eXtra Youthquake Zone | ナノ





なにやら顔面に冷たいものが思いっきりブチ撒けられた衝撃で、ジンロウは目を覚ました。どうやら気つけに水を被せられたようだ──バケツを手に、こちらを敵意たっぷりの眼差しで見下ろしているリュウヘイに、ジンロウは咳き込みながら威圧的な視線を返した。彼らは同じ穴の貉といえど、潜り抜けてきた修羅場の数が違う。迫力には大きな差があった。リュウヘイはその凄味にやや怯んでいたが、それでも目を逸らすことだけはしなかった。

「おはようございます」

アンネマリーが、平坦な調子で言う。彼女の方には、まるで動揺している様子がない。その後ろにはシキミと、さっきまでいなかった男が二人。パソコンのペイント機能の図形ツールだけで描けそうな面をしたハゲの方には見覚えがなかったが、もう片方は有名人だった。名前までは記憶していないが、ヒーロー試験に満点合格してS級の地位を獲得したとかいう、彗星のごとく現れた期待の新人サイボーグだ。

アンネマリーも大概バケモノだったが、その比じゃない。
ジンロウは舌打ちを零して、体を捩った──しかし無駄だった。後ろ手に縛られていて、身動きを封じられている。

「ご機嫌いかがですか?」
「あァ、おかげで最悪の目覚めだよ。クソアマ」
「それは重畳。あなたのお仲間さんがたと、連れ去ったご令嬢は、今どこに?」
「さあな。俺にゃ皆目見当もつかねーよ」

ひひっ、と下卑た笑いを漏らして、ジンロウは飢えた野犬のように歯を剥き出しにした。歴戦の貫録があった。普通ならば委縮して尻込みしてしまうところだが、生憎そんな常識的な神経で生きている人間はこの場にはいない。ジェノスが黒い双眸を細めて、嘲るように口の端を歪める。

「……心拍数が上がったな。呼吸のリズムが変化したし、一瞬だが瞳孔も開いた。随分と嘘をつくのが下手だな、貴様」
「ああッ? なんだと、テメエ──」
「自発的に喋る気がないなら、こちらにも考えがある」
「はっ、尋問でもしようってのか? ヒーローってのァ正義の味方なんだろ? そんな外道な真似していいのかよ?」

余裕綽々といった態度を崩さないジンロウから、ジェノスはバケツを抱えたまま突っ立っていたリュウヘイに向き直った。

「お前、ここの家の者なんだろう?」
「あ、ああ──そうだけど」
「すぐに持ってきてほしいものがある」
「……なにを?」

なにを要求されるのかと不安そうにしているリュウヘイに、ジェノスは──とくに高圧的なふうでもなく、ただ淡々と、質問への回答を口に出す。

「工具箱だ」
「こ……工具箱ォ?」
「これだけ大規模なアジトなんだから、あるだろう? 金槌とか、釘とか、ドライバーとか──鑿とか、鑢とか、鉋とか、鋸とか」

ジェノスの言葉に──みるみるジンロウは青褪めていく。

列挙されたそれらの物品を、なにに使う気なのか──それを察した。察してしまったのだ。

こんな状況で、呑気に日曜大工と洒落込もう、なんて心積もりでもあるまい。
尋問でもするつもりか、とさっき、ジンロウは問うた。
答えは恐らく、ノーだろう。

そんな生易しいレヴェルじゃあない。
もっと合理的で、直接的で手っ取り早い手段がある。
肉体に作用する激しい苦痛によって心を折り、口を割らせるという、それはつまり──拷問である。

「そんな顔をするな。安心しろ。殺しはしない──あいつに顔向けできなくなるからな」
「……あいつ……?」
「だが、しかし──もっとも、俺はまともな感覚神経を捨てて久しい。なにをどうするとどれくらい痛いとか、苦しいとか、そういう想像力に欠けている自覚がある」

感情の機微が読めない無表情のまま、ジェノスは続ける。

「手加減はできない」
「なッ──」
「するつもりもないがな」
「………………、」

ジンロウが助けを求めて縋るように視線を巡らせる。いちばん常識のありそうなシキミには目が合うやいなや視線を逸らされてしまった。アンネマリーは「あたし知ーらないっ」とでも言いたげにニヤニヤと笑っているし、ハゲにいたってはこれから自分の連れがジンロウになにをしでかそうとしているのかまるで理解していないようで、相変わらず間抜け顔でボケーッとしている。リュウヘイはジェノスに命じられるまま、工具箱を探しに慌てて和室を出て行った。呼続派の部下たちはほとんど気絶させられてしまっているし、意識がある者も得体の知れない大鋏に繋がるワイヤーで一絡げにされて、完璧に戦意を喪失している。

──救いの手は、どこにも存在しなかった。



「なあ、シキミ」
「なんでしょうか、先生」
「俺ら部屋から追い出して、ジェノスは一体なにやってんの?」
「……わからない方がいいですよ」

目を泳がせつつ、答えをはぐらかしたシキミに、サイタマは「ふうん」と適当な相槌を打って、それ以上は追及しなかった。二人がいるのは先程とは別の、やや手狭な空間である。それでもサイタマが暮らしているマンションの居間よりはずっと広い。背の高い桐の衣装箪笥、壁掛けカレンダー、前時代的な卓袱台──どことなく古びた生活感に溢れる部屋だった。恐らくここに住んでいる者たちが寛ぐための、プライヴェート・スペースなのだろう。

アンネマリーはジェノスとともに、ジンロウへの綿密な“聞き込み”を行っている。その道のプロフェッショナル二人に寄って集られて、洗い浚い喋り尽くすまで毟り取られるわけだ──悪いことをしているのはジンロウの方なのだけれど、ついつい同情してしまう。彼らの容赦のなさを、よく知っているだけに。

リュウヘイはというと、押し入れから引っ張り出してきたクリア・ボックスをさっきから無心で漁っている。なにかを探しているようだ。こちらには背を向けていて、声を掛けるのが躊躇われる雰囲気だったので、シキミもサイタマも彼に対しては黙殺を決め込んでいた。

「それにしても」
「はい」
「お前えらく落ち着いてんなあ」
「というと?」
「いや、友達が誘拐されたんだろ? てっきり俺パニックになってると思ってたんだよ」
「そりゃあ、焦ってはいますけど──でも、ヒメノですからね。正直あの子がそんじょそこらの男に普通に誘拐されちゃってることがそもそも……なんていうか、おかしいんですよねえ……」

どこか遠い目をしているシキミを、サイタマはきょとんと訝る。

「え? ……どういう意味?」
「……実を言いますと、あの子は──」
「あったああああああっ!」

突如としてリュウヘイが大声を張り上げたことで、会話が停止した。彼の方を振り向いてみれば、その手にはなにやら細長い木の箱があった。太い紐でぐるぐるに縛られて、厳重に封が成されている。引きちぎらんばかりの勢いで結び目を解いていくリュウヘイを、二人は固唾を呑んで見守る──その中に納まっていたのは、緩衝材代わりに詰められた綿と──傷ひとつない、妖艶な迫力を纏った白鞘だった。

「……それって……」
「すげーなオイ、日本刀だろ? それ」
「ああ……今はもう殺しにはハジキが主流だからな、刀なんて流行らねえ。それにこいつァよ、職人から安く譲ってもらったらしいんだが、あんまり出来のいい代物じゃなくてな。結局ぜんぜん陽の目を見られねェまんま、こうやって埃を被ってるってギンスケさんが言ってたんだ」

言いながら、リュウヘイは朴の木で拵えた長物を翳す。

「これがあれば……俺でも、ヨビツギの野郎を……」
「ちょ、ちょっと待ってください……! だめですよ! 人殺しは犯罪です!」

ぎょっとして身を乗り出したシキミに、リュウヘイは吠える。

「先に手ェ出してきやがったのァあっちだろ! よりにもよって、若頭の一人娘を拉致しゃーがったンだぞ! 許せるわきゃアねえ! お嬢は──ヒメノさんは、親もねェ金もねェ喧嘩も弱えェ、街で燻ってたくだらねえちんぴらの俺を拾ってここに迎えてくれた恩人なんだ! あのひとになにかあったら──俺は……若頭に合わせる顔がねえッ!」
「なるほどなー。うん、気持ちはわかるぜ」
「あんだよ、このハゲ。同情なら要らねえぞ」
「……お前は初対面のときから人が気にしてることをズケズケと……俺より年下だろ、お前……まあいいや。それは置いといて、……うん。まあ、お前の事情はわかった。けどなあ、そうやってやられたらやり返すばっかりじゃ、キリがねーだろ。いつまでも終わらねーじゃん。ずっとそんな戦争みたいなこと続ける気なのかよ」
「うるせェよ! だったらどうすりゃいいんだ! 舐められっぱなしでいられッかよ! 誰かが思い知らせてやらなきゃなんねェだろうが! 尻尾巻いて逃げて、ヨビツギの奴に次期党首の座を明け渡して負けを認めろってのか!」
「そうは言ってねーよ。なにもお前がそんなもん背負わなくてもいいっつってんだ。大体お前もうさっきボコボコにされたんだろーが。頭の怪我を見りゃわかるぜ」
「ああ? ……じゃあ──誰がいるんだよ! ここでボケッと待ってりゃア、誰かがなんとかしてくれるってのか!?」
「そうだよ」

短く肯定して、小指で耳の穴を掻きながら、サイタマは言う。

「そのために俺たちがいるんだ」
「……あンだと?」
「悪者退治は正義の味方の役目だろ?」

ふっ、と爪の先を吹いて、サイタマは──にやり、と笑ってみせた。

「ヤクザの抗争。任侠バトル。仁義なき戦い。いいじゃねーか、燃えるじゃねーか」
「て──テメエ、遊びじゃねェんだぞ!」
「んなことわかってるよ」

サイタマの返事には、別に怒気が含まれていたわけでもなんでもなかった。しかし──リュウヘイは気圧された。不可視の圧迫感に胆を握られて、ぐっと言葉に詰まって、二の句が継げなくなる。

まだまだ下っ端とはいえ“そういう業界”に身を置いているリュウヘイである──同じ血が流れているとは信じられないバケモノと相見えたこともある。その度に肝を冷やしながら、いつか自分もそうなりたいと、まるで少年が戦隊モノのキャラクターに憧れるみたいな純粋さで、そういう存在の背中を追っていた。

けれど──目の前にいる、この男は。
それらとさえ、一線を画しているような気がした。

自分でも、その畏怖の正体はよくわからなかったが──とにかく本能的に「あ、こいつ多分、ヤバい」とリュウヘイは直感していた。

それはかつて彼が都会の闇の奥底で、仲間を作らず決まった塒も持たず一匹狼として生きていた頃に無意識で培ってきた“人を見る目”──街にうようよしている喧嘩屋の中から、袖が擦り合う多生の縁でさえ関わるとまずい、本当に危ないヤツを選別して避ける動物的能力の賜物だったのだけれど、そんな曖昧な感覚を指摘できる者はどこにもいなかった。ただ漠然と、とんでもないのが首を突っ込んできちまった、という危機感だけがあった。

そんなリュウヘイの焦燥を知ってか知らずか、当のサイタマは猫背で胡坐をかいて、開いた掌に握った拳を軽く打ちつけながら──茶化すように、誰もが名前くらいは知っている、とある有名な任侠映画の台詞を真似て諳んじる。

「俺らも、恰好つけにゃあ、ならんですけん」