eXtra Youthquake Zone | ナノ





ずっと白い檻の中に閉じ込められていた。

飼い殺しだった。着るものと、食べるものと、与えられたのはそれだけだった。些細な刺激への接触も許されず、自我を持つことさえ禁じられ、ただ動物のように生きていた。己が普通とは違うのだという認識だけは漠然とあった。誰かにそう教唆されたわけではない。なんとなく察していた。ときどきやってくる白衣の連中が、自分に対して興味と怯懦の綯い交ぜになった視線を向けていたからだ。彼らの会話は最初こそ意味不明だったが、すぐにすべて理解できるようになった。自分の数奇な生い立ちについても、彼らの言葉を盗み聞いて知った。彼らの白熱したディベートに初めて口を挟んだとき、全員が驚愕していた。無理もないだろう。生を享けて間もなく軟禁された、人の言葉さえ知らなかったはずのイキモノが、専門家のアカデミックな討論に正確なレスポンスを返してきたのだ。そんな彼らの心情さえも、推察するのは容易かった。

そいつらだけではなかった。全身が赤ずくめで、とにかく派手な出で立ちをした若い男も、定期的に自分を訪ねてきた。彼は自分をヒーローだと言った。初めて耳にする単語だったので、ヒーローとはどういう存在かと問うたとき、彼は誇らしげに“強きを挫き弱きを救う正義の味方だ”と説明した。それは素敵だと思ったので、素直に口に出したところ、彼は笑った。自分も笑った。

彼の話す武勇伝には、毎回とても引き込まれた。いたく感動した。色彩の乏しい無色透明の空間に、唯一もたらされた知的好奇心の欠片だった。かっこいい、自分もそんなふうになりたい、と強く願うようになった。彼いわく、オトコノコは誰でもヒーローに憧れる時期がある、とのことだった。なるほど、そういうものか、と納得した。

そう──彼のようになりたかったのだ。
それだけが生きる希望だった。

いつしかやがて、彼は自分に会いに来なくなった。待てど暮らせど、彼は二度とこの牢獄を訪れてこなかった。涙が出るほど淋しかったのを覚えている。孤独に打ちひしがれながら、それでもヒーローへの憧憬は色褪せなかった。自分も正義の味方になるんだ、と心に決めた夢が揺らぐことはなかった。彼のように逞しく、そして優しいヒーローになるんだと、思いを募らせていた。

外に出る許可が下りたと聞かされたときは、信じられなかった。

なんでも“脱走した凶悪犯の捜索に協力してほしい。ヤツを探し出せるのは君しかいない”そうだった。義憤に燃えた。長いあいだ焦がれ続けた、彼のような正義の味方になれるときが遂に来た。やっと彼と同じ舞台に立てると思った。しかし渡された凶悪犯の顔写真を見て、すべての希望は瓦解した。

生まれて初めて全身に降り注ぐ陽射しがとても目に眩しくて。
涙が出るほど痛かったのを覚えている。

彼と出逢ってから、七年が経った日のことだった。



「……きろ、おい起きろ、アーデルハイド」

乱暴に揺すられて、ハイジは茫洋とした微睡みから現実に引き戻された。顔の上に開いて載せていた『ライ麦畑でつかまえて』の文庫本が床に落ちて、ばさり、と音を立てた。目を擦りつつ横になっていたソファから体を起こし、寝起きの胡乱げな眼差しで傍らに立つ男を見つめる。

「んん……? ジェノス氏?」
「こんなところで寝るな。極秘資料室だぞ」
「……あー、オチちゃってたのか、俺」

寝癖を手櫛で撫でつけて、ハイジは凝り固まった全身の筋肉を解すように伸びをした。夢を見ていたような気がする。悪夢──ではなかったと思うけれど、決して清々しい気分ではなかった。

「暇なのか、お前」
「まあね。教授が今サイタマ氏と会ってるから、ゴーシュくんとドロワットちゃんの修復作業が一時中断になってて……ずっと動かしっぱなしだったアーム・ロボット休めて、機械熱を冷却しなきゃいけないから、どのみち仕方ないんだけどね。休憩中ってこと」
「そうか。ご苦労なことだ」
「これが仕事だからね」

飄々と言いながら、ハイジはジェノスの顔色を窺っている。彼は先日グレーヴィチ研究所で勃発したあの大事件において、自分の素性を余すところなく知ったはずだ。アーデルハイドと名付けられた人工生命体が──完全記憶能力を備えた絶対的な頭脳、スーパー・コンピュータをも凌ぐ圧倒的な処理能力を搭載した、世界中のありとあらゆる現象を高速演算のもとにたちまち解析してしまう全知全能のプロトタイプであるということを、彼は知らされたはずなのだ。

ジェノスの性格上、恐怖を覚えるとまではいかないだろうが、それでも深い溝が生まれてしまったのは間違いないだろう。以前と同じように、親しく接してくれることはなくなると予測される──まあ、仲良くなったと思っているのは自分だけなのかも知れないけれど。初めて会ったとき「うるさい」と一蹴されてしまったのを思い出して、ほんの少し悲しい気持ちになった。

そんなハイジの心中を知ってか知らずか、なにやらジェノスはカーゴパンツのポケットを漁っている。そこから取り出したものを、無言でハイジに差し出した。掌サイズの小さい長方形の箱だった。玩具店やコンビニ、最近は百均でも販売されているそれを見て、ハイジは目を丸くした。

「……トランプ?」
「買ってきた。正真正銘ちゃんとした新品だ」
「えっ?」
「新品なら傷だの汚れだのでカードを覚えられないだろう。条件的にイーヴンになる」
「…………………………」
「帰ったら十六回戦だと言っただろう?」

真顔でそんなことを述べるジェノスに──ハイジは。
腹を抱えて、ひっくり返りそうなくらい大笑いした。

「あっはっはっは、本当に? ええっ? いいのかい? 言っとくけど、俺、それくらいの小細工じゃ負けないよ」
「小細工だと? 失礼な……口の利き方を知らないガキだ」
「君の行動パターンは大体もう覚えちゃったからね」
「ああ、そうだろうな。そうだと思ったから、今回は趣向を変えよう」
「趣向を変える……って?」

首を傾げているハイジに、ジェノスは──かつて真夏の大祭典“ヒーローズ・ロック・フェスティバル”で幽霊屋敷に怖気づくヒズミの姿に見せたのと同じ、どこか嗜虐的な、有体に表してしまえば“底意地の悪いいじめっ子みたいな”笑みを浮かべてみせた。

「新しい勝負方法を考えてきた」



ベルティーユが子供たちの修理に戻らなければならないというので、会談は二十分程度でお開きになった。その間に話したことといえば、もっぱら今回の騒動に関することばかりだった。グレーヴィチが薬物投与によって凶暴化した怪人を制御しきれず、志半ばで命を落としたというニュースは巷を戦慄と同情で賑わせているが、彼が歪んだ信念のもとに行っていた非人道的な実験や、彼のプロジェクトの本当の目的が“死んだ娘を蘇生して進化させ、神と呼べる存在に造り変えること”であったという真相は隠匿されているようだった。さすがに報道規制が敷かれているのだろう。

グレーヴィチが日々の研究活動において辿り着いた数々の生物学的新発見──偉業と称すべき多岐に亘る功績は、動機がどうであれ膨大な量がある。彼が現代医療の発展に貢献したのは紛れもない事実なのだ。それらの技術にまで必要以上にマイナス・イメージがつくような風潮になってしまえば、救える命も救えなくなる。それだけは避けなければならないと、関係省庁および警察、そしてヒーロー協会の意見は概ね合致していた。

「嫌な事件でしたね」
「腕が一本まだ見つかってないんだろ?」
「あはは、先生、雛見沢村じゃないんですから」
「よく知ってんなあ、お前」

本部の廊下をだらだらと歩きながら、サイタマとシキミはそんな会話を交わしている。これで間を保てているのかどうか、人付き合いの苦手なサイタマにはどうにも判断しかねたが、ジョークが通じてシキミが笑っているので、よしとしておくことにした。

「まあ、オヤシロさまっていうよりタタリ神だったけどな、あの化け物」
「今度はジブリですか」
「人間の業ってのは恐ろしいな」
「そうですね……」

伏し目がちに相槌を打つシキミを、サイタマはさりげなく観察する。左上半身を覆っているギプスはひどく痛々しいが、本人は至ってけろりとしている──ように見える。しかしベルティーユの弁を聞くに、彼女が直面している肉体的な苦しみは相当のはずなのだ。

我慢しているのだろうか。
自分に弱味を、見せないために。

(……どうしてほしいんだよ、お前は)

なにも言わない。
なにも教えてくれない。

どうすれば正解なのかわからない。

「服もダメになっちゃいましたしね」
「あー、それな……ただでさえ少ねえってのによ。なに着りゃいいんだ」
「今度買いに行きましょうか」
「そうだな。適当に選んでくれ」
「え? あたしがですか?」
「俺そういうセンス壊滅的なんだよ。良し悪しがわからん。お前に任せる」

何気ない頼みごとだったのだが、シキミは重大な任務と受け取ったらしかった。張り切った様子で「承知しました!」と意気込んでいる。そこまで気合い入れなくてもいいぞ──と彼女を諌めかけたサイタマだったが、シキミとふたりでショッピングに出掛けるというのはなんだか王道でテンプレートなデートのように思えたので、黙っておいた。

「そういや、ジェノスもいるらしいな」
「まだメンテナンス中だって聞きましたけれど」
「さっき終わって、こっち来てるんだと。教授が言ってた。どこにいるんだろうな……」

果たして──探すまでもなかった。

たまたま差し掛かった休憩用のスペースに、ジェノスがいた。ハイジも一緒だった。二人でテーブルを陣取って、向かい合ってベンチに座り、なにやら広げている。なんの変哲もない、普通のトランプだった。

互いに手札の束をひとつずつ手元に置き、そこから一枚ずつ引いて、場の中央にひたすらカードを出している。出す順序には一定のルールが──なんらかの法則があるようだったが、シキミにはどうにも把握できなかった。

いかんせんジェノスの手捌きが速すぎる。
猛烈な勢いで手札がなくなっていく。

「ちょっちょっ待って早い早い早いってばジェノス氏」

ハイジが慌てて制止を呼びかけても、ジェノスの手は止まらない。あっという間にすべての手札を出し終えて、決着がついてしまったらしかった。

「……なにしてんの、お前ら」
「先生! おはようございます」
「今のあれだろ? スピードだろ?」
「はい。そうです」
「すぴーど、ってなんですか?」

きょとんとしているシキミに、サイタマが簡単な説明を試みる。

「そういうゲームだよ。こう……トランプを赤と黒に分けて持ってシャッフルして、一番上の一枚を真ん中に出して、そのカードと数字が隣り合ってるカードを自分の手札からなるべく早くガンガン出していって、早く手札がなくなった方が勝ち、みたいな。詳しくはウィキ先生に聞け」
「はあ……なんとなくわかりました、けど……」

ということは──彼らが行っているらしい“スピード”という種目は、ババ抜きとか大富豪とか、駆け引きや運がモノを言うターン制のゲームとは異なり、単純に素早い動きと判断能力のみが要求されるわけだ。純粋な反応速度と反射神経の差が勝敗を分ける。

──つまり。

(……ハイジさん、どう足掻いてもサイボーグのジェノスさんには勝てないんじゃ……)

そう思っても、口には出せないシキミだった。

「ずるい! ずるいよ! こんなの勝てるわけないじゃないか!」
「いや、わからないだろう。まだ七戦目だぞ。諦めるな。というかあと九回は絶対に付き合ってもらうからな、俺が勝ち越すまで」
「……大人げねーな、お前」
「先生、これは真剣勝負です。敗けたままでいるのは性に合いません」

真剣な口振りで言って、ジェノスはてきぱきとカードを分けていく──有無を言わさず八回戦の準備を進めていく。ハイジは頭を抱えて唸っていた。

「ずるい……汚い……理不尽だ……」
「観念しろ。世界はそういうふうにできているんだ」
「教授に言いつけてやる……」
「素直に敗北を認めて降参して謝るなら許してやってもいいぞ、ハイジ」

完全に上から目線のジェノスは、どこか愉快そうに見える。相変わらず仏頂面ではあるが、排他的な刺々しい雰囲気はない。初めて自分を愛称で呼んでくれたことからも鑑みて、ちょっとは心を開いてくれたということだろうか。彼を自分の友達にカテゴライズしてもいいということだろうか。本人に訊いたら否定されてしまいそうだけれど、もしそうなのだとしたら、それはとても嬉しいことだと思った。

なにせ──
遊び相手に出逢ったのは、生まれて初めてなのだから。

「どうするんだ? サレンダーするのか?」

こんなにも楽しくてたまらない時間を。
途中で投げ出してなるものか。
がばっ──とハイジは、勢いよく頭を上げて。
白い歯を覗かせて、快活に笑った。

「もう一回だ!」