eXtra Youthquake Zone | ナノ





濡れた長い金髪を花嫁が被るヴェールのように引き摺って、全裸だというのに恥じらう素振りもなく緩慢な足取りでこちらへ歩いてくる──少女が。

「……お父様がお怒り」

抑揚のない口調で、少女は言う。青い虹彩はじいっとハイジだけを見つめていて、シキミのことなど目に入っていないようだった。それだけで──彼女が異質なモノだとわかる。

「き……来たぁあ……!」
「あの子が──博士の娘ですか?」
「そうだよ! 普通の女の子に見えるけどっ、とんでもない怪物なんだよ! 化け物なんだよ!」
「ば、化け物って……そんな」
「早く逃げないと殺されちゃうんだよ!」

ハイジが叫んだ“逃げないと”というフレーズに。
少女は──クローディアは、劇的に反応した。

「お、父、様がお怒、り──」

わずかの助走さえもない、ただ一足飛びの跳躍で──数メートルの距離を一秒で詰められた。
垂れた髪の隙間から垣間見えた、限界まで見開かれた瞳が爛々と光っている。
本能的な危機感を呼び起こすには充分な鬼気だった。

咄嗟にヴェノムを撃った。クローディアの右肩に被弾した。猛毒が一気に広がって、シャボン玉のように皮膚が膨張して──そこに一筋の亀裂が入った。

ハイジはその現象に見覚えがあった。だからこそ戦慄して、青褪めて身構えた──しかしシキミは知らない。

彼女がつい先程まで、どんな形状をしていたのか。

がばっ、と亀裂が勢いよく開く。
そして生まれた巨大な口が、規則正しく並んだ白い歯が──

シキミの左半身に喰らいついた。

「────ッッッあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ、」

ぶちぶちぶちっ、と──なにかが切れる嫌な音。肉と骨を噛み切られ磨り潰され咀嚼される激痛。噴き出す己の血の熱さ。頭が真っ白になった。それでも必死に脚を振り上げて、渾身の膝蹴りを叩き込む。クローディアはたまらず仰け反って離れた──解放された体は、既に原型を留めていない。

「あっ、が、ひぐっ、うあああ……っ!!」

悲鳴が止まらない。許容を超えたダメージに、呼吸さえもままならない。強烈な圧によって折れた肋骨が肺を損傷しているのかも知れない──しかし傷口を直視する気にはなれなかった。そんなことをしたら──自分の惨状を目の当たりにしてしまったら、さすがのシキミも心が折れてしまうだろう。左腕は皮一枚なんとか繋がっているようだが、感覚はない。握っていたワルサーは恐らくクローディアに“食べられて”しまったのだろう。

「──シキミっ、」

駆け寄ってきたハイジを突き飛ばして、シキミは反対側に跳んだ。そこに歪な肉塊と化したクローディアが突進してきた──そのタックルは空振りに終わった。

「っ、はあっ……あ……くぅ……!」

奥歯を食い縛りながら、シキミは右腕を持ち上げる──ヴェノムの照準をクローディアに合わせる。滑稽なほど震えているが、なにせ的がでかい。外しはしないだろう。そして今そこに装填されている次弾は“ドーピング”用の劇薬である──相手が生きているモノならば、さっき撃ち込んだ毒とは比にならない効果を発揮するはずだ。

──しかし。
それを使う機会は、呆気なく奪われた。

クローディアの巨躯が、音もなく縦に切断された。粘土細工のように、いとも容易く肌色の塊が真っ二つに分かれて、どちゃっ、と床に倒れた。その間から──刀を振り下ろした姿勢で佇むソニックが、射殺すがごとく鋭い視線を放っている。

「たかだか科学者程度の隠し玉など、こんなものだな」

白刃に付着した体液を振り払いながら、ソニックは鼻を鳴らす。突如として現れたソニックを見て、ハイジはぎょっと目を剥いた。

「……さ、さっきの……“用心棒”……」
「ああ──また会ったな」
「ど、どうして──お前がここに」
「侵入者を始末するためだ。グレーヴィチの話を聞いていなかったのか? 教授とやらのガキはとうに片付けたし、そこのヒーローもどきに至っては俺が手を下す必要もなくなったようだ。放っておけば死ぬだろう。退屈な仕事だったな、今回も」
「お、俺たちを殺すのか、お前──」
「だからグレーヴィチの話を聞いていなかったのかと言っている。お前はグレーヴィチの“客人”なんだろうが。殺すわけがない。捕まえて檻に戻すだけだ。抵抗するなら、多少痛めつけるくらいは許されるだろうがな」
「……簡単に、やられてたまるか……」

敵意を剥き出しにして、シキミを庇うように立ちはだかるハイジを、呆れたようにソニックは見下げている。彼が頭脳労働にのみ秀でた、非戦闘員であることは事前情報として仕入れている──自分を愉しませることができるほど“やれる”とは思えない。余計な手間が増えただけだ。適当に気絶させて地下へ運んでしまおうと、面倒くさそうに動いたソニックの横っ腹に、

──クローディアの平手が炸裂した。

象すら握り潰せてしまいそうなサイズの掌が唸って、ソニックを弾き飛ばした──超速の反射で防御しようと刀を縦に構えていたが、そんな些細な盾は雀の涙ほどの効果も成さなかった。刀身は砕かれ、ソニックの華奢な体は豪速の衝突によって壁に叩きつけられた。

「がっ……!」

鉄筋コンクリートに罅を走らせるほどの衝撃に耐え、ソニックはなんとか起き上がる。彼が目にしたのは信じられない光景だった。今しがた確実に仕留めたはずのクローディアが、むくむくと肉を膨らませて──再生していた。対極の磁石が引き合うように別離した肉が同化して、更に体積を増していく。表皮をびっしりと覆い尽くす悍ましい口と、春に芽吹く花のように咲き乱れる無数の太い腕。

「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは悲しい」「クローディアは──」

背筋の凍る、狂気に彩られた輪唱。
空間が異質な反響に満ち満ちて色を変えていく。

(……しくじったな)

ソニックは内心で舌打ちを零した。武器を破壊されてしまったので、完全に丸腰である──彼には研鑚された体術もあるが、分厚い肉の鎧を纏ったこの異形に物理的な打撃が功を奏するとは思い難い。狙うべき急所もわからないし、どのような変態をするのかも想像不可能だ。不用意に近づいてしまえば、シキミの二の轍を踏んで喰らわれてしまうだろう。

かといって、離脱もできそうにない。負ってしまった深手が痛すぎる──立つことはできても、ベスト・コンディションと同じ速度では奔れないだろう。なにより彼にはハイジを確保せねばならないという任務がある。最強の忍者としてのプライドに懸けて、逃走は認められない。

そんな逡巡を嘲笑うかのように、彼にとどめを刺すべく、クローディアが巨木めいた腕の一本を振り上げる。

判決を言い渡す槌のように降り注いだその一撃は──
虚しく空を切った。

「──なッ、」

代わりにソニックの腹部にめり込んでいたのは、満身創痍に陥ったシキミの強烈な回し蹴りだった。

「にをして──貴様──」
「……あとは自分でなんとかして」

そう吐いたシキミの双眸は、赤く染まっている。

回転の勢いを殺さず、シキミは脚一本でソニックを浮かせる。そして振り抜く──近くの窓めがけて、彼の体躯を吹っ飛ばす。

砲弾のように射出されたソニックは、怒濤の大立ち回りについていけず立ち尽くしていたハイジも巻き込んで、盛大にガラスを割って外に落下していった。二階からの、命綱なしのバンジー・ジャンプ──危険な賭けだったが、この窮地を脱するにはそれしかない。いくら手負いでも、あの悪名高い“音速のソニック”ならばハイジを抱えて着地するくらいはできるだろう。

射程内から消えた標的を追うべく、クローディアは百足のように腕を蠢かせて割れた窓に続こうとした──が、その巨躯が仇となった。つっかかえてしまって、狭い窓枠を潜ることができない。しばらく突進を続けていたが、やがて諦めたのか、シキミには目もくれずどこかへ去っていった。最優先事項はあくまで“ハイジの追跡”であって“邪魔者の排除”ではないということらしい。

「……………………」

ひとまず危機は去ったが、息つく暇などない。左半身を苛む激痛と、生命の維持に関わる大量の失血と、そしてなにより“ドーピング”のせいで頭がおかしくなってしまいそうだったが、ここで倒れるわけにはいかない。ふらふらと左右に揺れながら、シキミは右手にしっかりとヴェノムを握って歩き出す。

ゴーシュとドロワットは、ソニックに斬られてから身動ぎひとつしない。ジェノスは既に“やられてしまった”とハイジは言っていた。助力は仰げないだろう。敗北を喫しただけでまだ生きているのか、それとも──脳裏に過ぎった最悪の結末を、シキミはきつく目を閉じて振り払う。

ああ──彼なら。
サイタマなら。
どんな絶望的な状況でも打破してきた彼なら。
このエマージェンシーをなんとかしてくれるだろうか。

そう、きっと──救ってくれるだろう。
なんといったって彼は。

世界一のヒーローなのだから。

(……早く……先生の……ところに、行かなきゃ……)