eXtra Youthquake Zone | ナノ





ベルティーユとジェノスを置き去りにして、グレーヴィチは姿を消した。娘を追って地上へ戻ったのだろう。ジェノスは片腕と片脚を失ってまともに動ける状態ではないし、ベルティーユにはそもそも脱出する気がないようだった。

「教授はここにいていいんですか?」
「私が行ってどうなる?」
「………………」
「武力を持たない学者に、化け物が暴れ回る砲煙弾雨の中へ飛び込めというのは、酷だと思うのだがね──それにゴーシュとドロワットがこちらへ向かっている最中だ。無闇に移動するのは得策じゃない。あとのことは子供たちと合流できてから考えるよ。そんな状態の君を放っておくわけにもいかないしね」
「……申し訳ありません」
「謝らないでくれ。責めているわけじゃないんだ……ハイジの逃走を助けてくれただけでも、ありがたい話なんだ。君がいなかったら今頃、ハイジは生きていなかっただろう。……よいしょ」

捻じ曲がった鉄柵の隙間からベルティーユが出てきて、床に尻をついているジェノスの隣に腰を下ろした。眼鏡を外して、ぐったりと疲れた様子で眉間を揉む。

「君が乗り込んできたということは、ヒーロー協会は既に異常に気づいているのかな」
「はい。教授の研究室があるフロアで血痕を発見して、なにかトラブルが発生したのだろうと……直前にグレーヴィチがあなたを尋ねてきたという証言がありましたので、事情を聞こうと、ここに。賭けでしたが、大当たりだったようです」
「なるほど。博打に勝ったというわけだ……単独で来たのかい?」
「いえ。先生とシキミと、諜報部のニーナも同行しています」
「ニーナ……ああ、ジャスティス・レッドの子飼いの部下だった彼女だね。そうか、それはなかなか心強い勢力だ。途中で我が子と鉢合わせになっていなければいいが」
「途中でトラップに引っ掛かってしまい、恐らくグレーヴィチが差し向けたものと思われる怪人の群れに遭遇して、分断されました。先生は心配いらないでしょうし、ニーナにはあの超鋼線兵器がありますから無事だと思うのですが、シキミは今どうなっているのか……」
「……シキミか」

眼鏡を定位置に戻しつつ、ベルティーユは目を細める。

「祈るしかないな……あのクローディアの脅威もそうだが、なによりグレーヴィチの雇った“用心棒”だ。あれとシキミをエンカウントさせるのは避けなければならない」
「用心棒──ですか?」
「こちらの話だ。女同士の秘密だよ。気にしないでくれたまえ」
「はあ……」
「それよりジェノス氏には、他にも訊きたいことがあるんじゃないのかい」
「……………………」
「先程のグレーヴィチ博士と私の討論を聞いていただろう?」
「……アーデルハイドは」

どう──問えばいいのだろうか。
逡巡しているジェノスに、ベルティーユが先回りした。

「ジェノス氏、君の優れた慧眼から見て、彼の歳の頃をいくつだと推測する?」
「……俺よりは上でしょう。ヒズミよりも……先生と同年くらいだろうと想定していましたが」
「七歳だ」

開いた口が塞がらなかった。
質の悪い冗談だとしか思えなかった──ジェノスは思わず身を乗り出してしまう。

「嘘でしょう?」
「こんなところで法螺を吹き込むほど平和ボケしちゃあいないよ。七年前、とある製薬会社の実験室──試験管という子宮の中、培養液という羊水に包まれて、彼は生まれた」
「アーデルハイドはクローン人間……ということですか?」
「ああ。彼は科学の力によって造られた、人工の生命体だ」

にわかには信じ難い発言だった。
しかしベルティーユは至って真面目に続ける。

「ジェノス氏は──“阿迦奢年代記”という概念を知っているか」
「……アーカーシャに映る、宇宙の全現象が記載された、カルマの投影像のことですか」
「その通り。さすが博識だな。それならば、近世物理学における“世界に存在するすべての原子の位置と運動量を把握できる知性があると仮定すれば、その知性にとって不確実なことはなにもなくなり、その目には未来が過去と同様にすべて見えているであろう”というパラダイムについても、説明はいらないかな」

古典物理学が席巻していた旧時代の、演繹的な究極概念。
因果律の終着点たる世界観。

今この瞬間に発生しているすべての現象の原因──変化している物質の全貌を正しく知り、素粒子の時間発展さえ計算し演算し把握し掌握することができれば、その存在は未来をも予見しうるであろうという、そういう仮定。量子論が登場して定着して以降は、既に古い仮説だとされているが──決定論と呼ばれる“未来は現在の状態によって既に決まっているものである”という概念を論じる際には、いまだ頻繁に引き出されることが多い。

「その製薬会社は、その“絶対的知性を持つ存在”を人工的に造り出そうとした。理由はわからない。世界征服でも目論んだのかも知れないね。専属の研究員たちのコネクションを利用して秘密裏に学者を集め、現存するなにもかもを超越した生物の製造を進めた。言うまでもなく非合法なプロジェクトだよ。テーマがテーマであるから、研究は難航していたようだ。当然だろう。そんな恐ろしいものが易々と誕生せしめるわけがない。しかし──奇跡は起こってしまった」
「……………………」
「生まれてしまったんだ。彼らが理想に掲げ追い求めた、天才という表現すら生温い、神の頭脳を持った生命体が──彼らは歓喜したことだろう。まだ完全ではなくとも、完成ではなくとも、彼らの努力がひとつ大きな実を結んだのだから、狂喜したことだろう──ただひとりの研究員を除いてはね」
「ただひとり?」
「その生命体に卵子を提供した“母親”だよ。彼女がその誕生に際して覚えたのは恐怖だった。とんでもないものを作ってしまったという後悔と、愛する我が子がこれから狂った科学者たちによって実験動物にされてしまうという焦燥──それらが綯い交ぜになった恐怖だった。その筆舌に尽くし難い恐怖が、彼女を密告者に変えてしまった」
「内部告発したのか」
「そうだ。彼女は洗い浚い、すべて話した。政府と警察と、当時“対怪人武装結社”として売り出し中だった内閣府公認の組織にね。それを受けて、その組織に所属していた少数精鋭チームが製薬会社に突入することになった」
「少数精鋭チーム……」
「彼らは“ジャスティス・レンジャー”と名乗っていた」

それは──聞き覚えのある名前だった。
忘れたくとも、忘れられるはずがない。

「ジャスティス・レンジャーが乗り込んだときには既に“母親”は裏切者として処分されていた。殺害されてしまっていた。しかし他の研究員たちは残らず逮捕され、実験の記録は差し押さえられ、プロジェクトは正義の名のもとに終結を迎えた。産まれ落ちてしまった生命体は無事に保護された──斬り込み隊長“ジャスティス・レッド”の、決死の戦いによって」
「……テオドールか」
「ああ。彼はその生命体を管理下に置くにあたって、よく世話を焼いたらしい。あまりの異常性に組織が匙を投げ、危険因子として亡き者にしてしまおうとしたとき、彼が矢面に立って止めたこともあったそうだ。巨悪としての“ジャスティス・レッド”しか知らない私には、想像もつかないがね──とにかく彼はヒーローとして、その生命体を見捨てず、ひとりの人間として生きていけるよう、名前を与えたそうだ。唯一その造り物で紛い物の心を想い、命を懸けて愛し抜いた母親である女性の名前をそのまま受け継がせた──“アーデルハイド”と」

ハイジというのは女性名の愛称ではなかったか、と問うたとき、ハイジが返した「複雑な事情があるんだ」という台詞をジェノスは思い出していた。

なるほど確かに──これは複雑な事情というに足る。

「ハイジはずっと隔離されてきた。頭脳に知を与えないよう──未来を予見し、世界の流れを支配下に置いてしまえる真なる怪物になってしまわないよう、協会に監禁されてきた。衣食住のみが用意された刺激のない無色透明の牢獄で、彼は七年間を生きてきた。しかしテオドールが逮捕され、脱走したとき、ハイジは追跡チームの一員として招集された。テオドールと浅からぬ面識があり、短くない時間を共有してきたハイジだから、行動パターンを予測するのにそれ以上の人材はないと判断されたのだろう。私はそこで初めてハイジと出逢い、その存在を知った。そして──正直を言って、戦慄した。恐慌した。こんなものがこの世にあってはならないと、きわめて常識的な、客観的な感想を抱いた。特異体質へ変貌したヒズミを初めて診察した際も、似たような感覚に囚われたがね」
「……………………」
「しかしヒズミはその異能を“現時点では”間違っていない方向に使っている。ならばハイジにもそれが可能なはずだ。そう願って、私は彼を引き取った。助手としての籍を与えた。人間としての心を信じることにした。新しい息子として、彼を立派に育てていく覚悟を決めたのだよ。恐るべき知性の体現、全宇宙に展開されるシナリオを搭載しうる阿迦奢年代記の模造たる頭脳──“アカシック・レコード・イミテーション”をね」
「俺には──とても、信じられません」

あのハイジが、そんな大層な生物だとは、説明されても受容できない。普段の幼稚な言動を省みれば、彼の年齢が一桁だというのは納得できなくもないけれど。

「ジェノス氏は、先日ハイジとババ抜きをしたそうだね」
「? はい」
「一度も勝てなかっただろう?」
「……それがなにか」

連敗の苦い記憶を掘り返されて、ジェノスの表情が曇る。

「ハイジには完全記憶能力がある。トータル・リコールともいうね。見たもの、聞いたことを瞬間的にすべて覚えてしまい、そして忘れない。たとえどんなに小さな現象であっても見逃さない──“トランプの背面についた僅かな傷や汚れでカードを覚えてしまう”ことくらい、彼にとっては朝飯前なのだよ。回数を重ねれば重ねるほど、ハイジは君の心理傾向も分析していく。右を選ぶか左を選ぶか、手に取るようにわかってしまうのさ──無意識的にね。土壇場で意図的にジョーカーを引かせることなど、赤子の手を縊るよりも簡単なんだよ」
「……………………」

そうも容易く読まれてしまう単純な脳味噌をしているなどとジェノスは認めたくはなかったが、事実ハイジには惨敗を喫したのだから、反論のしようもない。

ひとりで神経衰弱でもしていればいいじゃないか──と。

全知全能の化身である男に対して。
悪気はなくとも、どうやら自分は随分と失礼な提案をしてしまったようだ。

カードのシャッフルをするとき、目を逸らしていたのもそういう理由だったのだろう。少しでも戦況をイーブンにするために、混ざるカードの順番を記憶しないように──それも大して意味を成してはいなかったようだけれど。

なんともかんとも──退屈な勝負だっただろう。

「……腹立たしいな」
「そう怒らないでやってくれ。今だから言うが、ハルピュイアが発現したあの日、シェルター側の“受付”でハイジを君のところに差し向けたのは私なのだよ」
「は? なんのために──」
「私の知る者の中で、君が最もハイジと歳の近い男の子だったからね。きっと初めての友達になってくれるから声をかけてみるといい、と言っておいたのさ。うるさい、話しかけるなって拒絶された、と拗ねていたが──今は良好な関係を築けているようでなによりだ」
「……そういうことは事前に伝えておいてくれ」
「なんと? かわいいかわいい息子がぼっちだからオトモダチになってあげてください、とでも頭を下げておけばよかったのか?」
「……………………」
「とにもかくにも──無事に帰れたら、またハイジの遊び相手になってやってくれ」
「当然だ。あの男の正体がどうだろうが、このまま勝ち逃げさせる気はない」
「ハイジは加減を知らないぞ?」
「加減など願い下げだ。真っ向から負かす」

ジェノスの啖呵に、ベルティーユは口を綻ばせた。
願わくば──その宣言が、実現するといい。

不気味なほど静まりかえった、薄緑の浅瀬と化した地下で──ベルティーユは祈るように目を閉じる。