eXtra Youthquake Zone | ナノ




だいぶ左半身の痛みも引いてきて、普段通りの生活ができるようになってきた。ギプスこそまだ外れていないものの、自由の身に戻れるのも遠くないだろう。早く完治して、鋭気を養って休養を終えて、ヒーロー活動を再開したい。シキミの心中には現在その思いしかなかった。日々くるくると献身的に働いてきたシキミには、協会本部から与えられた個室のベッドでゆっくり寝て過ごすだけの怠惰な時間というのは苦痛以外のなにものでもないのだった。

「……はぁあ」

誰もいないのをいいことに、シキミは気の抜けた溜め息をつく。読みかけの『独白するユニバーサル横メルカトル』の文庫本を枕元のキャビネットに置いて、ごろん、と仰向けに倒れ込む。サイタマが「退屈しないように」と持ってきてくれた書籍のうちのひとつなのだけれど──ヒズミの部屋から勝手に拝借してきたらしい──長ったらしい気取ったタイトルからも予想できるようにやたらと複雑で難解で、読み進めるのにひどく体力を要する。今までツルコやヒメノから勧められた漫画くらいしか触れたことのなかったシキミには、いささかハードルが高すぎた。

そういえば当のサイタマは、つい昨日だか一昨日だかに怪人と交戦したらしい。たまたま巨大な鳥と遭遇して、大した手応えもなく、毎度の如く一撃で倒してしまったそうだ。彼は別段なんでもないことのように言っていたが、後で聞いた話によれば災害レベルは鬼だったらしいし、誇るべき快挙のはずなのだけれど──まあ彼にしてみれば、朝飯前の相手だったのだろう。

(あたしも、いつか、先生みたいに……)

白い天井に右手を伸ばして翳し、ぎゅっと拳を握る。もっともっと強くならなければ。どんな敵でも、どんな悪でも、たちまち滅ぼしてしまえるだけの圧倒的な力。長年ずっと求めてやまなかったそれを持っている──持て余しているサイタマと出会って数ヶ月が経ったけれど、自分も少しくらいは彼の立つ場所に近づけているのだろうか。成長できているのだろうか。

実感は──正直なところ、あんまりない。
敗けてばっかりで。
助けられてばっかりだ。

「シキミー、入るぞー」

無遠慮なノックと同時に、壁の向こうから聞き慣れた声が飛んできて、返事を待たずに開かれたドアから顔を出したのはサイタマだった。あまりにもタイミングのよすぎる来訪に、シキミの心臓が跳ねた。悪いことをしていたわけでもないのに、ちょっとだけ罪悪感が沸いてしまう。

「あ、先生、おはようございます、すいません」
「えっ? なんで謝った?」
「えーと、その、これといって深い意味は特に……どうされたんですか?」
「いや、まあ、今日も見舞いに……そんでさ、お前に会いたいっていうヤツがいたから連れてきたんだけど」
「あたしにですか?」
「おう。入れてもいいか?」
「は……はい。どうぞ」

誰だろうか。サイタマの口振りから察するに、自分とは面識のない人物なのだろうが、他ならぬサイタマの知人というのならば無礼な真似をするわけにはいかない。シキミは居住まいを正してベッドの上に正座して、挨拶の姿勢を整える──しかしサイタマの後ろについて室内に足を踏み入れてきた人物の顔を見て、思わずぎょっとしてしまった。

(──ええええええええええええええ!?)

がっしりとした体格で、とにかく威圧感が半端ない。オールバックに撫でつけられた金髪と、左目に走る三本の細い傷痕がそのプレッシャーに拍車を掛けていた。じろりと睨まれて、シキミは竦み上がってしまう。歴戦のマフィアめいた強面に気圧されたのもあるが、それだけではなかった。

なぜなら──その男を、シキミは知っていた。
このご時世、誰もが一度は彼の写真を見たことがあるだろう。

S級7位。
その名を──キング。
“地上最強の男”。

「……えっと、はっ、はじめましてっ!」

どぎまぎしながら三つ指ついて、シキミは頭を下げる。予想を軽くブッ千切ってきた展開にどうしようどうしようと狼狽える彼女の鼓膜をふと打ったのは、一定の間隔で刻まれる低い音──ドッドッドッドッ、と空気を震わせるその響きにも、シキミは覚えがあった。通称“キングエンジン”と呼ばれる、彼が臨戦態勢に入った時に発する音である。まさか機嫌を損ねてしまったのだろうか。ますます縮み上がって、シキミはもう半泣き状態だった。

「あっ、あのっ、わたくしA級ヒーロー猛毒天使と申しまして……その」
「知っている。だから会いに来た」
「ほえっ、あっ、光栄です! キング様のような偉大な方に存じていただけているなんて……」
「……キングと呼ぶな」
「はっ! 申し訳ありませんっ! 私のような下級の者が軽々しくあなた様のお名前を」
「俺のことは親しみを込めて“お兄ちゃん”と呼」

すっぱーん、とサイタマがキングの後頭部を思いっきり叩いた。遠慮もへったくれもない師の暴挙に、シキミから一瞬で血の気が引いた。本気で命の危機を覚悟したシキミの戦慄など露知らず、サイタマは「悪りい、ちょっと待ってろ」とだけ言い残してキングの首根っこを掴み、ずるずると外に引き摺り出してしまった。扉が閉められて、シキミの視界から二人の姿が消える。



廊下に出て、周囲に人気がなかったのは幸いだった。顔面を引きつらせながら青筋を立てているサイタマと、彼に一撃もらった箇所をさすりながら唸っているキング──ヒーロー協会の関係者に見られでもしたら、いろいろと困ってしまう状況である。

「いったいよサイタマ氏! マジで殴ったでしょ今」
「当たり前だろーが。お前なに言ってやがんだシキミに」
「ヤバいと思ったが興奮を抑えられなかった。キリッ」
「キリッ、じゃねーよバカ野郎! 怒るぞ!」
「もう怒ってんじゃん……」

ぼそぼそと不平不満を漏らして、キングは口を尖らせる。

「いや、だって、雑誌とかで見るより全然かわいかったからさ……なに? あの“ほえっ”って……反則じゃん……三次元とは思えないクオリティ……」
「手ェ出すなよ、お前」
「そんなことするわけないじゃん。お弟子さんなんでしょ? ……あ、でも師匠権限で『魔法JKマジカル☆ローザ』のコスプレしてもらうよう頼んでもらえない? 衣装はこっちで用意す」
「殴るぞ」
「……冗談だよ」

たじろいで身を引いたキングに、サイタマは頭を掻いて項垂れた。ついこないだ紆余曲折あって知り合った彼が、なにかの拍子にシキミの隠れファンだと知ったので紹介してやろうと親切心で連れてきてやったのだが、どうやら失敗だったようだ。

「大体なんなんだ、マジカルなんちゃらってのは」
「知らないの? 大人気のアニメだよ。今ちょうど三期やってて、五人組の女子高生が悪の帝国と魔法の力で戦うんだよ。画像あるけど出そうか?」
「いや、それは別にいいけど」

うきうきとスマートフォンを取り出しかけたキングを、ばっさりと切り捨てるサイタマ。取りつく島もなかった。意気消沈しながらポケットに突っ込んだ手を抜いて、しかし思い直したようにキングはへらりと口角を上げた。厳めしい顔立ちにはとても似合わない弛んだ表情だった。

「とりあえず元気でよかったよ。なんとかっていう博士の研究所ですごい怪我したってニュースで見て、ずっと心配だったからさ。もうすぐ退院……って言っていいのかわかんないけど、おうち帰れるんでしょ?」
「そうみたいだな。夕飯三人分って大変なんだけどなー」
「え? ……三人分……って? なに?」
「言ってなかったか? 俺とジェノスとシキミ、同じマンションに住んでんだよ。ていうか俺とジェノスの部屋の隣にシキミが居ついてる感じだな。そんで毎日メシは一緒に食っててさ。いつもシキミが作ってくれてたんだけど、しばらくはそんな雑用させるわけにもいかねーだろ? アイツめちゃくちゃ料理うまいから、同じレベルのは間違いなく用意できねーけど……ん? おいキング、お前なんで震えてんだ」
「……しろ……」
「ああ? なんだって?」
「リア充爆発しろおおおおおおおおお!!」

廊下に響き渡る、無職でオタクで引き篭もりな二十九歳の恨みがましい悲痛な絶叫。

これもまた、嵐が過ぎ去った恩恵──なのだろうか。
平穏で平和で平常な世界に戻ってこられた証拠。

賑々しくて騒々しい、愛すべき日常へと、帰ってきた。