eXtra Youthquake Zone | ナノ





膝を抱えた姿勢のまま、長い金髪を揺らめかせているクローディアは、眠りから覚めたばかりの胡乱げな眼差しでこちらを見ている。視線に溌剌さはないが、しかし確実に、周囲を知覚している──状況を認識している。

「……………………」

不測の事態に、ジェノスは警戒を強める。ベルティーユも檻の中で身を引き締めた気配が伝わってきた。ハイジはずっと怯えきっていて、さっきから一言も発さない。

「“こっちへ来なさい”、クローディア」

グレーヴィチが言う。すると──どういう仕組みなのか、クローディアの全身に差し込まれていたプラグが自動的に外れて、煩雑に絡み合っていた細いチューブが、蕾が花開くようにはらりとほどけて水槽の底に沈んでいった。拘束を解かれて自由の身になったクローディアは、スロー再生のように緩慢な動きで手を伸ばす。そして強化アクリル・ガラスの壁に触れた。

──刹那。
びしり、と。

そこから無数の罅が生まれた。

そして内包していた水圧に耐え切れず、一気に割れた。薄緑色の液体が濁流となって室内を浸食する。その波はジェノスの足元にまで届いたが、特に異常は起きなかった。無論ベルティーユとハイジを閉じ込めているケージも巻き込まれて、ハイジは恐れ慄いて飛び上がり、なんとか逃れようとしたけれど──そんなことで避けられるはずもない。膝まで濡れて、ひいっ、と情けない悲鳴を漏らした。

グレーヴィチも同様である。高そうなスラックスが台無しになったというのに、まったく気にしていない。むしろ娘の覚醒を誇るかのように、見せつけるかのように──口の端が弧を描いている。

「……おはよう。クローディア」

濡れた金髪を全身に張りつかせながら、クローディアは浅い海の中をゆっくり歩いてくる。その足取りは覚束ないが、迷いもない。一糸纏わぬ、産まれたままの姿を晒していることに対する羞恥も感じていないようだ。そんな彼女の唇が、小さく動く。

「おはようございます。お父様。いいお天気ですね。紅茶を淹れましょうか。コーヒーがいいですか。お砂糖を入れますか。ミルクはどうしますか。おはようございます。お父様。いいお天気ですね。紅茶を淹れましょうか。コーヒーがいいですか。お砂糖を入れますか。ミルクは──」

壊れたレコードが、延々と同じフレーズを奏でるように、クローディアは小鳥の囀りのように澄んだ声でそう繰り返す。不気味なほどに単調なリフレインだけが、ホールに反響する。

「……とても“この世界を統率するに相応しい”知性を持っているようには見えないんだが」

ジェノスの皮肉に、グレーヴィチは睥睨で応えた。

「ああ、その通りだな。それはこれから徐々に取り戻していく」
「取り戻す?」
「そうだ。今はまだ不完全で、思考回路が安定していない。嘆かわしいことだが、まず肉体の強化を第一に“怪人の心臓細胞核の移植”による“蘇生”を進めてきたから、仕方がないのだ。だがもう焦る必要もない。クローディアの完璧だった頭脳を復元するための足掛かりは、もう既に手中に納めているのだから」
「どういう意味だ」
「懇切丁寧に説明したはずだが? 七年前にこの国で生まれ落ちた、叡智の結晶──すべての現象を把握し、その絶対的俯瞰の認識がゆえに未来をも予見しうる、もっとも全知全能に近しい存在。長年ずっと追い求めてきた“それ”が今、この私の支配下にある」
「……隔離されて、管理されていたのではないのか? なんのことだか知らないが、それも奪ってきたのか?」
「ここまで言ってもわからんのか。貴様は本当に木偶だな──もういい。馬鹿に垂れる講釈ほど勿体ないものはない。クローディア」

父親の号令に、クローディアはぴたりと足を止める。

「この見るに耐えん腹立たしいガラクタを──“叩き壊せ”」

クローディアは小首を傾げて、再び歩き出した。そのままグレーヴィチの横を通り過ぎて、ジェノスに近づいてくる──そしてまた、細い声で、なにごとか呟いている。

「お父様がお怒り。クローディアは悲しい。お父様がお怒り。クローディアは悲しい。お父様がお怒り。クローディアは悲しい。お父様がお怒り。クローディアは悲しい。お父様がお怒り。クローディアは悲しい」

数メートルの距離で、ジェノスとクローディアが対峙する。
いつでも戦闘に入れるよう、フル・コンディションで駆動できるよう、ジェノスは全身に神経を張り巡らせて構えていた。

──つもりだった。

彼の心に一瞬だけ隙を生んだのは。

水を含んで垂れた金髪の隙間から覗いた、蒼穹に似た、青い瞳。
再会を願ってやまない想い人と、同じ色の眼光。

もう遠き日の思い出と──重なってしまった。

「お父様がお怒り」

気を取られたのは、瞬きの間にも満たない須臾だけだった。
それでも──致命的だった。

迫り来る彼女の影が、音もなく視界から消えて。



「くろーでぃあハ悲しイ、」



ジェノスの左腕が肩から分離して宙を舞った。

切断されたとか、切除されたとか、そんな生温い次元の破壊ではない。圧倒的なパワーによって、強引に捻じ切られた──掴まれて、握り潰されて、引き千切られた。

「──────ッ!!」

ジェノスは反射的に飛び退って、間合いを取る。どこを見ているのかわからない、なにを考えているのかわからない、ぼんやりとした表情のままクローディアは追ってきた。生身の少女が、サイボーグであるジェノスの全力の逃避行動に──なんの技巧も凝らされていない、ただの跳躍で、追いついた。

「……は悲しい、お父様がお怒り、クローディアは悲しい、お父様がお怒りクローディアは悲しいお父様がお怒りクローディアは悲しいお父様がお怒りクローディアは」

目にも留まらぬ速度で疾駆しながら、クローディアは息ひとつ乱していない。普通じゃない──生物学の権威、グレーヴィチ直々の“改造”は伊達ではないということか。ジェノスは残った右腕を突き出して、吶喊してくるクローディアの首を掴んだ。手加減ゼロで、人体の急所である頸椎を圧し折ろうとして──白磁のように滑らかな肌の下、ジェノスの掌に、あっさりと肉と骨の潰れる感触が伝わってきた。

ぐしゃり──と。
拍子抜けしてしまうほどに、脆かった。

ぶらん、と支えを失ったクローディアの頭が垂れる。文字通りに息の根を止めた──はずだった。

その死体を放り投げようとして、バランスが崩れた。足元に目を落とす。右脚が消失していた。

クローディアの腹から、奇妙な肉塊が盛り上がっていた。真一文字の裂け目がある。その周囲を覆うように山形りの膨らみがあって、薄桃色に艶めいていて、まるで──唇のような──

その断裂が、大きく開いた。
白い歯列と赤い肉厚の舌が覗いて、その奥に、噛み砕かれて磨り潰されて金属の破片になった、つい先刻までジェノスを構成していた一部だったものがあった。

肉塊に小さな線が増えていく。ぷつぷつと沸騰する熱湯の気泡のように続々と浮かび上がって、際限なく増殖していく──そうして生まれゆく無数の口による、身の毛も弥立つ輪唱が始まった。

「お父様がお怒り」「クローディアは悲しい」「クローディアは」「お父様がお怒り」「お父様が」「悲しい」「クローディアは」「お父様がお怒り」「悲しい」「お父様が」「悲しい」「クローディアは悲しい」「お怒り」「お父様が」「悲しい」「お父様がお怒り」「クローディアは悲しい」「悲しい」「悲しい」「悲しい」「悲しい」「悲しい」「悲しい」「悲しい」

ずるり、と──肉塊が更に膨れ上がって、クローディアの全身を飲み込んだ。肌色の歪な球体と化す。次いでそこから生えてきたのは、異常に長い腕──否、もはや“前足”と“後足”だった。指の数も、掌のサイズも、関節の位置もそれぞれ異なる、左右非対称の体躯。人類としてどころか、自然界における生物の理から大きく外れたその姿に、ジェノスは地面に這い蹲らされながら悟る。

(また──油断してしまったようだ)

娘を神の玉座に据えるなどと宣った、マッド・サイエンティスト──グレーヴィチの狂気を甘く見た。

「ご覧の通り、我が娘はまだまだ不完全で、未完成だ。貴様のように野蛮な暴徒を鎮圧できる即物的な意味合いでの“強さ”は既に持ち得ているが、それでも足りないのだ。──知性が」
「……………………」
「かつて娘のものだった才気を、これから取り戻すのだよ──欠けたものを埋めるピースはここにある。全世界を掌握できる、全知全能のスペシャル・データ・バンクがな」
「……ここに?」
「そうだ。それを摘出して移植して──いや、更なる改良を加えて定着させれば、クローディアは生物の頂点に君臨すべき超越者として完成する。現在そのデータ・バンクを保有している唯一無二の対象を破壊してしまうのは惜しいが、この惑星が次のステージへ進むためには必要な犠牲だ。理解と協力を願いたい。そういうことであるから──さて」

グレーヴィチは顔中に付着していた己の血を、袖で拭って──嗤う。

「いよいよ私たちの悲願が成就するときが来たよ。クローディア」

最後通牒たる“命令”を与えようと息を吸う。
その陶酔と熱狂と盲信に逸早く反応したのは。
ベルティーユだった。

「ジェノス氏、動け──ハイジを逃がせ!!」
「──は」
「早くッ!!」

怒声が飛ぶ。ジェノスはその意図の嚥下を放棄した。素早く片脚だけで身を起こし、左腕でケージの鉄柵を抉じ開けた。肩を竦ませて目を白黒させているハイジの胸倉を掴み上げる。

「手段は」
「問わん!」
「承知した」

たったそれだけの、短い会話。
ジェノスは檻からハイジを引き摺り出した。

「えっ──あ──」
「悪く思うな」
「ちょっ、ジェノス氏、待って」
「頭をしっかり抱えておけ」

言うが早いか。
ジェノスは上半身を仰け反らせて振り被って──

自身が突入してきた天井の大穴めがけて、ハイジを全身全霊で投擲した。

「──ッうわあああああああああ!」

間抜けな悲鳴を上げながら、ハイジがロケットのごとく射出される。無事に着地を果たしたかどうかは見えなかったが、とにかく彼は一階への避難を遂げた。再びベルティーユが叫ぶ。

「ハイジ、そのまま走れ! 逃げろ!」
「に、逃げるって──」
「なんでもいい!! とにかく捕まるな!! 走れ!!」
「でもっ、教授とジェノス氏がっ」
「そんなことを言っている場合じゃない! ヤツの狙いはお前だ──最初からお前だけだったんだ! いいから逃げろ!!」

まともな返答があったということは、怪我を負った心配はなさそうだ。ベルティーユの怒号に気圧されながら、ハイジは意を決して走り出したらしい。高い天井の上、騒々しい足音が徐々に遠ざかっていく。

「小賢しい真似を──クローディア! “追え”! “逃がすな”!」

発条仕掛けの玩具めいた挙動で、クローディアが跳躍する。昆虫のように節くれ立った長い手足を闇雲に振り回して、無数の口を絶えず謳わせる歪な肉塊が飛び上がる──ハイジが脱出した大穴から這い上がって、命じられたまま、彼を追跡するためその巨躯を揺らしながら消えていった。

グレーヴィチはジェノスとベルティーユに向き直り、呆れの混じった口調で苦笑した。

「逃げられるとでも思っているのか?」
「可能か不可能かの問題じゃない。あなたにハイジを渡すわけにはいかない」
「ベルティーユ教授、あなたは“あれ”の価値をわかっているんだろう? だからこそ──七年前、ヒーロー協会の前身たる組織が保護し、秘匿し、隠蔽し、隔絶してきた“あれ”を自分の助手に抜擢したんだろう? 全生物のザ・フラッグ・シップたる“あれ”の能力を、己の目的のために利用しようとしたんだろう?」
「……そんなつもりはなかったがね。ただ──彼を制御できないからといって、統御できないからといって死ぬまで鬱屈とした密室に閉じ込めて、その価値を殺してしまうのは人類の損失だと思った。その点においては、あなたと同じかも知れないな」

二人の会話を、ジェノスは理解できない。判断できるのは、彼らの論議の中心にいるのがハイジだということだけだ。よく言えば天真爛漫で純一無雑、悪く言えば軽挙妄動で無知蒙昧な印象しかない男だが──その認識には誤りがあったということだろうか。

(アーデルハイド──お前は一体、何者なんだ?)