eXtra Youthquake Zone | ナノ
いったん外に出て、目についた別の棟に足を踏み入れたニーナと、悲運にもばっちりエンカウントしてしまったのは“ローファー”だった。彼もれっきとしたこの研究所の警備員なのだが、下っ端もいいところである──戦闘能力など、ほとんどない。支給されている警棒など、ヒーロー協会の諜報員として第一線で活躍するニーナの前には稚児の玩具に等しかった。あっという間に得体の知れない超鋼線で雁字搦めにされて、体の自由を奪われてしまっていた。
「ひ……ひぃい……!」
「クローディアとグレーヴィチを探しています。知っていることがあれば、すべて吐きなさい」
全身を極細のストリングスで緩く締め上げられながら、ローファーは今にも失禁しそうなほど怯えていた。もともと気が弱く、同期のサーズデイやブルーバードにはいつも小馬鹿にされていた彼である。生殺与奪を握られた状況で竦み上がるのも無理はない。
「こ──ここに呼び出された! それだけだよ! 俺は! 待機指示が出てたんだけど、所長に──緊急だって無線が入って、俺ちょっと遠くにいたから少し遅れちゃって」
「ということは、グレーヴィチもここにいるということですか?」
「知らない! 知らないよ! 俺は、俺、別になんにもしてないんだよォ!」
「……呼び出されたのは、どこですか? 案内しなさい」
ローファーに抵抗する様子が皆無であることを察して、ニーナは不可視の緊迫を解いた。身動きできるようになったところで、恐慌に陥ったローファーはまっすぐ前に歩くことすら困難を極めていたが、進まなければなにをされるかわからない。必死に自分の中のわずかな男気を奮い立たせて、不気味なくらい静まりかえった廊下を歩いていた。
特に変わった雰囲気はない。他の棟と同じように、病院めいた神経質さを感じさせる飾り気のない空間が広がっているだけで──むしろそれが異様といえば異様で、ニーナの警戒心を煽るのだが、危険因子が潜んでいる気配はない。
「ここは主にどういった目的に使用される施設なのです?」
「……俺の管轄外だから、わからない」
「………………」
「ほ、本当だ! 俺は本当に知らないんだ!」
「……そうですか」
だんまりを決め込まれるのも面倒だが、こうしてあからさまに動転されると、それはそれで扱いづらい。どうせクローディアのことも知らされていないのだろう。ニーナは苛立ちの混じった溜め息をついた。それだけのことにもローファーはびくりと肩を跳ねさせて、いちいち足を止める。
「いいから歩きなさい。あなたから情報を獲得することを、私は期待していません」
「ああ、す、すみません……あ、あの、あの部屋です……」
おそるおそるローファーが指差したのは、いかにもといった趣きの、鉄製のドアだった。清潔感のある白い壁に、唐突に埋め込まれた分厚い金属の二枚扉──とにかく不似合いだった。
「先に入りなさい」
「えっ──」
「中が見えるように大きくドアを開けて、そのまま閉めないでください」
黒革のグローブを装着した両手を複雑に動かしながら、ニーナはローファーにそう告げる。どう控えめに見ても強襲の準備を整えている仕種だったが、拒絶できるわけがなかった。ローファーは最低限の礼儀であるノックも忘れて、ええい儘よ──と、ひと思いに重い扉を押し開けた。
途端に鼻腔を強く刺激したのは、血と肉の腥い臭気。
噎せ返るほど、生温かい“死”の匂い──
「……………………」
悲鳴も上げずローファーがその場に卒倒したのは、あとに続いて室内に突入したニーナにとって幸いだった。視界を遮るものがなくなり、雑音に行動を阻害されることもなく、瞬時にストリングスを奔らせることができた──防御壁を構築できた。
そこへ一直線に飛んできた大きな塊が、網に引っ掛かって、いくつかのブロックに分断された。
かつて健やかな人体であったものが細切れにされて、四肢と胴がスライスされて斬り離されて肉片になって、コンクリート打ちっ放しの床に粘ついた音を立てながら落ちた。
ごろり、と足元に転がる若い男の頭。
見開かれたままの両目には恐怖の残滓がこびりついていた。
その悍ましい死体に視線をよこしたのは、一瞬にも満たない間だけだった。同情による反応ではない。幾度も死線を潜ってきたプロフェッショナルであるニーナが、そんな愚を犯す道理もない。そいつが着用しているのが、門番やローファーと揃いの──警備員の制服であるということを確認するための、ただの作業だった。
そして、それは。
室内に転がる無数の死体も同じだった。
五体満足の姿でいる者はただの一人としていない。下半身しか残っていなかったり、腹部が半月の形に抉れていたり、腕と脚を喪失して達磨状態になっていたり──残虐の極みを尽くしたかのような惨状が、これでもかとばかりに展開されている。
ニーナですら微かな吐き気を催すほど、濃密な悪意と鮮烈な邪気の充満する殺戮現場。
ひとりでに背後の扉が閉まり、退路を断たれる。それと悟られぬよう、足音を殺して一歩だけ後退し、背中で軽く扉を動かしてみる。その感触だけで堅固なロックが掛けられていることを把握して、ニーナは額にじわりと汗を滲ませた。
(……中に踏み込んだのは早計だった)
弁解の余地もないくらいの失敗だった。
完膚なきまでに失態だった。
これが訓練だったら、あの“鬼教官”に朝まで絞られたことだろう。
しかし──これは訓練などではない。
どこまでもシビアな実戦で。
そして、尊敬して憧憬していた“鬼教官”はこの世にいない。
頼れる仲間もいない。
この危機に、誰も手を差し伸べてくれない。
四方を無骨なコンクリートに囲まれた、窓すらない密室の隅で、勝ち誇った笑みを浮かべているグレーヴィチと──その傍らに脚を崩して座る可憐な少女──恐らく“あれ”がクローディアなのだろう。彼らを自分の独力でなんとかしなければならない。
(壁を破壊して脱出するのは簡単だけど──グレーヴィチもクローディアも隙だらけだ。ウェルテルステンを無力化できる武器を持っている様子もない。ここで始末できる……はず)
クローディアはこちらに背を向けている。色素の薄い金髪を地面に流しながら、前のめりになっているように見えた。警備員たちの死体の海の中、彼女が一体なにをしているのか、ニーナの位置からは視認できない。
「ヒーロー協会の遣いかね?」
グレーヴィチが、余裕綽々といった口振りで問う。
「……ええ。あなたにお話を伺いたくて参りました」
「そうか。遠路遥々、ご苦労なことだ。私になにを訊きたい」
「あなたは──ここで、なにをしている?」
漠然とした質疑だったが、知りたいことを知るにはもっとも的確だった。グレーヴィチは弛んだ顎まわりの肉を揺らしながら笑っている。
「我が娘を“完成”させるための研究だ。ここまで長かった。悲願がもうすぐ成就する」
「……あなたの御令嬢は、何年も前、お亡くなりに」
「ああ、そうだ。一度は死んだとも。だが甦った。私が蘇生した。世界の頂点に君臨するに相応しい、完全なる肉体を持って生まれ変わったのだ」
「完全なる肉体……?」
「そうだ。この私が発見した、怪人から摘出した細胞核を移植する技術によって、クローディアは既存の生物の常識を遥かに超える“聖人”になった。斬られようが撃たれようが裂かれようが潰されようが、生存本能に起因する驚異的な細胞分裂によってたちまち再生する。アポトーシスさえ凌駕して、永遠に老いることもない。先刻どこぞの何者かが、クローディアに惨たらしい乱暴を働いたようだが──何人たりとも、彼女を止めることはできない!」
興奮して唾を飛ばしながら叫ぶグレーヴィチから目を逸らさず、ニーナは次の一手を模索していた。たちまち再生する──とあっては、ウェルテルステンでいくら斬撃を加えても功を奏する算段は立たない。物理的な攻撃が効かないならば、自分に勝ち目はない。ニーナはすんなりとクローディアの討伐を諦めた。双方の実力を天秤に掛けて戦況を判断し、引き際を正しく弁えるのも、プロフェッショナルには重要な能力である。
潔く撤退しよう。
ニーナは左手を指揮者のように、ついっ、と振って、張り巡らせていた幾何学模様の盾を解いた。無論いくらかの防衛線は張っているが、こんなB級スプラッタ映画めいた場面を易々と再現してしまえる怪物相手には些か心もとない。早急に壁ごと扉を細断して、離脱すべきだ。
「逃げるか。それもいいだろう」
そんなニーナの心裡を読み取ったのか、グレーヴィチはますます下卑た笑みを深くする。
「逃げられるものならば、逃げてみるがいい」
挑発的──というふうではなく。
挑戦的──というわけでもなく。
むしろ憐れみさえ混じった弱者への宣告だった。
「クローディア」
グレーヴィチに名を呼ばれ、少女がくるりと振り向く。
──今度こそ。
ニーナは戦慄を隠せなかった。
クローディアの口元にべったりと付着した、粘土の高い赤黒色の液体。その上に点々と散らばる肉と臓腑の残骸と、砕かれた白骨の欠片──それは、さながら、食べ滓をくっつけているような。
「……クローディアの改造に使用した怪人は、ヒトを捕食して栄養源とするタイプの種だった。その本能が受け継がれてしまったようでな──いつもこうして、用済みになった警備員や侵入してきたスパイ連中を“与えて”きたのだが……どいつもこいつも、筋肉やら骨密度やら無駄に発達した男ばかりでね。固そうだし筋張っているし、とても美味そうには見えないだろう? 栄養だけは充分なのかも知れないがね。それに、どうにも今日はクローディアの食欲が旺盛だ。見ていて気持ちがいいくらいにな。だから、君のように若く美しく、柔らかそうなお嬢さんなら──もっと彼女を満足させることができるだろう」
鼓動が早まる。第六感が警鐘を鳴らす。瞳孔が開く。唇が震える。呼吸が浅い。
これまでにも人肉の味を覚えてしまったケダモノの相手をしたことは数度あったけれど──今回ばかりは埒外だ。異常性の桁が違う。正常な判断能力が鑢で撫ぜられるように削り取られていく。
「飛んで火に入った、貴重な高級食材だ」
グレーヴィチの言葉に──かあっ、と血が上る。
誰が。
こんなところで。
食われて──やるものか。
化け物の血肉になど、なってたまるものか!
「クローディア」
新たな火蓋を切って落とそうとでもいうかのように。
「──“喰らい尽くせ”」
命令を、下した。