eXtra Youthquake Zone | ナノ





クローディアの青い眼が、ニーナを捉える。一切の感情も映していない、合切の生気も宿していない、ロボットのように伽藍堂の瞳。絶対零度の視線に心臓を鷲掴みにされた心地がした。

「…………………」
「どうした、クローディア? 食べていいんだぞ?」

既にグレーヴィチはニーナの存在を愛娘の“食糧”としてしか見做していないらしかった。人権も尊厳も清々しいほど無視しきった彼の発言に、もう腹も立たなかった。

代わりに──彼女の内に膨れ上がっていくのは。
未知の生物と対峙して、退治しなければならない悪寒。
がくがくと笑い出しそうになる両膝を、どうにかこうにか奮い立たせる。どのタイミングで飛びかかってくるのか、まったく読めない。きりきりと空気が引き絞られていく。酸素が一気に薄くなったような錯覚さえニーナは覚えていた。

しかし──クローディアは。
小さく首を横に振った。

「お父様、ごめんなさい。クローディアは怖い」
「なぜだ? 若い女を食べたことがないから怯えているのか? 不安がることはない。あれはお前のための馳走だぞ」
「クローディアは怖い。クローディアは怖い。クローディアは怖い。クローディアは怖い。お父様、ごめんなさい。クローディアは怖い」

わかりやすく、グレーヴィチは動揺した。知性に欠け、知力に乏しく、自らの出した命令にのみ従うはずのクローディアが──唯一無二の、絶対的存在である“父親”を拒絶した。

変だ。
おかしい。
そんなことがあっていいわけがない。

クローディアはつい先程まで、裏手の駐車場で、粗挽き状態にされていた。まるで“無理矢理に引き千切られて叩き潰されたような”有様だった。それが彼女の本能的な恐怖を呼び起こしてしまったのか──否、そうではないだろう。その程度の暴力行為ならば、彼女は肉体の耐久性テスト実験で数えきれないほど受けてきた。今更こんなエラーを発生させる要因にはなり得ない。

それでは、一体──これはどういうことなのか?

「クローディアは怖、い、クローディアはこ、わイ、クローディアは──」

ごぽり、と。

クローディアの小さな口から、赤い泡が噴き出た。胃液と血と消化されかけた骨肉の混じった吐瀉物が滝のように溢れ出て、少女の肌理細やかな素肌とコンクリートの床を汚していく。

「クローディア!? どうした!」

這い蹲って嘔吐しつづけるクローディアに駆け寄って、グレーヴィチが怒鳴る。娘が生まれて初めて見せた“異常”に、混乱しているようだった──世界に名を轟かす彼の天才的頭脳を以てしても、彼女が苦しんでいる理由に見当さえつけられなかった。ただ肩を撫で、背中を摩ることしかできない──そこにいるグレーヴィチはもはや生物学の権威でも、道を誤った狂科学者でもなく、質の悪い病に喘ぐ娘を甲斐甲斐しく介抱する、無力な父親でしかなかった。

「なにが──どうなっている!? 貴様たち、クローディアになにをした!」

その隙を見逃す手はない。ニーナはグレーヴィチの怒声を黙殺して、ウェルテルステンの網を拡大させる──背後の壁ごと扉を破壊して、退路を拓いた。最初の思惑通り、このまま逃走して離れた場所で体勢を立て直し、戦略を充分に練ってから再戦を吹っ掛ける──つい数秒前までは、そのつもりだった。

端的に言ってしまえば。
決着を急いでしまった。
油断──してしまった。

クローディアは誰の目にも明らかに衰弱している。グレーヴィチが自慢げに高説を垂れていた超再生──他の追随を許さないという治癒能力も影を潜めている。これ以上ない好機だ。仕留めるなら今、この瞬間しかない。

思いっきり地を蹴って後ろへ飛び退って間合いを開きながら、ニーナは空を斬って撓る超鋼線を蹲って悶絶する少女の繊弱な肢体へ叩き込もうとして、

「────あああああアああアアアアああああああああああアアアアアアアアッ、、、」

大音声の絶叫に怯んだ。

クローディアの悲鳴が廊下に響き渡って、窓硝子が空気の振動によって割れた。びりびりとニーナの全身が痺れる。外耳道が衝撃に耐え切れず破れて、血が噴き出したのが体感でわかった。聴覚が著しく低下して、三半規管が甚だしく乱れて、立っていることすら困難になって──

その場に崩れ落ち、跪いたニーナが見たのは。
悍ましい変貌を遂げていくクローディアだった。

こちらに向いている顔には、目がなかった。ぽっかりと空いた眼窩からは本来そこにあるべき眼球の代わりに鮮紅色の舌が垣間見え、縁には歯列が規則正しく並んでいる。大きく開かれた、不気味なその口からも悲痛な叫喚が迸っているようだった。

華奢な体躯はみるみる膨れ上がり、肉達磨と化していく。肌色の歪な塊になって、再び全身に口を開いて、長い手足を無数に生やしながら蠢いている──もがき苦しんでいる。

その突然変異に、グレーヴィチは腰を抜かしていた。ニーナと同じように耳から血の筋を流し、目の前で人外へと変わり果てていく娘に愕然としながら、それでいて──彼女が内包している圧倒的な力を外へ解放しつつあることに喜悦さえ感じているようだった。

「クローディア──おお、我が娘よ……!」

彼は震える声で嗤って。
そして──

「素晴らしい! そうだ! それでいい! お前はこの薄汚い世界において最も美しく、高潔で、清廉な、頂点に君臨すべき新人類だ! 私の“教育”に間違いはなかった! そうだ! クローディア! 崇高な思想を理解できない愚図どもを! 生きる価値すらない馬鹿どもを! ──“殺してしまえ”!」

歓喜のもとに下された“命令”に。
クローディアは従った。

発条仕掛けのように素早く、高々と持ち上げられた、巨木のような腕が、



──グレーヴィチの上半身を一振りで削いだ。



「あ」

ニーナが思わず間の抜けた声を上げてしまったのも、致し方ないだろう──それくらいに呆気なかった。恐らく自分の身になにが起こったのかもわからないまま、グレーヴィチは最愛の娘の一撃によって絶命した。

丸々と太っていた腹から上は粉微塵になって消失して、残った下半身が倒れる。玩具箱を引っ繰り返したみたいに、黄色く濁った脂肪と艶めく臓器と膨大な血液とが断面から零れ出て、豪快にブチ撒けられた。

いっそコメディ映画めいた、滑稽な終焉だったけれど。
それを笑う気には、到底なれなかった。

なにせ──たった今、己の凶手によって司令塔を亡き者にしたクローディアが、最後にその身に受けた“命令”は──

体中の口から背筋の凍る叫び声を上げながら想像を絶する勢いで吶喊してくるクローディアから、逃げる術をニーナは既に奪われている。平衡感覚が麻痺してしまって足腰が立たない。こんな状態では、ウェルテルステンを駆使することもできない──無闇に指を動かせば、自分自身を解体してしまいかねない。

(あ、これ、ちょっと、もうだめだわ)

これは死んだわ。
どこか他人事のように、ニーナは達観を極めていた。

こんなことになるんだったら、録画して溜めていた月9ドラマ消化しておくんだった。
気になっていた映画も、億劫がらずに観に行けばよかった。
欲しかった洋服とバッグも買っておけばよかった。
自分にピンクは似合わないなんて決めつけるんじゃなかった。
今日あのサイボーグの彼が恥ずかしげもなく持っていた派手な少女趣味の傘とか、ああいうの、好きだったんだ、本当は。
ずっと誰にも言えなかったけれど。
どこで買ったんだろう、あれ。
彼女とは意外とそういう趣味が合ったかも知れない。
もうちょっと付き合いが続けられたら、仲良くなれたのかも。
仲良く、といえば、そうだ、アンネマリーと、話題になっている自然食レストランへ食事に行く約束もしていたんだった。
偉そうに奢るだなんだと言っておいて、果たせそうにない。
こんな情けない先輩で、本当に申し訳ないなあ。

こういうのを──走馬灯というんだろうか。
ええ、大変、勉強になりましたとも。
ありがとうございました。

目を閉じるのも忘れ、ニーナは迫りくるクローディアの巨体をどこかぼんやりとした眼差しで受け止めて、

──ふわり、と。

いきなり体が浮き上がるのを自覚した。視界がめまぐるしく転回する。ぐるぐると旋回する。地に足がついていないのに、不思議な安定感があった。安心感があった。

クローディアが廊下の壁に激突した轟音は、ニーナには届いていなかったけれど。

それでも彼女は──自分が助かったことをすぐに知る。

ここに来てからずっと“覇気がない”とか“やる気が感じられない”とか、あまり期待していなかったB級ヒーローに抱えられながら。
一度見たら忘れられない特徴的な頭をした、お世辞にも格好いいとは評しがたい救世主の、逞しい腕に支えられながら。

「あっっっぶねー、間一髪だった……」
「あ──なた……は……」
「オイねーちゃん、耳から血ィ出てんじゃねーか。さっきの悲鳴みたいなアレのせいか? 聞こえてる? 大丈夫か?」
「……あなた、どうして、ここに……」
「どうしてって……すげー叫び声が聞こえたから、なんかあったんだろうと思って飛んできたんだよ」

誰かの危機に。
なにひとつ省みることなく。
なにひとつ案ずることなく。
颯爽と──現れる。

ああ。
そうだった。
そういう人種なのだった。

階級なんて関係ない。
それこそが。

──ヒーローという存在なのだった。

「ちょっと待ってろ。まだシキミも探さなきゃなんねーし、とりあえずすぐ片付けるから」
「え……」
「危ねーから、そこでじっとしてろよ」

そっとニーナを下ろして、そのヒーローは──サイタマは立つ。行動の指針を自らの手で壊し、殺戮という目的のためだけに生を謳歌する肉人形と化したクローディアと、真っ向から睨み合う。

「──正義執行だ」