eXtra Youthquake Zone | ナノ





首から上を腐った果実のようにひしゃげさせ、父親によって強引に登らされた狂宴のステージからようやく降板を果たしたクローディアに背を向けて、サイタマは意識を失っているシキミをそっと抱き上げた。大量に出血したせいか、ぞっとするほど軽い。本人は「これくらいじゃ死なない」と息巻いていたが、ぐったりと目を閉じている彼女は顔面蒼白で、およそ生気というものが感じられない。蝋人形のようだった。ひょっとしたら、もう、手遅れなのかも、助からないのかも、知れない──

久方振りにサイタマの心臓へ重く圧し掛かる、熔かされるような、凍りついていくような。
叫びたくなるほどの、耐え難い絶望的な混濁と焦燥。

──無力感。

救急車など呼んだところで、こんな樹海の奥までは来られないだろう。ここへ訪れるときに乗ってきたジープなら山道も走破できるが、それでも往路を思い返せば、時間が掛かりすぎるのは同じだ。それにあんな悪路を長時間すっ飛ばして、満身創痍のシキミに影響がないとは思えない。傷に障ってしまうだろう。考えれば考えるほどに詰みだった。投了しか──リザインしか、選択肢がない。

かといって、はいそうですか、などと諦められるわけがない。
シキミを見捨ててしまえるわけがない。

一生ついてきてくれると言ったのだ。

自分を信じて賭ける覚悟を決めてくれたのだ。
そんな彼女を──こんなところに置いていってたまるものか。
惚れた年下の女ひとり守れないで、なにがヒーローだ。

シキミを担いだまま出口を目指して歩き出そうとしたサイタマに、クローディアの咆哮によるダメージから復活しつつあるニーナがぎょっと目を剥いた。壁に手をついて、よろよろと立ち上がる。

「サ……サイタマ様、どちらへ」
「病院に連れてくんだよ」
「どうやって」
「走る」
「……………………」
「それが一番早いだろ」

滅茶苦茶な話だが、冗談ではないのだろう──実際問題、その通りなのだろう。彼の一騎当千を特等席で観劇していたニーナにはわかる。しかし──それでも、看過することはできない。

「いけません、危険すぎます。シキミ様は重傷です。あなたが全速力で飛んだり跳ねたりして、生身で抱えられている彼女が耐えられると思いますか?」
「……じゃあどうすりゃいいんだよ」

シキミの傷口から止め処なく溢れる鮮血が、赤い斑模様に彩られたサイタマの衣服をさらに濃く染め上げていく。与えられた残り時間が減っていくのを示すように、音もなく、ゆっくりと塗り潰していく。

「迎えを呼びましょう」
「迎え?」
「緊急事態です。協会もノーとは言わないでしょう」

ニーナが上着の内ポケットから取り出したのは、折り畳み式の携帯電話だった。

「それ、繋がるのか? こんな山奥で」
「専用の静止衛星の電波を利用していますから、問題ありません。イリジウム衛星携帯電話という言葉を聞いたことありませんか? その応用です」

寡聞にして聞いたことのない単語だったが、なんとなく“高度な通信技術”であるということはサイタマにも伝わった。ニーナが親指でキーを叩いて、端末を耳へ持っていくのを、食い入るように見つめる。

「──もしもし。私です。ニーナです。ええ、……ええ、そうです。現在まだグレーヴィチ博士の研究所です。そうです。……緊急事態が発生しました。A級ヒーロー“毒殺天使”が、危険因子との交戦により意識不明の重体です。一刻を争います。よって、プライオリティ・サードを申請します。……ありがとうございます。迅速な対応、感謝いたします。ええ、……ええ、そうです……はい。承知しています。アンネマリーに代わってください」

数拍の間を置いて、ニーナが再び喋り始める。

「ああ、アンネマリー。忙しいところ悪いんだけれど──迎えに来てほしいのよ。私も今ちょっと、動けなくってね……本当に情けない。……ええ、場所は……、……説明はいらないみたいね。助かるわ。なるべく急いで……十五分で来てちょうだい……え? ……ああ、そう。頼もしい限りよ。じゃあ──よろしく頼むわ」

簡潔に用件のみを伝達して電話を切って、ニーナがサイタマに向き直った。
その顔には──はっきりと、誇らしげな笑みが浮かんでいる。

「五分で来るそうです」



曇り空の彼方から“それ”が高速で迫ってくる気配に、最初に気づいたのはジェノスだった。

割れた窓の外、研究所を取り囲む城壁よりも遥かに高い位置にあったその影は、騒音を撒き散らしながら超スピードで滑空してこちらへ向かってくる。豆粒くらいのサイズしかなかった“それ”はみるみる大きくなって、何事かと浮き足立つジェノスとベルティーユに──ついでに自らの行く末を案じるあまり真っ白な灰になりかけていたスコーピオにも、その全貌を現していく。

「……あれは」
「グレーヴィチの援軍か?」

鋭い口調で問うベルティーユに、ジェノスは目を眇めて──眼球パーツの光度感知レヴェルを限界まで引き上げて、

「いいえ」

首を横に振って、否定する旨を淡白に伝えた。

「どうやら“迎え”が来たようです」



広々とした駐車スペースに降り立った“それ”を遠巻きに眺めながら、ソニックは至極つまらなさそうに鼻を鳴らした。

彼が立っているのは、とある棟の三階にある一室である。天井まで届きそうな背の高い本棚が所狭しと敷き詰められている、窮屈な部屋だった。恐らく資料室の類だろう。そこにひとつしかない小さな窓から、下界を斜めに見下ろしている。

「やけに喧しかったから、もしやとは思ったが……どうやら終わりのようだな」

ぽつりとソニックが漏らした呟きに、傍らで三角座りしていたハイジが驚いて顔を上げた。

「えっ?」
「あれは貴様の飼い主の所有物だろう」

ソニックが顎で指した先を窺うべく、窓際に寄って身を乗り出したハイジが目にしたのは。

「……協会のヘリコプターだ……!」

屋根にメイン・ローターが前後にふたつ配置された、大型のタンデム式ヘリコプターだった。主に重量物、長尺物の輸送に使用されるタイプの航空機──それが威風堂々たる貫禄で鎮座している。

「あのうるさかったの、エンジン音だったんだ……」
「恐らく、グレーヴィチが敗北を喫した。ああいう手合いは大抵、欲をかいて引き際を間違える。サイタマの奴にしてやられたんだろう──ふん、面白くない結末だ」

組んでいた腕を解いて、ソニックは不愉快そうに舌打ちする。

「操縦席にいるのは……女か? しかも若いな……あんな細腕で手綱を引ける代物じゃないはずなんだがな。はっ、ヒーローだなんだと息巻いた大道芸人が集まれば、ああいう真に秀でた者も一人や二人くらいはいるものか」
「……………………」
「なにを呆けているんだ? 行かないのか」
「……いいの?」
「妙なことを訊くな。雇い主がやられてしまったんだ。報酬の支払いが見込めなくなった以上、仕事を完遂する理由はなくなった──俺が貴様を捕える必要はなくなった。どこへなりと帰ればいい。さっさと行かないと、置いていかれるぞ」

突き放すようなソニックの台詞に、しばらくハイジは逡巡していたが、やがて走って飛び出していった。ばたばたと騒々しい足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ソニックは目を閉じる。

そして──誰もいないはずの空間へ、苛立ちの滲んだ刺々しい声音で。

「……いつまで隠れているつもりだ?」

返事など、あるはずがなかった──のだけれど。

「いつから気づいてた?」
「最初からだ。隠れるならもっと上手くやれ」
「やれやれ、手厳しいなあ。さすが現代に生きる忍者ってところかな」

本棚の陰から、幽霊のように顔を出したのは──研究員のイサハヤだった。

「やあ、久し振りだね、ソニック君」
「俺は貴様など知らんぞ」
「ええっ? 僕のこと覚えてないのかい? ショックだなあ……まあ、場所が場所だったし仕方ないのかな……まあいいや。それは置いといて」

飄々としたジェスチャで、イサハヤは話の向きを変える。

「なんだかイライラしてるみたいだね。博士のガードマンが務まらなかった自分の不甲斐なさに、腹を立てているのかな」
「今回の依頼にヤツの護衛は含まれていなかった。俺が任されたのは“侵入者の排除”だけだ」
「でも、それも結果として失敗に終わったよね」

ソニックが、ぎろり、とイサハヤを睨む。今にも沸騰しそうな殺意が込められた、情け容赦のない怒気に満ちた視線だったが、イサハヤは顔色ひとつ変えない。

「そう怒らないでよ。別に“音速のソニックは仕事できないダメ忍者だ”とか言いふらそうなんてつもりないんだから。今のところはね」
「……なにが言いたいんだ、貴様」
「またそのうち、僕がお世話になるかも知れないからね。ちょっとした挨拶さ」
「ふん、礼儀のなっていない挨拶もあったものだ」
「育ちが悪かったんだ。大目に見てくれ」

道化師っぽく大袈裟に肩を竦めて、イサハヤはくつくつと笑う。

「さてさて、僕も逃げるとしようかな。クローディアの“最後の晩餐”の後始末は、ヒーロー協会の方々に任せるとして……」
「この研究所に籍を置いていたんだろう? 貴様のような一介の科学者風情など、どうせ洗い浚い調べられて、すぐに捕まるのがオチだ」
「そんなヘマはしないさ。というか、僕は正式にここの所員だったわけじゃないから」
「なに?」
「僕はただの“アドバイザー”だよ」
「アドバイザー?」
「そう。博士の野望を、よりよい方向へ導くためのね──要するにちょっと協力的なだけの部外者さ」

イサハヤは着ていた白衣を脱いで、適当に放り捨てる。雰囲気が一変して、カッターシャツに黒のスラックスという、ビジネスマン風の格好になった。

「それじゃ、僕は退散するよ。お勤めご苦労様でした。報酬は必ず追って支払うから、少し待っていてくれ」
「……さっき貴様が“失敗に終わった”と俺を身の程知らずに詰ったのを、忘れたのか?」
「ああ、それはそうだけど。いいものを見せてもらったから──いい出逢いを巡り合わせてくれたから、その謝礼だとでも思っておいてよ」
「出逢い──だと?」
「あのハゲ頭の男の子と毒殺天使ちゃんってさあ」

やけに浮かれた口振りで、イサハヤは糸目を殊更に細くする。
きゅうっ──と、狩りに備える猛禽類のように。

「なんか仲良さそうだったね」
「俺は知らん」
「どういう関係なのかなあ。カップルなのかな? ラブラブなのかな? でも毒殺天使ちゃんって女子高生だよねえ。ひょっとして彼はロリコンなのかな。あんなに──強いのにねえ。びっくりしちゃたよ、僕」
「……貴様、なにを企んでいる?」

あのソニックですら、イサハヤの掴みどころのなさに不気味な不信感を覚え始めていた。肚の内に、なにか得体の知れないモノを飼っている──そう直感させ、確信させるに足る、イサハヤの底抜けに軽佻浮薄な態度。

「人聞きが悪いなあ。企んでいる、だなんて──まあ、言い返せないんだけどね」
「サイタマは俺の獲物だ。手を出したら承知しないぞ」
「へー、サイタマっていうんだ、彼。覚えとこう」
「……………………」
「そう怖い顔しないでってば。君の邪魔をするつもりはないよ。僕の目的は、たぶん君とは別のところにある。標的が被ることはないと思うから、安心してほしいな」
「貴様の目的とは──なんだ?」

研ぎ澄ませた刀を突き立てるように、ソニックは疑問形の切っ先をイサハヤの喉元に食い込ませる。しかしイサハヤは──重圧に臆することなく、殺気に屈することなく、ただただ薄ら笑っていた。

自身の愉悦と娯楽を貪ることにのみ傾倒した、ぞっとするほど酷薄な微笑を張りつけて。

「ひ、み、つ」