eXtra Youthquake Zone | ナノ





約束の時間ぴったりに訪れた研究室で待っていたドロワットとゴーシュに案内されたのは、いつもベルティーユと話をするときに使用しているのとは別の部屋だった。あの豪奢なプライヴェート・ルームと比較するとやや手狭に感ぜられたが、それでも充分に広い。高級ホテルのスイートのような趣きだった。

「やあ、おはよう。気分はどうだい」
「おはようございます。おかげさまで痛みも引いてきました」
「そうかい。立ち話もなんだ、入りたまえ。朝食を用意してあるのだが、聞いているかい?」
「はい。もうお腹ぺこぺこですよ、あたし」
「健康的でよろしい。若い証拠だな」

奥のテーブルに並べられているのは、ビュッフェかと見紛うほど充実したメニューの数々である。大皿の上で香ばしい匂いを放つクロワッサンとバターロールを筆頭に、薄焼きのパンケーキ、こんがり焦げ目のついたベーコンが添えられたスクランブルエッグ、極めつけに瑞々しい新鮮なフルーツの盛り合わせ──食欲を刺激してやまないそれらを前にして、シキミはごくりと生唾を飲んだ。

「それでは、わたくしどもは失礼いたしますわ」

シキミを送り届ける使命を果たしたドロワットが、ドレスの裾をつまんで膝を軽く曲げ、可憐な礼をした。ゴーシュもそれに倣い、こっくりと頭を下げる。

「ああ、ありがとう、ドロワット。ゴーシュもご苦労だった。そうだ、八時半になったらハイジを起こしてきておくれ。今日はひとつ大仕事があるからね──彼の尻を叩いて、グレーヴィチ研究所から押収してきた資料と機材を整理させておいてくれ。私も所用が済んだら向かうよ」
「承知。しました。教授」
「ごきげんよう、シキミ様」

最初から最後まで恭しい所作で双子がログアウトしたところで、シキミとベルティーユの朝食会が始まった。どこまでも沈んでいきそうなソファに腰かけて、律儀に「いただきます」と手を合わせてから、シキミはクロワッサンに手を伸ばした。瓶詰めのマーマレードをスプーンで塗りつけてから齧りつく。

「どうだい? 口に合うかな?」
「はい! とってもおいしいですよ。外さくさく中ふわふわで」
「ああ、よかった。君は料理の腕が素晴らしいようだから、さぞかし舌も肥えているのだろうと思って不安だったのだよ」
「そんなことはありませんよ。大抵なんでもおいしく食べますから」
「好き嫌いがないのはよいことだ。さあ、どうぞ遠慮なく召し上がりたまえ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えますね」

宣言通り、シキミは脇目も振らずにすべて平らげた。ずっとヒーロー協会から支給される味気ない病人食で飢えを凌いできた欲求不満が爆発していた。久し振りに味覚をダイレクトに刺激する、分厚いベーコンから滲む肉の脂の濃い旨味を堪能しながら飲み込んだ。

「そういえば、さっき仰ってた“大仕事”っていうのは?」
「グレーヴィチ事件の関連でね。現在ヒーロー協会と敵対関係にある……というほどではないが、決して仲良しこよしというわけではない組織の連中がここに来るのさ。ユビキタス機構、という言葉を聞いたことはないかい?」

シキミは蜂蜜たっぷりのパンケーキを咀嚼しながら、首を横に振った。

「まあ、そうだろうな。なにせ秘密結社だ。迂闊にその名を口に出すだけで命を狙われかねない類の──ああ、この部屋に盗聴器などが仕掛けられていないのは確認済みだから、安心したまえ。とにかくそいつらが視察のために訪問してくるんだ。一刻も早くグレーヴィチの研究の全貌を暴くために自分たちも事後捜査に協力したいと言っているようだが、実際はこちらの粗探しをして弱味のひとつでも握ろうという目論見なんだろう。業界トップの権力を持つ我々をどうにか抑圧して──あわよくば少しずつ乗っ取って、自在にコントロールできる駒にしたいのだよ」
「はあ……」
「数年前までは彼らが闇社会の頂点に君臨していたからね。そりゃあ面白くないだろう、設立して間もない団体が世界の裏表を問わず幅を利かせているのは。最初からそうだったわけじゃないんだがね。S級ヒーローの台頭以降、パワーバランスが大きく崩れた──あれだけの戦闘員を何人も従えている組織は他に類を見ない。どうにかしたくとも、手を出せないのさ。実力行使では屈服させられない。だから内側から切り崩そうとしているのだろう。表向きにも名が知れてしまっている以上、ひとつでも些細な綻びが露見してしまえば世間の信頼は一気に失われる。そこに付け入りたいのさ」
「……なんだか大変そうですね」
「頭の痛い話だよ。ニーナ氏も立ち会ってくれるそうだから、かなり心強いがね。それに──問題はそれだけじゃない」
「えっ?」
「君のこともある」

ぎくり──と、シキミは肩を強張らせた。
硬直しているシキミに、ベルティーユはA4サイズの紙の束を差し出した。シキミは迷いながらもおずおずと受け取って、紙面に記された文字列に目を通していく。

「君に依頼された“解毒”の件についてまとめておいた。時間があるときに読んでくれ。とりあえず今週中に君の特異体質──体内で異常分泌されている、本来ヒトにはありえない抗生物質などをあるべき状態へ治すために私が調合した薬を渡すから、毎日ちゃんと飲むように。それでしばらく経過を見て、落ち着いてきたと判断できたら、次の段階に移ろう。どれくらいの時間を要するかはわからないが、私は自分の誇りに懸けて君を普通の女子高生に“戻して”みせる。大船に乗った気持ちでいてくれたまえ」
「……ありがとう、ございます。本当に」
「どういたしまして。──ところで、シキミ」
「? なんでしょうか?」
「このことをサイタマ氏に打ち明けるつもりはないのか?」

ベルティーユの問いに、シキミは切なげに目を伏せて唇を噛み、小さく頷いた。

「……はい」
「どうしてだい? 拒絶されるのが怖いのか?」
「だって──あたしが……あたしがこんな、普通じゃないってわかったら、先生きっともう今みたいには……あたしの“実家”のことだって、先生が知ったら、見捨てられるんじゃないかって思うと……怖いんです」
「私は、彼がそんな器の小さい男だとは思わないがね」
「そうですね。先生はすごいひとです。誰より強くて優しくて、大きいひとだって、あたしも知ってます。だけど……そういうことじゃないんです。あたしが育てられた“実家”の人間……“あれ”に関わったら、目をつけられたら終わりだっていうのは、あたしが誰よりわかってるんです。先生をあんな危険な……狂った人間に近づけたくないんです。あいつらは卑怯で、下種で、狡猾で、残酷で……心を踏み躙るようなひどいことを平気でするんです。物理で戦いに勝てるだけじゃ、あいつらからは逃げられません。先生だって、どうなるかわからないんです」

振り絞るように、シキミは言う。膝の上に置いた小さな拳を震わせて、今にも泣き出しそうな声で。

「今のところ“実家”から君へのアプローチは?」
「ありません。不気味なくらいに。泳がされてるのかも知れません……あいつらがなにを考えてるのかなんて、あたしには絶対わかりません」
「そうかい。……少し突っ込んだことを訊くが、いいかい」
「どうぞ」
「グレーヴィチの研究所で、音速のソニックと会ったそうだね」
「……はい。ちょっとですけど、話しました」
「なにか言っていたか? 彼もまた君の“実家”と繋がりのある人物だろう」
「特には。腐ってもお前は俺と同じ穴の貉なんだから、あまり失望させるなと──それくらいです。彼はあの里の正統な血筋ですけれど、私は所詮“分家”みたいなものですから……見下しているんでしょう。躾に失敗した犬畜生かなんかだと思ってるんですよ」
「ひどい男だな」
「……否定はできませんよ。実際あたし、そんな立場でしたし。あいつらにしてみたら、あたしなんて実験動物でしかなかったんでしょうから」

自虐っぽく片頬を歪めるシキミを、ベルティーユは真っすぐ見据える。

「昔がどうであれ、現在の君は素敵なヒーローだ。胸を張っていい。どんな苦しみを伴ってでも自分を“解毒”すると──過去と決別すると腹を括ったんだろう? 覚悟を極めたんだろう?」
「……はい」
「並大抵の意志じゃあないことは、私にもわかっている。私は君の選択を尊重する。最優先する。だから──」
「だから……?」
「もっとたくさん食べなさい。腹が減っては戦はできない」

悪戯っぽくウインクしてみせるベルティーユに、シキミは不格好に笑った。
渇いた喉を冷えたレモンティーで潤して、威勢よく食事を再開する。