eXtra Youthquake Zone | ナノ





窓を割って勢いよく飛び込んできた影に、ジェノスは反射で構えを取った。敵襲か──と神経を研ぎ澄ませ、左右非対称のボディで臨戦体勢を整える。しかし彼の右腕が火を噴くことはなかった。そいつの正体を悟ると、むしろ警戒を緩めて、ほんの少し安堵さえ顔に出した。

「──先生!」

転がり込んできたサイタマは脳天から爪先まで鮮血に染まっていて、目を覆いたくなるような有様だったが、本人が怪我をしているわけではないようだった。すべて相手の返り血──至近距離の白兵戦で敵を打破した副産物だった。

「無事だったか、サイタマ氏」
「教授もな。……ジェノスは見事に壊れてやがるな」
「……申し訳ありません。油断しました」
「そういうときもあるって。気にすんなよ。次に活かせ」

歯噛みするジェノスを気遣うようなことを言いながら、サイタマの意識は渡り廊下に飛び散った赤色に集中していた。いつもの淡白さなど欠片もない張り詰めた眼差しで、なにかを探すように、一面の惨状を観察している。

「……なんでこうなってんのか、お前ら知ってる? 見てたか?」
「いえ。俺たちがここに到着したときには既に、ここは血の海でした。グレーヴィチが雇ったという“用心棒”が、クローディア……グレーヴィチの飼っていた怪物に食われた痕跡なのではないかと」
「“食われた”──」

ジェノスが発したその単語に、サイタマの表情が歪む。

「その用心棒ってのは」
「裏の業界では名の通った忍者崩れだよ。先日ほかでもない君自身に独房へ叩き込まれたが、狡猾な手口で脱獄を果たした男だ」
「やっぱりな……」
「やっぱり? どういう意味だい、それは」
「さっきそこで会った」

ベルティーユとジェノスが、揃って目を丸くした。

「会った──だと? 生きているのか」
「元気そうではなかったけど、普通に飛び跳ねてたぞ。あの……なんだっけ。教授の助手のイケメンもいたぜ」
「ハイジか? 用心棒に捕まってしまったのか」
「そんな感じには見えなかったけど。口がいっぱいついてる気味の悪い怪獣から一緒に逃げてるみたいだった」
「……クローディアだな」
「間違いないでしょう。……では、この血痕は……まさか」
「……多分シキミのだ」

ベルティーユが額を抑えて項垂れ、低く呻いた。

「なんということだ……」
「その忍者が言ってたんだよ。怪獣からそいつと助手を逃がすためにシキミが盾になった、みたいなこと」

噛まれただけで、食われてはいないが。
もう既に餌になったかも知れんな。
そうでなくとも、今頃どこかでくたばっているんじゃないか。

と──まるで嘲笑うかのように。

「……探すか」
「シキミの居場所に見当はついているのか?」
「いや、全然これっぽっちも。だけど──こんなところで立ち往生してたって仕方ないだろ」
「その通りだな──さっきニーナもクローディアの捜索に出た。見つけたら状況を説明してやってくれ」
「あー、あの協会のねーちゃんか」
「彼女もそこそこの手練だ。君の援護くらいならできるだろう。もしもクローディアと交戦することになったら、彼女の“ウェルテルステン”の拘束力を利用して──」
「あの怪物なら、さっき倒しちまったけど」
「Ah bon?」

驚きのあまり母国語が飛び出てしまったベルティーユに、サイタマは寸分たじろいだ。

「え、いや、そいつがシキミのこと食ったって聞いたから……まだ腹の中にいるんじゃねーかと思って……とりあえずバラバラにしてみたけど、なんにもなかった」
「……いつも君は私の想像を超えてくるな」

ベルティーユは苦笑して、顔の右半分を不格好に引き攣らせる。

「まあ、それならばいい。脅威が去ったのは歓迎すべきことだ。残すはシキミの安否確認と──グレーヴィチの確保だな」
「ヤツはどこへ行ったのでしょう?」
「娘を探しているんだろう。親というのは、そういう生き物だ」
「……よくわかんねーけど、俺もう行っていい?」
「ああ。よろしく頼んだよ、ヒーロー」
「合点承知」

短く答えて、サイタマは渡り廊下の奥へ走り去っていった。真っ赤に染まった彼の背中が見えなくなって、再び重い沈黙が漂いはじめる。スコーピオは次から次へと激変する状況にすっかり萎縮しきってしまっていて、もはや空気と化していた。壁にもたれて、膝を抱えて丸くなっている。

「……親というのは──か」

ぼそり、とベルティーユが自嘲っぽく唇を歪めた。

「どうにも大それたことを言ってしまったな」
「どうかしましたか? 教授」
「私は……本当に“母親”を名乗っていいのだろうか」

物言わぬ人形となった双子に寄り添いながら、ジェノスの怪訝そうな視線を受けて、ベルティーユは続ける。

「私はゴーシュとドロワットを拾って、好き勝手に改造して、側に置いているだけだ。ただの醜いエゴイズムで──それが彼らの意思に沿っていたのかどうか、誰にもわからない。本当はこんな残酷な世界になどさっさと見切りをつけて、くだらない人生に幕を引いて、安らかに眠りたかったのかも知れない。それを私は無理矢理に捻じ曲げて……結果として、こんな目に遭わせてしまった」
「……教授」
「私のしたことは、グレーヴィチと変わらない」

己の欲望がために純粋な祈りを曲解して。
己の野望がために無垢な願いを利用した。

「私に母親を自負する資格など、最初からなかったのかも知れない。ゴーシュとドロワットを看取ったあの日から、私は二人にとって──悪魔だったのではないかと思ってしまうよ」
「……あなたがそう思うのなら、それを俺は否定しませんが」

横たわるゴーシュをちらりと流し見て、ジェノスは双眸を細める。

「あなたの息子は、以前、俺に言いました。自分は幸せだと。教授がいて、ドロワットもいて、幸せだと──本当に大事にしてくれる人と、想ってくれる人と、一緒にいられたら、それだけで幸せになれると」
「…………………………」
「それに、あなた自身も俺に言ったでしょう。愛や憎しみが正義の様相をがらりと変える。正義なんていうのは曖昧模糊で多岐亡羊で、ひどく無責任なものだ。答えなど最初から最後まで存在しない、自分が正義だと思えば、それのみが正義たりうる。それ以上でも以下でもないと」
「…………………………」
「その言葉に嘘がなかったなら、今あなたは迷ってはいけない。悩んではいけない。堂々と胸を張って、責任を持って、母親であるべきだ。それこそが正義で、愛というものに他ならない──んでしょう?」
「……そうだな」
「認めたくはないが、グレーヴィチの行動理念も“愛”なんでしょう。才能を発揮できなかった哀れな我が娘を、今度こそ表舞台で輝かせたいと──それがあの男の“正義”だ」
「要するに、教育方針の違いだな」
「そういうことです。まあ──ヤツがこの研究所でしでかしたことは、法に触れています。許されることではない。動機がどうであれ、ヤツは悪として裁かれなければならない」

ジェノスの言葉に、ベルティーユは俯いていた面を上げた。飄々と片眉を上げて、割れた窓の外に広がる、風に揺れる青々と繁った木々の群れを眺める。

「ふむ……グレーヴィチの倫理から逸脱したスパルタ教育の行く末を、この目で見届けられそうにないのは残念だが──あとのことは、優秀なヒーローたちに任せておくとしよう」



そして渦中のグレーヴィチは、愛する娘の前に立っていた。

サイタマの手によって叩き潰され、湿ったアスファルトの上で変わり果てた姿になったクローディアを見つめる彼の眼差しは──絶望に沈んでいるわけでも、落胆に拉がれているわけでもなく、むしろ見る者の背筋を冷たくさせる狂気的な愉悦を湛えていた。

「……起きろ、クローディア」

厚い脂肪に包まれた喉から発せられた“命令”に。
肉塊が──ぞわり、と不穏に蠢いた。

ゆっくり盛り上がって、徐々に形を取り戻していって──現れたのは、傷ひとつない裸体の少女。

「おはようございます、お父様」

地面に届くほど長い金髪を垂らしながら、クローディアは小鳥の囀るような美しい声で謳う。

「いいお天気ですね。紅茶を淹れましょうか。コーヒーがいいですか。お砂糖を──」
「野蛮な連中の相手をして疲れたろう、クローディア」

相変わらず同じフレーズを繰り返すばかりのクローディアを、グレーヴィチが遮った。不思議そうに首を傾げる彼女に、グレーヴィチは蓄えた口髭を撫でながら、優しく微笑んでみせる。

「──“食事”にしよう」