eXtra Youthquake Zone | ナノ





掌中のピストルを、右腕を伸ばして地面と水平に構える。ごくごく短い間髪の間に照準を標的へ合わせて、シキミはトリガーを引く。防音処理の施された壁に囲まれた広い室内に澱のようにこびりついていた重苦しい静寂を裂くように、くぐもった独特の銃声が響いて──十数メートル前方に設置された人型のターゲットの左胸に小さな穴が空いた。

次いで発射された訓練用の鉛玉も、すぐ近くに着弾した。シキミが引鉄を絞る度に五百円玉サイズの風穴がその周囲にみるみる増えていって、最後の一発は頭部の中央に突き刺さった。

撃ち尽くして空になった拳銃を脇の台に置いて、耳を保護するために装着していたヘッドギアと、手首に巻いていた布製の太いベルト──心拍数や呼吸動態などの生体情報を分析するためのデバイスが組み込まれた装置を外す。額に滲む汗を拭いつつ顔を上げると、天井からぶら下がっているモニターに、既にそれらの記録が表示されていた。かつて自分が叩き出したベスト・スコアには遠く及ばないものの、おおむね良好のようだった。

あの山奥の研究所で起こった大騒動から数日が経過して、受けたダメージによって落ちていたコンディションは順調に回復しつつある。まだ上半身の左側に喰らった──“喰らわれた”噛み跡は癒えきっていないので、肩から腕にかけてをガラス繊維製のギプスによって固定しており、自由には動かせない状態なのだが、それでも感覚は徐々に戻ってきていた。治癒の兆しが見えているのは喜ばしいことだが、同時に本来あらゆる生物に備わっている痛みという常識的な神経反応も帰ってきているのが悩ましいところではあった。

(ろくに寝返りも打てないんだから、嫌になっちゃうなあ、本当……)

しかしそもそも、自分がもっとしっかりしていればこんな事態にはならなかったのだ。相手が可憐な少女の姿をしていたからといって油断せず、戦闘態勢を解くような真似をしなければ、ここまでの手傷を負うことはなかった。改めて己の未熟さと不甲斐なさを思い知らされた形だった。

深海王の襲撃、ハルピュイア討伐に続いて、またしても──
敬愛するサイタマに醜態を晒してしまった。

呆れられていないだろうかと頭を抱えたくなる。こんなみっともない有様で、とてもサイタマのように強くなれるわけがない。彼に師事してから数ヶ月が経過したのに、なにも成長していない。なんとも情けない話だった。

そんな後ろ暗い思いから、協会専属の医師が出したドクター・ストップを“リハビリの一環です”と強引に押し切って、こうして射撃訓練場に入り浸っているのだけれど──鬱々とした気分は一向に晴れない。雲行きは怪しいままだった。

「……外の空気でも吸ってこようかな」

ハンドタオルで汗を拭って、気持ちを入れ替えようと背筋を伸ばしかけたシキミの耳に、間の抜けた電子音が届いた。来訪者を告げるインターホンである。担当の人間の話によれば今日この訓練場を使用する申請を出していたのは自分だけだったはずなのだけれど、と訝りながらドアのロックを外してみると、そこに立っていたのはニーナだった。

「おはようございます。シキミ様」

ブラウスに膝丈のタイトスカートという、いつもの協会指定スーツとは少しばかり雰囲気の違う格好で、ニーナは優しく微笑んでいる。

「お疲れ様です。お仕事、もう復帰されたんですか?」
「ええ。いつまでも寝ていられませんからね──私が負ったのは数ヶ所の打撲と、鼓膜の損傷だけでしたから。まだ聞こえづらい部分はありますが、生活に支障が出るほどではありません」
「そうですか……大事に至らなくてよかったです」
「ありがとうございます。シキミ様もトレーニングに精が出ているようですが、もう大丈夫なのですか?」
「いつまでも寝ていられませんからね」

悪戯っぽく鸚鵡返したシキミに、ニーナは思わず吹き出した。訓練場の中に彼女を招き入れて、隅にぽつんと控えめに設置されたベンチに並んで腰を下ろす。ニーナが差し入れに持ってきた冷たいカフェオレの缶を受け取って、器用に片手でプルトップを開け、喉を潤した。度を超えて甘すぎるくらいの糖分が、疲弊しきった今のシキミにはありがたかった。

「お元気そうで、なによりです。あれだけショッキングな事件でしたから、ともに解決に関わった私にあなたの精神面をアフターケアする指令が上から出たのですけれど──どうやら必要なさそうですね」
「なんだか気を遣わせてしまって……」
「とんでもありません。ゆっくり話をする機会と時間が与えられたのは、むしろ幸いですよ。いろいろとお伝えせねばならないこともありますし」

そう前置きして、ニーナは言葉を選ぶように目を伏せる。

「あの研究所の“その後”について、どこまで知っていますか?」
「……グレーヴィチ博士の遺体は鑑識に回されて間違いなく本人であることが確認されて、研究所に収容されていた動物や怪人たちから違法な実験が行われていた痕跡が発見されて、それから……クローディアに食べられたと思われる死体の山も。それ以外にも研究員や警備員を餌として日常的にクローディアに捕食させていた──間接的に殺害していた証拠も出てきたと聞いています。食糧を安定供給するために、人身売買にも手を染めていたのではないかという疑いもあるとかで……とにかく今まで隠蔽されていたグレーヴィチの研究プロジェクトの闇の部分が徐々に明らかになっていって、警察とヒーロー協会による捜査が進められていると」
「大体の経過はご存じのようで……改めて説明するまでもありませんね」
「まあ、おおよそ想像はつきますからね。どうせあの研究所は調査という名目で協会の管理下に置かれて、ほとぼりが冷めた頃にでも正式に所有権を買収して、自分たちの活動に利用するんでしょう。設備や資材は揃っているわけですからね──警察は喧しく口を挟んでくるでしょうが、黙らせる手段ならいくらでもあるでしょうし」

さらりとブラックな発言を呈したシキミに、ニーナは苦笑で返した。実際そうなるであろうと彼女も考えていただけに、反論のしようもない。

「グレーヴィチは本当に、娘を神にできると思っていたんでしょうか」
「どうでしょうか。私は親になったことがないので、彼の気持ちはわかりません。そろそろ焦らないといけないんですがね……年齢的にも」
「ニーナさん、おいくつなんですか?」
「今年で二十六です。……論点がズレましたね。本筋に戻しましょう」
「……家族を亡くした悲しみには、同情すべきなんでしょうけど……それでも許されることじゃないですよ。自分の勝手な野望のために利用しただけです。自分の酔狂な名誉のために、安らかに眠っていた罪のない女の子をあんな化け物にして……そんなの絶対に愛なんかじゃない」

厳しい口調で断ずるシキミは、それまでにニーナが見たことのない険しい表情で虚空を睨んでいる。弱者の尊厳を踏み躙った狂科学者への義憤に燃えている──というよりは、個人的な怒りと憎しみに突き動かされているような印象だった。

易々と踏み込まない方が──いいのだろう。

「そういえば、教授のお子さんたちの修復作業がついさっき終わったみたいですよ」
「あっ、そうなんですか? ゴーシュくんとドロワットちゃん、ちゃんと直ったんですね。よかった」
「教授いわく“ボディの回路は大方が破損していたが、自律思考を司る最も重要なAIチップが幸運にも無傷だったから修繕は難しくなかった”そうですが……私に機械工学の知識はないので、恥ずかしながら詳細はわかりません。後ほど教授ご本人に伺ってください」
「いやあ、私も専門は化学ですから。聞いても理解できないと思いますよ。無事ならそれでいいんです……ジェノスさんも腕と脚なくなってましたけど、元に戻ったんですか?」
「彼のパーツ換装は、事件当日のうちに完了していたはずです。まあ、メンテナンスだなんだで本部のラボに篭もりっきりのようですけれど。彼が全幅の信頼を寄せている技師……クセーノ博士でしたっけ? その方を呼んで、現在進行形でいろいろと作業しているようです」
「そうだったんですね。あとで覗いてみようかな……邪魔になっちゃうかな」
「声かけるくらいならいいんじゃないですか?」
「そうですねえ……」

カフェオレを啜りながらシキミがぼんやりと相槌を打ったところで、再びインターホンが鳴った。シキミとニーナが同時に扉の方を見て、そして顔を見合わせる。

「……誰でしょう?」
「さあ……私が出てきます」
「あ、すいません、お願いします」
「いいえ」

ニーナが立ち上がり、扉まで歩み寄って、押し開ける。
その向こう側に立っていたのは──