eXtra Youthquake Zone | ナノ





シキミが「実家に帰ります」と言い出したのは、朝食を終えて一段落ついたときのことだった。いつものように床に寝転がって漫画を読みふけっていたサイタマがそれを聞いた直後の焦りようといったら、とても筆舌には尽くし難い。

なんだよ待てよもう三行半かよ落ち着け俺なんか悪いことしたかいやまあそりゃ毎日メシ作らせて風呂も焚かせて召し使いみたいなことばっかりさせてたけど悪気はないしコイツ好きでやってるって言うしそれに俺まだ手も出してないのにいや出したいとかそういうアレではないこともないけど──というような弁明が一瞬で脳裏を駆けて、それからシキミが「必要なものを取りに行くついでに、掃除もしてこようと思います」と続けた台詞に己の早とちりを察し、がっくりと脱力したのだった。

「夕飯までには戻りますのでっ!」
「あ、そう……うん……」
「ついでに買い出しにも寄ろうと思うのですが──」
「俺も行っていい?」

サイタマの申し出が予想外だったらしく、シキミは大きな目玉が零れ落ちそうなほど両目を見開いた。見ても面白いものじゃないですよ、大したおもてなしもできませんし、とやんわり拒絶の意を呈したシキミだったが、結局サイタマに押し切られてしまった──サイタマが希望することに対して、声を大にして嫌だなどと言えるわけがなかった。

そんなような経緯で、サイタマはシキミがもともと暮らしていたアパートにやってきているのだった。誰もが憧れるA級ヒーローだから、都心の高層マンションの最上階にでも住んでいるのかと想像を巡らせていたのだが、現実はそう甘くないらしかった。保護者であるヨーコがまともな仕事に就いて働いているとは思えないので──サイタマも他人のことを言えた義理ではないのだけれど──実質的に生活費のほとんどはシキミの稼ぎで賄っているのだろう。そう考えると、ますます苦労人だな、と同情の念すら沸き起こってくる。

「先生」

畳敷きの居間に掃除機を滑らせる作業を終えたシキミが、相変わらず手持ち無沙汰にダイニングでテレビを見ていたサイタマに声をかけてきた。

「んあ? どした?」
「自室の整頓してきます。少し時間かかると思うので……」
「あー、いいよ。待ってるから」
「すみません。ゆっくりしててください。コーヒーのおかわり淹れましょうか?」
「それくらい自分でやるよ」
「しかし、先生の手を煩わせるわけには……」
「いいってば。お前は自分のやることやってこい」
「お気遣い痛み入ります……。ありがとうございます」

お気遣い痛み入るのはこっちだ、と心の内で呟いて、サイタマは鼻の頭を掻いた。無理を言って連れてきてもらっておきながら、なんとなく居心地がよろしくない。他人の家に上がるなんて久々のことなので、致し方ないことではあるのだけれど。

しかしこれではあまりにも格好がつかなさすぎる。なにをするでもなく休日をだらだらと浪費する旦那と、家庭のため身を粉にして家事に勤しむ幼妻──みたいな。

(……それはさすがに気が早すぎるな)

あらぬ妄想に傾きかけた思考回路をどうにかニュートラルの位置に戻して、サイタマは重い腰を上げた。ダイニングと隣接する居間へ移動する。焦茶色の古びた卓袱台と、小振りな桐の箪笥、分厚い木の板で組まれたシンプルな横長の棚──なんというか、時代錯誤も甚だしいインテリアである。ここだけ年号が止まっているのではなかろうか。

几帳面に並べられた、たぶんシキミが購読しているのであろう主婦向けの月刊誌に紛れて、興味をそそるものを見つけた。厚紙のカバーに収められたそれを、サイタマは迷わず手に取る。

シキミの中学校の卒業アルバムだった。

「………………………………」

こういうものを黙って盗み見るのは人としてアウトな行為だとサイタマも承知してはいたが、正当な好奇心を主張してくる悪魔の囁きには逆らえず、そっと中を開いてみた。シキミを探しながらぺらぺらとページをめくって、とあるクラスの一覧の中に彼女の名前があった。そこに掲載されている写真と照らし合わせて、間違いなくシキミ本人だった。髪は今よりも少し短いが、顔つきはほとんど変わっていない。

(まあ、一年か二年かそこら前だもんな。そんな変わんねーよな)

そう考えると、改めて恐ろしい話である──四捨五入したらもう三十路になる男が、つい最近まで義務教育の保護下にあった少女を誑かして、こうして自宅にまで上がりこんでいるのだから。

よくよく見てみれば、同じクラスにツルコの顔も並んでいた。明るいハニーブラウンの髪色は変わっていないようだが、伸ばしっぱなしのままふたつに分けたおさげにしていて、活発な印象はない──どころか、少々ばかり野暮ったい雰囲気である。とても同一人物とは信じられなかった。高校デビューを果たしたのだろうか。

「ヒメノは……いないな。違うクラスだったのか? いや、そもそも別の学校だったのかな……」

誰にともなく独り言を漏らしながら、サイタマは集合写真のページを眺める。なかなか派手な出で立ちをした生徒が多かった。丈の短い学ランの下にシルバーネックレスを覗かせていたり、大きなピアスをぶら下げていたり、瞬きの度に風が起こりそうな付け睫毛だったり──真っ金のロングヘアに赤色のメッシュという気合いの入った女生徒もひとりいて、まったく最近の若者は怖いな、とサイタマは他人事のような感想を持った。それでも全員が揃って笑顔で写っているのだから、まあ、かわいらしいものだ。

すると──そのとき、ベランダの方から物音がした。

サイタマはアルバムを丁寧に棚へしまって、引き戸を開けて外へ出る。二人分の洗濯物を干したらそれでいっぱいになってしまうほどの面積しかないそのスペースの隅っこで、植木鉢が倒れていた。青々とした葉を茂らせた苗が横になって、乾いた土を零している。

そして狼藉の犯人は、逃げも隠れもせず、そこに佇んでいた。

「なんだ、お前。どっから来たんだ?」

その生き物は犬のように、サイタマには見えた。ふさふさの黒い毛を湛え、ちょこん、と行儀よく座っている。見たことのない犬種だ。なんとなく堂々とした風格のようなものさえ漂っている。雑種──ではないだろう。首輪をしていないので、野良犬なのかも知れない。

「どうやってここまで登ってきたんだ? 二階だぞ?」

かわいそうだが、追い払わねばならないだろう。なにを育てているんだか知らないが、そこそこ生長しているらしい苗を齧られでもされてしまっては困る。しかし先述の通り、ここは二階である──まさか落とすわけにもいかないよな、どうしよう、と逡巡しながらとりあえず捕まえようとしたサイタマだったが、彼が動くより先に、謎の生き物の方が身を翻した。

ふわっ、と軽やかに跳び上がって、手摺りの上に乗る。

「お、おい、危な──」

ぎょっとして前のめりになったサイタマに。
そいつは──ゆっくり頭を垂れた。
まるで礼をするかのように、確かな知性を感じさせる所作で。
なにかを伝えようとしているみたいな──

呆気に取られているサイタマを置いて、そいつはあっさりと飛び降りた。明確に自分の意思で空中に踊り出て、サイタマの視界から消えた。慌てて柵から身を乗り出してその姿を追うサイタマだったが、既にそいつは着地を果たし、尻尾を揺らしながら悠然と去っていくところだった──雨に打たれながら向かいの民家の角を折れて、さっさとどこかへ行ってしまった。

「……なんだったんだ?」

茫然と成り行きを見守るしかなかったサイタマが室内に戻ると、ちょうど目的を達成したらしいシキミが居間に顔を出したところだった。どうかしたんですか、という彼女の問いに、サイタマはどう答えたものかと頭を悩ませる。

「ベランダに犬がいてさ」
「犬ですか? ここペット禁止なんですけれど」
「首輪してなかったから野良じゃねーかな」
「野良犬ですか……二階までよじ登ってくるなんて危ないですね。念のために近くの小学校に報告しておかないと」

真面目くさってそんなことを言うシキミ。A級ヒーローの鑑というべきか。

雨足もだいぶ弱まって、やるべきことも粗方は片付けて、そろそろ帰ろうか、昼飯はどうしようか、という弛んだ空気になって──彼らのとりとめもない平穏な時間が終わりを告げたのは、そんな頃合のことだった。

サイタマのパーカーのポケットで眠っていた、持ち主に返すタイミングが見つからずなんとなく持ち歩いていた携帯電話が、ヒーロー協会の回線からの着信を告げて電子音を鳴らし始めたのは。
夏の終わりが近い、そんな昼下がりのことだった。