「お恥ずかしながら、いろいろと悩んでおりまして。これからのヒーロー活動の方針について、いろいろとアドバイスをもらっているんです」
「左様でございますか……我々が力になれることは、ありませんか」
「お気遣い、痛み入ります。でも平気ですよ」

にこりと屈託なく笑って、シキミは話の流れを断ち切ろうとした。深く突っ込まれる前に切り上げてしまおうという魂胆だったのだけれど──クレーシヴァルは、思いもよらない方向から切り込んできた。

「年上の同性からの忠言というのは、確かに貴重なのでしょうね。特にあなたの場合は」
「………………?」
「保護者の方、まだ行方不明なのでしょう?」

氷水を引っ掛けられたかのように、シキミの全身が一気に冷えた。

心臓が早鐘を打ち出したのを悟られまいと取り繕う素振りは、あえて見せなかった。いきなりそんなディープな部分に触れられたら、後ろ暗いところがなくたって動揺するだろう。あの夏の大祭典──“ヒーローズ・ロック・フェスティバル”の夜からヨーコが姿を晦ましたという事実は、協会に報告もしている。そちらは公に大っぴらにはしていないまでも、ベルティーユとの“解毒”ほど神経質に隠してはいないことだった。

「……ええ、そうですね」
「目撃証言なども得られていないそうで」
「もともと御しがたい放浪癖のある人でしたからね。どこをほっつき歩いているのやら」

心痛に耐えながら健気に強がるふうを装うシキミに、クレーシヴァルは初めて表情を変えた──眉根を寄せて、それはまるで苦悶のような、もどかしくてならないとでもいうような変化だった。

「毒殺天使様──私はあの“集団昏睡事件”に、違和感を抱いているのです」
「……といいますと?」
「協会は“なんらかの特殊能力を持った怪人の仕業である可能性が高い”として、目下捜査を続けていますが……本当にそうなのでしょうか? もしそうだとするならば、あれ以降なんのアクションもないのは考えづらい。昨今の世間を脅かしている怪人には、自己顕示欲が強いものが多い。人々を混乱に陥れて、自らに恐怖させることで、その欲求を満たしているのです。それならばもっと派手に暴れるのではないかと、私は思うのです。外界と隔絶させた空間で、観衆を衰弱させるだけで、他にはなんの危害も加えないなんて、どうにも──辻褄が合わないのですよ」
「……………………」
「私はあれを“人災”だと、思っています」

──人災。

シキミはクレーシヴァルのその言葉に、息を呑んだ。あの日ヨーコが会場で言っていたのと、同じ指摘だったからだ。明らかに誰かが、なんらかの意図でもって、人為的に発生させている──“結界”。

「……だとしたら一体、誰が、なんのために?」

シキミが恐る恐る問い返すと、クレーシヴァルは歯痒そうに首を横に振った。

「わかりません。現段階ではまだ、ただの予想で、予感でしかない……確証はありません」
「……そうですか」
「ヒーロー協会に仇成そうとする不届き者の愉快的犯行という線が強いかと私は見ていますが、それも憶測に過ぎません。そしてそうでなくとも、どのみち我々にとって脅威であることにも、変わりありません」
「…………………………」
「あなたは、どう考えますか? 毒殺天使様。無礼を承知で、お訊きします。非科学的な現象が発生して、他ならぬあなたのご家族が行方不明になって、そこに──何者かの黒い思惑が絡んでいるとは、思いませんか?」