eXtra Youthquake Zone | ナノ





スコーピオを脅して案内させて、ニーナは地下の隠し部屋──グレーヴィチ秘蔵の実験室へ辿り着いていた。なぜか一面が水浸しになっている、広大なホールといった趣きのそこには、疲労困憊といったふうなベルティーユと、いくつかパーツを失っているジェノスの姿があった。

「ベルティーユ教授! ご無事で……ジェノス様は──その怪我……と言っていいのかわかりませんけれど、一体どうされたのですか? なにがあったのですか?」
「……イチから説明するのは少しばかり骨が折れる」

くたびれた様子のベルティーユに、ニーナは押し黙るしかない。そこで初めて天井の大穴に気がついた。恐らくジェノスが突入のために武力行使で開けたのだろう。

しかし──それよりも。
この閉鎖された空間において鮮烈なのは──

「あれは……なんですか? あの──ガラスの壁……?」

室内面積のおおよそ半分を占領している、透き通ったアクリル・ガラス製の“水槽”──その残骸。

「グレーヴィチの研究の、その心髄がそこにあった」
「“あった”……? なぜ過去形なのです?」
「解き放たれたからだ。グレーヴィチ本人の手によって──早く“あれ”を止めなければ、大参事になる」

歯痒そうに、ジェノスはニーナにそう告げる。無理もないだろう──腕と脚をそれぞれ片方ずつ壊されて、左右非対称の体にされてしまっている。追跡しようにも、追撃しようにも、物理的に不可能なのだから。

「……当の博士本人は、ここにいないようですが」

ニーナが横目にスコーピオを睨めつける。彼はびくりと肩を竦ませ、あからさまに狼狽えはじめた。彼が騙したのだと勘違いしたニーナに、あの恐ろしい超鋼線で今度こそ細切れにされてしまうと思ったのだろう。

「し、知らない! 俺はなにも──博士はここで、ベルティーユ教授と“アカシック・レコード・イミテーション”と念願の面会をすると──それしか聞いていない!」
「アカシック……? なんですって?」

怪訝そうに眉を寄せるニーナ。なおも追及しようとした彼女を、ベルティーユが制した。

「とにかく──ここを出るのが先決だ。充分に待った。ゴーシュとドロワットは、もうここには戻らないだろう。あの“用心棒”に見つかって倒されたのか、博士の異形の娘……クローディアとやらと不運にもぶつかってしまったのか、定かではないが……我儘を言っていいのなら、二人を探して回収したい」

その静かな物言いに、全員が二の句を継げなかった。我が子が帰らないと悟った“母親”の心情は──察するに余りある。

「……酷なことを言うようですが、それよりも先にグレーヴィチ博士の居場所を突き止めるべきです。それに、ジェノス様をそんな状態にできるほど強力で攻撃的な危険因子を博士は解放したのでしょう? そちらをまず片付ける必要が──」
「それは勿論わかっている。ゴーシュとドロワットのことは、まあ二の次だ。承知しているよ。ああ──どうにか“彼”が、すべて丸く収めてくれはしないだろうか……」
「彼……?」
「サイタマ氏も来ているんだろう?」

その名前に思い当たるまでに、ニーナは十秒ほどの時間を要した。あの覇気のないB級ヒーローのことだ。

「……あの、ええと……特徴的な頭をした男性ですね?」
「そうだ。彼なら、あんな理性のない怪物など、片手で屠れるだろう」
「……B級──ですよね?」
「君たちの目に見えるものがすべてじゃない──ちまちまと普通人が評価しているランキングなどに、彼は収まれないよ」

ベルティーユはやけに自信ありげだった。なぜだかジェノスも誇らしげであるし、ここは深く突っ込まないでおくのが得策だろう。

「奥に地上へ繋がるエレベーターがあります。行きましょう」
「ああ。──ジェノス氏、歩けるか?」
「なんとかな……」

よいしょと片脚で立ち上がり、ジェノスは精一杯バランスを取りながらひょこひょこと前進する。そんなことを言っている場合ではないのだが、なんとなく滑稽だ。

「ふうむ……抱えて運べればいいんだがな」

ベルティーユが冗談めかしてそんなことを嘯いた。ニーナはしばしジェノスを真剣な眼差しで見つめて、至って真面目そうに口を開いた。

「もう少々細かくできれば、それも可能かと思うのですが」
「えっ?」
「どこまでなら小さくしても大丈夫ですか?」

黒い革手袋を装着した両手を開いて、ニーナは訊ねる。
鉄さえ刻めるストリングスを、本気で構えて。

「……………………」
「……………………」
「……ニーナ氏」
「? なんでしょうか、教授」
「天然も度を超えると萌え要素じゃなくなるぞ」

ベルティーユの遠回しな窘めにも、ニーナはただ首を傾げるばかりだった。自分がおかしな発言をしたとは露ほども自覚していないらしい。ジェノスは改めて思う。

──どいつもこいつも、年上の女は、怖い。



悪夢のような狂犬の軍隊を掠り傷ひとつ追うことなく一掃して、サイタマは階下へと降り立っていた。最初こそ律儀に階段を探していたが、予想以上に手間取ってしまった──なにしろ建物が箆棒に広い。そんなわけで結局、拳にものを言わせて床をブチ抜いたのだった。あんな加減を知らない怪物を差し向けてくるくらいなのだから、多少なり壊れたところで誰も困らないだろう。

「どこ行ったんだ、あいつら」

手元に見取図などあるわけもないし、周りには人っ子ひとり見当たらない。研究員たちは軒並み避難しているのだろう。とにかく足を使うしかないようだ。この逼迫した状況の中で、気の遠くなりそうな話ではあったけれど──悠長に考えている猶予はない。

とりあえず勘を頼りに廊下を走り回ってみているが、まったく進展は得られない。どうすっかな──と眉根を寄せかけたサイタマの視界の隅に、なにやら異質な影が過ぎった。

それは窓の外だった。

いつの間にか雨は上がっていたが、空は相変わらず鈍色の雲に覆われている。そのうちまた降り出すのかも知れない。

そんな不安定な天候の下、アスファルトによって舗装された路面に、区切るように白い線が引いてある──どうやら駐車場のようだ。そこを肌色の、なにやらぶよぶよとした塊が闊歩している。不気味な肉感のあるそいつの側面から生えている腕は人間のものと同じ形をしているが、大きさが異常だった。関節の位置も妙である。それぞれ一本一本が成人男性の背丈くらいありそうで、その数は──十五を超えたところで、サイタマは数えるのをやめてしまった。

そして──びっしりと表面を覆い尽くしているのは。

「なんだあれ……口か? 気持ち悪っ」

健康的な赤さに艶めき、蠢いている大量の唇。なにかを喋っているようにも、歌っているようにも見える。ただそれだけで、暴れるでもなく、ただのそりのそりと亀が這うような速度で移動している──敵意も悪意も殺意も見受けられない。

「……あれも一応やっつけといた方がいいのかな」

己の愛弟子が二人ともども“あれ”に食われかけたことなど露知らず、サイタマは呑気に独りごちる。まさか“あれ”が己の進化のために、世界を征服しうる全知全能のプロト・タイプであるハイジを捕獲するために追跡行動を取っている最中だなどとは、サイタマは思いもよらなかった。

それでも見過ごすのに抵抗があったのは、この研究所の異端さを身を以て知らされた直感だった。手近な窓を開けて、ひょいっ、と飛び降りる。すぐ側までサイタマが接近しても、そいつは反応しなかった。目も鼻もないので、本当に無関心なのかどうかは判断しかねるけれど──とにかく停まることも、進む方向を変えることもなかった。なにごとか同じ台詞を繰り返しているようだが、よく聞き取れない。

(あの犬っころとは、なんか雰囲気が違うな)

三メートルほどの間合いを維持して、サイタマはそいつの後ろについていく。深い意味はこれといってなかった。なんとなく気になったから──それだけだった。のんびり散歩と洒落込んでいる場合でもないのだけれど、いかんせん相手がノーリアクションなので、手を出しづらい。

──と。
そこへ飛来してきたのは。

“飛苦無”と呼ばれる、刀身が両刃の爪状になった短剣のような武器だった。どこからともなく一直線に滑空してきて、肌色の塊に突き刺さった。それも一発ではない──掌サイズの凶器が滝のごとく降り注いで、すべらかな外皮に包まれていた化け物を不格好な針鼠に変えていく。

徹底的に──過剰な攻撃だった。
どう控えめに見てもオーバーキルだった。
サイタマが心の底から引いてしまうほど。

「……うわあ……」

串刺しにされて動きを止めたそいつに同情の念すら覚えつつ、サイタマは視線をずらす。車の出入りを管理するために建てられた、警備員の駐屯所と思しき小屋──その平らな屋根の上に立つ、見覚えのある顔をなんともいえない面持ちで見遣った。

彼もまた、サイタマに複雑そうな表情を向けている。

「……サイタマ、貴様、なぜここにいる」
「それはこっちの台詞なんだけど……えーと……なんとかのなんとか」
「音速のソニックだ」

高慢な物言いは相変わらずだったが、いまいち迫力に欠けていた。ぼさぼさに乱れた黒髪と、額から流れている血と、脇腹を庇うようにしている妙な姿勢。手負いなのは一目瞭然だった。

「いい加減に好敵手の名前くらい覚えろ」
「うん、お前をライバルだと思ったことは一回もないけど──ていうか、どうしたんだ、お前。怪我してんのか? 誰にやられたんだ?」
「……貴様の目の前に転がっているだろうが」
「は? こいつ?」

サイタマはきょとんと目を丸くして、刺々しいフォルム・チェンジを遂げた肉の残骸とソニックを交互に見比べた。ソニックが相当の実力者であるらしいことは、実感こそ沸かないものの、なんとなく察している──御縄についたことが新聞に載るくらいなのだから、それなりに悪名高かったのだろう。

そんな男がああもしてやられるほど、こいつは凶悪な怪物なのか? 目の仇にしている自分を混乱させるために虚言を吐いているのではないか──と、サイタマが猜疑的な意見を返そうとしたところで。

がぱっ──と、全身の口が一気に開いた。

表皮に突き刺さっていた飛苦無が、蟻地獄に囚われた哀れな被食動物がごとく、ずぶずぶと飲み込まれていく。曇天に鈍く響き渡る、不快感を齎すくらいに耳障りな──咀嚼音。

そして肉塊は──クローディアは鎌首を擡げる。お父様の“怨敵”を、仕留めそこねた“邪魔者”を今度こそ排除すべく、規則正しく並んだ、育ちのよさが窺える歯牙を剥き出しにして。

──吼える。