eXtra Youthquake Zone | ナノ





「そろそろ着きますよ、先生」
「……んがっ?」

なんとも間抜けな唸り声を上げて、サイタマは夢の中から現実世界に戻ってきた。隣に座るシキミも苦笑を漏らしてしまうほどの爆睡っぷりだった。二人の乗っている車両に、他の客がいなかったのは幸運だったといえよう。

鈍色の空から絶えず滴り落ちる水滴が窓ガラスに不規則な水玉模様を描いては、筋になって落ちていく。その向こうには立ち並ぶ瓦葺き屋根の民家、薄汚れた壁の商店、都市部に比べると些か背の低いアパートの群れ──絵に描いたような郊外の、閑静な住宅街が見える。

「いかん、ガチ寝しちまった」
「お疲れですか? どこかで休憩を……」
「別にいいよ。用事が終わってからで」

大欠伸をかまして、サイタマは腰に手を当てて伸びをする。慣れない電車旅のせいで、全身が妙に凝っていた。肩に手を当てて回したり解したりしているうちに、流れていく景色がだんだんスローになってきて、そして停まる。ぷしゅう、と気の抜ける音を立てながらドアが開いた。

その駅で降りたのはサイタマとシキミだけのようだった。二人をプラット・ホームに吐き出すと、鈍行列車は再びのろのろと走り出して、次の目的地へと去っていった。

建物はそれなりに整備が行き届いていて、無人駅の割には清潔に保たれている。壁やベンチがところどころ黒ずんではいるものの、これくらいなら許容範囲内だろう。空白が目立つすかすかの時刻表の前を通り過ぎて、改札へ向かう──と、そこでサイタマがパーカーのポケットをごそごそ漁って、にわかに焦り出した。

「あれ? 切符どこやったっけ、俺」
「あたしが持ってますよ」
「おー、そうだった、お前に渡したんだった」

ほっと胸を撫で下ろしてシキミに預けていた切符を受け取り、サイタマはもたもたと不慣れな手つきで地面から生えているゲート状の機械に飲み込ませる。高速で吸い込まれていった紙切れの勢いに若干ビビりつつも、なんとかかんとかホームからの脱出に成功することができた。

「そういや、これに挟まれるとすげー痛いって前にヒズミが言ってたな」
「挟まれることなんて大概ないですけどね……」

傘を開いて、道路に出る。駅舎に併設された駐輪場には多種多様の自転車が犇めきあい、大海のように広がっていた。入口の脇に申し訳程度に立てられた「盗難・悪戯に注意!ツーロック推奨! Z市警察署」の看板は、どうやらかなり年季が入っているようで、文字が削れて読めなくなりかけている。

並んでビニール傘を差し、踏切を超えて人っ子ひとり見当たらない路地に入った。雨音と湿った匂いの充満する、くたびれた細い道だった。

「なんつーか、静かなところだな」
「いつもは近所の小学生たちがボール遊びとかしてるんですけどね……ここ車通りが少ないので。でも今日は雨ですし」
「家でゲームでもやってんのかね」
「そうですね。……あ、見えてきました。あのアパートです」

そう言ってシキミが指差したのは、お世辞にも綺麗とは言い難い、古びた二階建てのこぢんまりとした集合住宅だった。築年数はサイタマの歳と同じくらいだろうか──ぼろぼろで目も当てられないというほどではないにしろ、かなり傷んできている。そろそろ建て替えが必要な時期なのではないだろうか。

「散らかってると思いますけど、引かないでくださいね」
「いや、俺んちだって大概だろ……あ、でもジェノスが転がり込んできてからは毎日のように掃除されてっからな……まあアレだ、気にすんな」
「お言葉に甘えます」

アパートの中央に伸びる階段を昇り、左端の角部屋の前に差し掛かったところで、シキミは立ち止まった。肩から提げている大きめのトートバッグから鍵を取り出して、差し込んで、くるりと捻る──久方振りに開けられたドアが家主の帰宅を歓迎するかのように、がちゃん、と鳴いた。

「どうぞ、お上がりください」
「お邪魔しまーす」

狭い三和土に靴を揃えて、サイタマはその部屋に──シキミとヨーコの暮らす2LDKの空間に、初めて足を踏み入れた。

「全然キレーにしてるじゃん」
「ありがとうございます。なんだか照れますね」

玄関から繋がるダイニング・キッチンは整然としていた。テーブルは磨かれ、食器棚の中身も揃って行儀がよく、シンクに洗い残しのひとつもない。しばらく手入れされていなかったので、細かい塵や埃こそ少し積もってはいるものの、だらしない印象は感じなかった。日頃からきちんとしていたのだろう。家事全般を請け負っていたシキミの、生活力の賜物だ。

「とりあえず座ってください。コーヒー作ります」
「あ? いいよ、そんな気ィ遣わなくて」
「私がゆっくりしたいだけですよ。遠慮しないでください」
「……そう? そんなら一杯もらおうかな」
「ありがとうございます。インスタントですけど、いいですか?」
「なんでもいいよ」

薄いクッションの敷かれた椅子に尻を落ち着けたサイタマに背を向けて、シキミはてきぱきと二人前のコーヒーを淹れる作業に入った。てきぱきと薬缶に水を注いで、コンロに掛ける。

「お砂糖とミルク、どうしますか?」
「両方とも入れといて。あ、ミルク多めで」
「了解しました」

シキミの奏でるカップとスプーンがぶつかる甲高い音が不快というほどではないものの、周りがしーんとしているせいか、どうにも気になる。ダイニングの隅に前時代的なブラウン管が置かれているのが目に入ったので、サイタマは苦し紛れに「テレビ点けてもいい?」と訊ねてみた。シキミは二つ返事で了承して、バラエティ特番の再放送が流れ出した。チーム対抗のクイズ番組のようで、あまり賢くないタイプの若いタレントが的外れな回答を大声で叫んで笑いを誘っている。

「クイズお好きなんですか?」
「自分がやるのはそうでもねーけど、見るのは面白いな」
「そうですか」
「あーいうトンチンカンなこと言えるヤツって、逆に天才だと思うんだよなあ。常識人にはできねー発想なんだし」
「なるほど、一理ありますね。あたしもおバカ路線で売り出してみようかな……」
「それは学校に怒られるんじゃねーのか? イメージ悪くなるって」
「あ、そっか」

その発想はなかったとばかりに感心しているシキミに、サイタマの口元が綻ぶ。とても拳銃を振り回して、凶悪強盗団のメンバー数人を単独で制圧してしまうような阿修羅とは思えない──どこにでもいる、普通の女子高生にしか見えない。

(なんなんだろうな、コイツ)

世界に類を見ない生きた知識の倉庫であるベルティーユを以てして“長生きさせたいのならば早急に手を打たなければならない”と言わしめるほどの、特異的体質──それが後天的に、なんらかの原因によって発現したものであるということは既に聞いている。ではその“原因”とはつまるところ、なんであるのか──彼女の過去に、一体なにがあったのか。

(……“女同士の秘密”──か)

先日シキミとベルティーユが交わしたという“内緒話”は、ひょっとしてそれ絡みのことだったのだろうか。確信も確証もないただの勘だが、なんとなくそんな気がする。

かといって無理に突っ込めるほど、サイタマの肝は坐っていない。それは決して彼が臆病だとか保守的だとかいう話ではなく──逃げられたら嫌だな、という極めて自分本位な欲求に影響されている結果である。有無を言わせず強引に迫って唇を奪って、中途半端に手中に収めてしまったものだから、余計に。

人類最強のヒーローでも。
他人の心までは、どうにもならない。

「……………………」

改めて冷静に思い返してみると、自分の堪え性のなさに打ちひしがれざるを得ない。ひどい。ひどすぎる。十近くも歳の離れた女の子になにをしているのか。だらだらと冷や汗が湧いて出てくるような心地だった。壁に掛けられた新聞社のカレンダーさえ、自分を侮蔑の篭もった眼差しで見下しているような気がしてくる。

「コーヒー入りましたよー」
「……おう」

リクエスト通りにたっぷりミルクの入った温かいコーヒーだけが、この情けない非モテ野郎を慰めてくれているようだ。しかしそれすら、悩みの種である張本人のシキミが自分のために用意してくれたのだと思うと、尚更ハートが折れそうになる。シキミにそれと悟られぬようひっそり溜め息を吐いて、サイタマはただ愉快なだけで毒にも薬にもならないテレビ番組にひとときの癒しを求めることにした。