eXtra Youthquake Zone | ナノ





「……っていう背景があるから、ローレンス・レッシグは人間の行動を制約する概念に法律と規範と市場と並べて、アーキテクチャっていう言葉を選んだんだよ」
「なるほど。社会の設計を変える……環境の物理的および生物帝な条件を操作し、行動を誘導する制約……社会の成員が自発的に一定の行動を選択することによる、文明を維持して管理するためのコストの低減。そういう意味合いか」
「そういうことだよ。だから現代においてアーキテクチャっていう理念はとても重要なんだ。建築様式としてだけじゃない。設計思想そのものを指す言葉として定着してる。コンピュータにも応用されているしね。そういえば、その方面で広く知られてるノイマン式アーキテクチャは──」

ハイジとジェノスがそんなことを語り合っているのは、協会本部に数ある談話室のうちのひとつである。四人掛けの丸テーブルが水玉模様のように配置されている、それなりに広い空間だ。簡易式のコーヒーメーカーなどもいくつか用意されており、ゆったりとしたジャズ調のBGMまで流れていて、のんびりと寛ぐにはうってつけの場所だった。

昼時には食事を摂りに来る多くの構成員たちで溢れるのだが、現在は午後二時を少し回った中途半端な時間帯であるため、そこに二人以外の姿はない。文字通り貸し切り状態だった。

「位相幾何学の予想問題で“単連結な二次元閉多様体において、どのような輪であっても引き絞れば回収できるようであれば、その表皮部分は二次元球面に同相である”というものがあるんだが」
「ああ! 知ってるよ! ポアンカレ予想だろう? 証明論文の検証に三年くらいかかったんだ。しかもその論文を発表した数学者はフィールズ賞を辞退して、賞金も一切もらわなかったっていうんだろ? カッコいいよね。最高にクールだと思うよ」
「熱量やエントロピーなどの物理学的な観点から見る必要もあったせいで、その数学者が自ら壇上に立って解説したときも、その場にいた他の研究者たちはほとんど理解できなかったんだろう? 当時の連中はトポロジーに固執するあまり、随分と視野狭窄になっていたらしい」
「つまり柔軟な思想っていうのが大事なんだね」
「なにごとに於いてもな」

とても未成年の若い男ふたりが花を咲かせるような話題ではなかったが、本人たちは楽しそうだった。ジェノスは普段と大差ない無表情だが、それでも仕種のひとつひとつから、ハイジに対していくらか気を許しているらしい雰囲気が見て取れる。

「……あっ、そろそろ時間だ」
「ベルティーユ教授か?」
「うん。ゴーシュくんとドロワットちゃんの最終調整。もうすぐ元通りだよ。今回の事件を受けて、破損した箇所……耐久性が薄くて脆弱だって判明した部分をかなり強化したから、もうあんな忍者野郎にやられることはないだろうね」
「忍者野郎──グレーヴィチが雇っていたという用心棒のことか」
「最後までスカしてて、嫌なヤツだった。なんだかんだ守ってくれたのは感謝すべきなんだろうけどね。結果として俺が生きて帰ってこれたのは、彼のおかげなわけだし」
「義理を感じる必要なんかない。敵は敵なんだ。次に会ったら俺が灰にしてやる」
「あははははっ! すごい、頼もしいや!」
「それより先にお前がやられてしまっていたら俺はもう知らんがな、ハイジ」
「……君ってマジで上げてから落とすタイプだよね」

じっとりとジェノスを睨みつつ、ハイジは椅子から腰を上げた。よれた白衣の襟を正して、そして彼が胸ポケットから取り出したのは眼鏡だった。黒縁のセルフレームで、装飾などは特に施されていない、至ってシンプルなデザインのものである。

「近眼なのか、お前」
「ううん。これは伊達だよ。ジャスティス・レッドの……テオ君の形見。ヒズミがテオ君から受け取って、そんで俺にくれたの」
「……ヒズミが」
「気持ちの整理がつかなくて、ずっとしまってあったんだけど……なんか吹っ切れてさ。やっぱり俺はジャスティス・レッドみたいになりたいって、そう思ったからさ。テオ君は最終的に悪党になっちゃったのかも知れないけど、でも俺は……俺に“ヒーロー”っていう夢を与えてくれたテオ君を今でも尊敬してるんだ。褒められたもんじゃないけどね。ただの意地だよ」

どれほど汚れてしまおうとも。
かつての彼の輝きを──知っている。

今こうして歩いている道は、彼の背中が照らしてくれたのだから。

「軽蔑するかい?」
「……いや」

ジェノスは小さく首を横に振った。彼もまた、同じように──極めて利己的な慕情と、盲目的な執着と、支配欲と独占欲と庇護欲で以て、国家の安寧秩序を守るヒーロー協会に反旗を翻し、世間を不安に陥れて騒がしている指名手配犯に恋焦がれている。

理屈じゃないのだ──人と人との繋がりは。

「あんな性根の捻じ曲がった優男とヒズミを一緒にするのは気に食わないが……」
「えっ? なんか言った?」
「なんでもない。もう時間がないんだろう? 早く行け」

ジェノスに背中を押されて急かされて、ハイジは眼鏡をあるべき位置に掛ける。それが彼なりの、メンタル面におけるスイッチの切り替え方なのだろう──雑談していたときよりも、幾許か精悍な顔つきになっていた。

「そんじゃーね」
「ああ」
「もっと時間あるときに、またトランプやろう」

最後にそう言って談話室を出ていったハイジを見送って、ジェノスはひっそりと口を斜めにした。侮りと嘲りとが混ざった、皮肉っぽい笑いだったけれど、確かに親しみも込められていた。

(……懲りない奴だな)

年下の“友人”の底抜けた楽観に呆れつつ、ジェノスも立ち上がった。
シキミの様子でも見に行ってやろう。サイタマが調達してきた暇潰しの文庫本も、どうせ彼女にはレベルが高すぎてついていけないはずだ。
話し相手くらいには、なってやってもいいだろう。

空になった紙コップを握り潰して、ドアの側に鎮座していた屑籠に放り込む。そうして誰もいなくなった談話室に、空調が唸る微かな音だけが流れていた。



謎の悲鳴が聞こえてきたと思ったら、次の瞬間には不気味なくらい静まりかえって、ややあってから室内に戻ってきたのはサイタマだけだった。

「……あ、あの、先生……キングさ……あ、いや違う、……お兄ちゃんは」
「もう帰ったからそんな呼び方せんでよろしい」

ぴしゃりと言われてしまい、シキミは二の句が継げなくなってしまう。

「お知り合い……だったんですか?」
「最近ちょっとあってな。しかし二度とアイツをお前には会わせない」
「ええええ!? どっ、ど、どうしてですかっ」
「わけのわからんコスプレ阻止だ」
「こ……コスプレ? ってなんですか?」
「こっちの話だから気にすんな」

ベッド脇のスツールにどかっと尻を落とし、サイタマが腕を組んでふんぞり返る。どう控えめに見てもキングに対して腹を立てているのは明らかだった。外でなにがあったというのだろう。

それにしても、サイタマとキングに繋がりがあったというのは驚きだ。他に類を見ない強者同士、通ずるものがあったのだろうか。突出した存在は互いに引かれ合い、親交を深めながら切磋琢磨し、見えない強固な絆で結ばれる──なんて、いい加減バトル漫画の読みすぎかも知れない。

けれど自分もそうありたいものだ、とシキミは思う。

「……なあ」
「なんでしょうか?」
「お前『魔法JKマジカル☆ローザ』って知ってる?」
「えっ、あ、はい知ってますよ。ヒメノが好きなアニメで……ヒロインの子がすごくかわいくて……ピンク色のフリフリの衣装に変身して戦うんですよね。猫耳も生えるんですよ。えっと……“いちごミルク味の魔法で、悪魔もメロメロにしちゃうにゃん!”っていうお馴染みの台詞があって」
「…………………………」
「…………………………」
「…………………………」
「……すいません」

重い沈黙とサイタマの唖然とした視線に耐え切れなくなって、ばっちり決めた猫っぽいポーズを解いて項垂れるシキミ。年甲斐もなく美少女アニメのキャラクターの物真似などしてしまった羞恥がふくふくとした頬を朱に染める。きっと呆れられているんだ──とにわかに死にたい衝動に駆られていた彼女だったが、当のサイタマが抱いていたのは軽蔑とはまったく違う種類の感想だった。

根暗なマニアどもが鼻息を荒くして寄って集るようなフィクションの女の子なんて、媚びが見え見えで不自然なくらいにあざとくて気持ち悪いだけだと思っていたのだけれど。

なんというか。
──予想以上の破壊力だった。

キングが提示しようとした画像をチェックもせずに却下してしまったのは早計だったかも知れない。

(……やっぱり準備してもらうか、衣装)

まさかサイタマが本気でそんなことを考えているなどとは夢にも思っていないシキミは、ひたすら耳まで林檎のように熟れながら、全身を針で突かれているような居心地の悪さに頭を抱えるしかなかった。