eXtra Youthquake Zone | ナノ





協会本部のエントランスで鉢合ったのは、見覚えのある老人だった。他人の顔と名前を記憶するのが苦手なサイタマでも印象に残っている程度には関わりの深いその人物──クセーノ博士は、サイタマを見かけると相好を崩して軽く手を振ってきた。

ちょっとした会合のために設えられた、簡素なテーブルと一人掛けのソファが並ぶスペース──ホテルのロビーを連想させる空間の一席である。博士はそこに座って寛いでいた。

「久方振りじゃのう」
「元気そうだな、じーさん」

向かいに腰を下ろすよう勧められたが、サイタマは断った。やっと帰宅許可が下りたシキミを迎えに来ているので、長居して世間話をしている余裕がない。ケツカッチンなのだ。博士もなんとなくそれを察したようで、それ以上は踏み入ってこなかった。

「お陰さんでのう。今日は一人なんじゃな?」
「おう」
「ジェノスはなにをしておるんじゃ」
「寝てる」
「こんな時間までか? 調子が悪いのか?」

博士が心配そうに身を乗り出してくるのも無理はない。ジェノスのボディ調整は主に博士の仕事である。ジェノスの活動に不備が出ているとあれば、すぐさま原因を突き止めて修正せねばならない──だが彼が正午を回った現在も布団を抱えてぐにゃんぐにゃんに眠っている理由は、博士の技師としての手腕とはまったく関係のないところにあった。

「いや、昨日S級ヒーローの食事会があったらしくて……そこで間違えて人の酒飲んじまったらしくてさ。潰れてるんだよ」
「それは……大変じゃったろ」
「いや、アイツ速攻で寝ちまったから」

鼻の頭を掻きながら、サイタマは昨晩の顛末を思い返す。千鳥足で帰ってきて、そのまま倒れるように寝入ってしまったジェノス。ヒズミが見たらほとほと呆れるのだろう──いや、ギャップ萌えー! とか言って甲斐甲斐しく介抱するのかも知れない。女心はいつだって複雑怪奇で、サイタマの貧困な想像力の手には負えない。

「オヌシと知り合う前にも、間違って飲酒してしまったことがあってのう」
「へー、そうなの」
「ワシはそのとき確かに地獄を見た」

遠い目をして儚げに佇む博士の横顔に、同情を禁じ得なかった。

「……サイボーグって酒ダメなの?」
「いいや、サイボーグなのは関係ない。むしろ肉体の大部分が機械ゆえ、体内に入った毒素の分解は生身の人間より早い。単純にジェノスの脳構造が特別アルコールに弱いだけじゃ。遺伝子レベルで不適合なんじゃ。まあ未成年じゃから、そもそも飲酒はアウトなんじゃがの……仮に成人したとして、アレは飲まん方がいい。自分のためにも、相手のためにも」
「……………………」
「誰も付き合ってくれんようになってしまう」

一体なにがあったというのだろう。

そういえば以前ジェノスが「クセーノ博士に止められている」といってサイタマの勧めた杯を断ったことがあった。ヒズミと出会って間もない頃、ベルティーユに紹介された店に出掛けたときだ──あれからもう数ヶ月が経ったのだ。月日が過ぎるのは、こうも早かっただろうか。

「なにか用事があったんじゃろ? 引き止めて悪かったのう」
「ああ、まあ……そういや、じーさんはなんでここに?」
「ベルティーユ教授から直々に、こないだオヌシらが巻き込まれた事件の調査協力を仰がれたんじゃ。いろいろと大変だったようじゃな。あのグレーヴィチとかいう若造、ジェノスが半壊させられるほどの化け物を飼っていたんじゃろう?」

なるほど、クセーノ博士にしてみれば、あの古狸も“若造”になるのか──本筋とはかなりズレた部分に感心しながら、サイタマは首肯した。

「ご苦労さんじゃったな。しばらくは休むといい」
「いやあ、ヒーローに休日はねーんだぜ」
「頼もしいことじゃ。──ジェノスによろしく伝えておいてくれ」
「おう。じーさんも元気でな」

別れの挨拶もそこそこに、サイタマは博士と別れてシキミのもとへ向かう。エレベーターでベルティーユが貸し切っている専用フロアまで上がって、研究室を目指して歩く。飾り気のない殺風景な廊下を抜けて、角を曲がろうとしたところで、誰かとぶつかりかけた。サイタマは持ち前の反射神経で難なく避けたのだが、相手は大荷物を抱えていたために反応が遅れて間に合わず、盛大にスッ転んでしまった。

「いててて……」
「悪りい、大丈夫か、って──あ」

思いっきり尻餅をついた腰をさすっていた彼は、サイタマを見て目を丸くした。夜の森を連想させる濃緑の瞳が、きゅっ、と収斂する。

「ハイジじゃん」
「ごめんよ、サイタマ氏。怪我なかった?」
「うん、それはこっちの台詞だな」

サイタマは体勢を直そうとしたハイジに手を貸してやりつつ屈み込んで、彼が運んでいた大荷物──転倒の煽りを受けて散らばった資料の山も掻き集めてやる。なにが記されているのか一瞬だけ興味が沸いたが、見たことも聞いたこともない単語ばかりが羅列していて、あっさり一行目で読解を諦めた。

「忙しそうだな」
「まあね。でもその方がいいよ。バリバリ仕事してるぞー! って気分になれるからね」
「そういうもんかね……」

生真面目な人間の思考回路はよくわからない。一見フランクで落ち着きのない彼だが、根がそういう質だから、あの堅物ジェノスとも馬が合うのだろう。

「サイタマ氏、シキミを迎えに来たんだろ?」
「ああ」
「まだ手続き終わってないみたいだけど」
「そうなの? めんどくせーな」
「本当だよね。たかだか数日のあいだ療養してただけなのに、なんであんなに書類を揃えなきゃいけないのかな」
「大人の事情ってヤツなんじゃねーの?」
「……そっか、じゃあ俺にはわかんないや」

脱力したふうに肩を竦めてみせ、ハイジ積み直した分厚い本やらプリントの束やらのタワーをサイタマから慎重に受け取った。よろけながらも体勢を整えて、ふらつきながらもなんとか歩いてどこかへと去っていった。それを見届けて、サイタマも反対側へ足を進める。

たかだか数日のあいだ、療養していただけ。
その通りだった。怪物から手痛い一撃を食らって、手酷いダメージを頂戴して、トラウマ級の大怪我を負ったにも関わらず、シキミは既に医師から「日常生活に支障はない」と太鼓判を押してもらえるほど回復している。想像を絶する自然治癒力だった。

そもそも──あれだけの傷で、命が無事な方がおかしい。

ここしばらく自分の血を見ておらず、ただの擦過傷とすらも無縁でご無沙汰のサイタマにも、それくらいのことはわかる。ベルティーユにも言ったが、あれは致命傷だったはずなのだ。普通ならもうとっくに天国へ召されている。

──普通なら。

(化け物にされて、普通じゃなくなって、幸せになれるわけがない──か)

あの悲痛で悲嘆で悲愴な叫びがずっと頭の中に反響していた。

シキミは苦しんでいる。嘆き悲しんでいる。自分にしてやれることはないのだろうか。なんでもしてやりたいと思うのに、なんにもさせてくれない。蚊帳の外に追いやられて、取り繕った外側しか見せてもらえない。逸る気持ちの行き場がない。

幸せになれるわけがない──なんて。
そんなことはない、と否定してやりたいのに。
俺がいるだろうが、と主張してやりたいのに。

彼女の苦悩と懊悩の実態を知りもしないくせにそんなことを誓ったとて、無責任な自己陶酔に聞こえてしまうのだろうと思うと、踏ん切りがつかない。

「……くそっ」

どうして自分がこうも悶々としなければならないのか。
あのがきは“せんせい”を一体なんだと思ってやがるんだ。
ちくしょう、この野郎、ヒーロー舐めんじゃねーぞ。

腹立たしくて、苛立たしくて、もう空気も読まずムードもクソもなく詰め寄って白黒つけてやろうかとサイタマは本気で腹をくくりかけていたのだけれど。

「あっ──先生! おはようございます!」

サイタマの顔を見るやいなや屈託のない満開の笑顔を浮かべるシキミに、覚悟は脆くも瓦解したのだった。

世話になっていた個室の掃除をしていたシキミは、その手にクイックルワイパーの柄を持ったまま、ドアを開けた状態で立ち尽くすサイタマに駆け寄った。飼い主の帰還を今か今かと待ち侘びていたトイプードルみたいだった。こんなにも愛くるしくてたまらん生き物を問い質すことなどできるだろうか、いやできない。少なくとも自分には無理だ。到底不可能で絶対不可侵で摩訶不思議だ。

「……おっす」
「もうすぐ片付け終わりますのでっ! しばらくお待ちください! あっ、そうだ、コーヒーでも淹れましょうか!」
「……いえ、お構いなく」

シキミが引っ張り出してきた折り畳み式のパイプ椅子に座してみたものの、所在なかった。忙しなく清掃に勤しむシキミをぼけーっと眺めているだけというのは薄情な気もするが、手伝うと言ったって彼女は頑として受け入れないだろう。先生に雑用なんてさせられません、ゆっくりしててください、とかなんとか言って鼻息を荒くする姿が目に浮かぶようだ。

「シキミ、お前さあ」
「? なんでしょうか、先生」
「……なんでもない」

仰々しかったギプスが外れ、すっかり元通りになった左腕の、瑞々しく白い素肌が眩しい。とりあえず当面は──その華奢で可憐な体が、二度と傷つかないように、心持ちを改めよう。

サイタマは人知れず、心中で兜の緒を締めて。
少し遅い昼食にシキミをどこへ連れていこうか、ぼんやりと考え始めた。