eXtra Youthquake Zone | ナノ





三和土に足を踏み入れて、まず最初に感じたのは異様な暑さだった。空気が不快な熱を帯びて湿っている。その理由はキッチンの脇まで進んだところですぐに判明した。具材などなにも入っていない、ただ湯だけが注がれた土鍋が、コンロの上に鎮座していた。長時間ずっと火にかけられているようで、水蒸気を立ち上らせながらぐらぐらと煮えている。だいぶ少なくなった湯の表面に大きな泡が膨らんでは割れ、膨らんでは割れ、忙しなく沸騰していた。

「……………………」

不毛な加熱を強いられていたコンロを楽にしてやり、ジェノスはリビングを覗いた。

必要のなくなった家財道具のすべてを処分して、空っぽになったフローリングの真ん中にへたりこみ、煙草をふかしているヒズミの細い背中を見つめる。

もちろん入院着のままである。足の裏には細かな傷がいくつも走っている。市外の病院からこの廃墟地帯まで裸足で走ってきた、なによりの照明だった。

「ヒズミ」

そっと名前を呼んでみる。
一度ふるりと両肩を震わして、彼女はゆっくりと振り返った。

「おかえり、ジェノスくん」

笑って──いる。
焦点の合っていない澱んだ瞳でも、確かに真っすぐジェノスを捉えて、慎ましやかに微笑んでいる。

「今日は早かったんだね」
「……ああ」
「大変だったでしょ、お仕事」
「ああ」
「最近は特に物騒だから、私ずっと、ジェノスくんが怪我してないかと思って」

この期に及んで──他人の心配をしているのか。
お前は。
馬鹿なんじゃないのか。
──本当に。

そんな言葉を飲み込んで、ジェノスはヒズミの隣に胡坐を掻いた。互いの距離が近づいたことに、彼女は心なしか嬉しそうに顔を綻ばせる。それでも寄り添ってこようとはしない──まるでそれは禁じられているとでも思っているかのような。

「火が点けっ放しになっていたぞ」
「火?」
「台所の。鍋が茹だっていた」
「ああ……そうだった。忘れてたなあ……」
「危ないだろう。気をつけろ」
「ごめんね。ああ、馬鹿だなあ、私」
「いや、……いいんだ」

ゆるく頭を振って、ジェノスは数本の吸殻を載せた灰皿と、びりびりに破かれた煙草のカートン・ボックスを隅に除けた。どうやら予備で買い置きしていたものの、消費する機会がなくなって、他の“遺品”と一緒にダンボールに詰めていた新品らしい。お世辞にも綺麗とはいえない開封の仕方だった。もうそれさえもままならないのだろう──わからないのだろう。

もうなにも。
わからないのだろう。

「あまり吸いすぎるな」
「どうして?」
「健康によくない。長生きできないぞ」
「長生き」

ジェノスの発した単語をひとつ鸚鵡返して、ヒズミは首を傾げるふうな動作をした。

「おかしなこと言うなあ」
「そんなことはない」
「だって──だって私は──どのみち、もう、体がおかしくって、一週間も生きられないって──」

そこまで言って、ふとヒズミの表情に変化が現れた。
風に靄が晴れるように、霧が払われるように、冴えた顔つきに戻る。

愕然と見開かれた彼女の双眸に、切なげな、さびしげなジェノスの姿が映った。

どうか勘違いであってくれと祈る眼差し。
思い過ごしであってほしいと縋る面持ち。
痛々しい振る舞いが──喪失していた正常さを、ヒズミがようやく取り返しつつあることを物語っている。

「たとえ、そうだとしても──」

そんな彼女に、ジェノスは断ち切るとも包み込むともつかない、いわく複雑な口振りで。



「俺はお前を愛してる。ヒズミ」



──刹那。
ほんの一秒にも満たない間で、ヒズミは弾かれたように動いていた。

ヒズミの掌がジェノスの額を掴んで、力尽くで床に押さえつける。鈍い音が響き渡った。起き上がる隙を与えず、仰向けに倒れたジェノスの身動きを封じるべくヒズミが馬乗りになる。じじじっ──と彼女の指先からスパークの前兆を示す小さな火花が散って、あの夜のように、脳神経へ作用する電撃を流し込もうとして──できなかった。

ジェノスの視線に射抜かれて、釘づけにされている。
決して剣呑ではない、険悪でもない、むしろ穏やかな目つきなのに──それが却って。
彼が徹底的に無防備で、無抵抗でいるのが逆に。
ヒズミの胸を締め上げて、行動を阻害していた。

「……なんで」

上擦った声音で問うヒズミに、ジェノスは淡々と答える。

「俺の頭には、脳を守るための対ショック防御システムが組み込まれている。単純な衝撃を防ぐ、頭蓋の代用としての頑丈な装甲だけじゃなく──ボディの統御回路に干渉しようとする遠隔操作電波や、直接的な電撃にも耐性のある回路を敷いてある。お前の攻撃も、その例外じゃない」
「だ──だって、でも、あのとき、ジェノスくん倒れて」
「お前の高圧電流が防御システムの許容を超えそうだったから、脳の処理速度を速める演算補助チップに供給していたエネルギーを意図的に暴走させて相殺した」

それでもギリギリだったがな──と、ジェノスはこともなげに吐露しているけれど。
ダイレクトに脳へ埋め込まれた装置に繋がる回路を、本来の用途とは異なる目的で無理矢理に酷使するなんて──危険なんてレヴェルの話ではないはずだ。

「そんなの──失敗したら、死んじゃうんじゃ」
「その程度で、俺が死ぬわけない」
「そ、……そう……なの?」
「俺が死んだら、お前は泣くだろう」

性懲りもなく。
隠れてひとりでめそめそ泣くんだろう。

「そんなのは、俺は嫌だ」
「……………………」
「だから俺は──絶対に、お前を置いてはいかない」
「……ジェノスくん、だめ」
「ヒズミ」
「だめ、だめなの、私は」

必死に言い募ろうとするヒズミの手首を優しく握って、ジェノスは体を起こした。痩せぎすの彼女を膝の上に乗せたまま、至近距離で視線を交錯させる。

「私は、もういなくなるんだよ、ジェノスくんを、私は置いていくの……私は」
「いいんだ、ヒズミ」
「ジェノスくんが、また独りぼっちになったら、私は」
「ヒズミ」
「傷つけたくないの、私のせいで、嫌なの、置いていくのは──」
「少し黙れ」

そう──低い声音で囁いて。

硬い掌でヒズミの頬を撫でる。無機物によって構成されている指先から伝わってくる温もりは、決して錯覚などではないだろう──確かに彼の心から滲む、想いの表れなのだろう。

そのまま細い顎を取って、殊更に鼻先を近づける。
今にも零れ落ちそうな涙を湛える青い眼に、自分自身が映っている。
十九年と少し生きてきたけれど、初めて出逢う顔をしていた。

「だ、め……やめて、ジェノスくん、いやだ、っ」
「黙れと言った」

ひたすら怯える彼女を、底から救い上げるように。
途方もない悲しみごと飲み込むように。

絶望に渇ききった唇を、己のそれで塞いだ。

「…………っ、……んっ」

ヒズミが短く呻いて抵抗の意思を見せたのは、一度だけだった。軽く啄むように繰り返し落とされる口吻に絆されて、彼女の手が、小さく震えながらジェノスに縋りつく。閉じられた瞼を飾る濡れた睫毛が揺れている。今にも絶えそうな息遣いが、触れ合う箇所から零距離で伝わってくる。

「ヒズミ」
「……はは」

そっとジェノスが唇を離すと、照れ臭そうにヒズミは笑った。小さな蕾みたいなあどけない表情で、はにかむように頬を綻ばせて、こつん、と額をジェノスの肩口に預けた。

「奪われちゃった」
「別に嫌じゃなかっただろう」
「いつも思うんだけど、どっから来てんの? その自信」

からかうふうな口振りは──いつものヒズミと変わらなかった。

「お前が泣かなくて済むなら、俺はなんだってする」
「うん」
「お前のためなら、なんでもできる」
「うん」
「お前を愛してるんだ」
「……うん」
「お前は」
「うん」
「俺のことを愛してくれるか。一緒にいてくれるか。──最期まで」

最期まで。
死がふたりを──別つまで。

「なんかそれ、プロポーズみたいだね」
「そう受け取ってもらっても構わないが」
「またジェノスくんは恥ずかしげもなくそういうことを……初めて会った頃のこと、思い出すなあ」
「初めて会った頃?」
「うん……でっかい蜘蛛と戦って川に落ちたとき、ジェノスくんが助けてくれて……言ってくれたでしょ」

お前は俺が守ると決めたんだ。
もうお前が傷つかなくていいように。
ずっと側にいて、俺が守ると決めたんだ。

俺だけは、今後なにがあっても、お前の味方だ。
これからはお前の思うように、生きていい。

そう──言ってくれた。

「あのときも、プロポーズみたいって突っ込んだ気がするなあ」
「……そうだったか」
「そうだよ。……覚えてるもん」

生まれて初めて他人から許してもらったのだ。
好きにしていいと──それを肯定してやると。
生まれて初めて背中を優しく押してもらった。

忘れられるわけがない。
忘れていいわけがない。

ずっと覚えているに決まっている。

「このひとがいるなら生きていけるって思ったのにな──あーあ」
「……ヒズミ」
「どうしてこうなっちゃうのかなあ」

俯いたまま言葉を絞り出すヒズミの背中を、あやすようにジェノスの硬い掌が撫でる──内側に吹き溜まっているものを、行き場をなくして凝った感情を、うまく吐き出す手助けをしている。

「私が悪いの? こんな──こんなことになるなら、生き残らなければよかったの? 結局こんなことになって死んじゃうなら、悲しい思いするくらいなら……させるくらいなら、最初からなんにも始まらずに終わればよかったの? 私が悪かったの? 変な能力まで持たされて、おかしな体になって、それだけでも嫌だったのに、でも頑張ろうって、私のこと支えてくれるひとがいるから、人生やり直してみようって気合い入れたのに、その矢先にこれで──」
「ヒズミ」
「……私が悪かったの、かな、全部」
「お前は悪くない。お前は恥じるようなことなんて、なにもしてない」

抱きしめる腕に力を籠めて──心を籠めて、ジェノスはヒズミに囁きかける。

「正しいか間違っているかがどうであれ、俺はお前に逢えてよかった」
「……………………」
「俺はきっと──お前に出逢うために、生き延びたんだと、思う」
「狂サイボーグに復讐するためなんじゃないの?」
「それは無論そうだが、でも、それだけじゃなかった。お前に出逢うためでもあったんだ」
「ジェノスくんは欲張りだなあ」
「子供だからな。大目に見てくれ」
「なにそれ、図々しいの」
「業突な年下は嫌いか?」

きつく抱擁されながら、そんなことを問われて──首を横に振れるわけがない。

「……ううん」

決して平坦ではなかった道を、ここまで共に歩いてきたのだから。

「大好きだよ」
「そうか」
「愛してるっちゃ、ダーリン」
「……そこまではさすがに……」
「ひでーな。受け止めてよ、私の愛」
「ああ──努力する」

ようやく通じ合った想いの形を確かめるように、ふたりは語り続ける。

「姿を晦ましているあいだ、なにしてたんだ」
「いろいろとね……お師匠さんに戦いの稽古つけてもらってたよ。実戦に勝る修行はないってことで掃除屋の仕事の手伝いもさせてもらって、あちこち回って……マフィア同士の抗争に参加したりとか、紛争地帯で民間人に乱暴してたゲリラ部隊やっつけたりとか、反政府団体の演説とデモ行進のボディーガードしたりとか……思い出すだけでどっと疲れるよ」
「そんな危ない橋を渡らされていたのか? あの女、やっぱり一度シメておいた方が──」
「やめてよ。私が頼んでやってもらったことなんだから」
「そうは言ってもだな──」

ふとなにかに気づいたジェノスが、まくし立てていた口を停めた。

「あの写真……」
「写真?」
「人身売買に手を出していた犯罪組織の写真を見た。そこにお前が写っていた」
「あー、覚えがあるような、ないような」
「写真でお前は拘束されていたが、捕まったのか?」
「アジトに潜入するために捕まった振りしてただけだよ。悪いやつらの縄張りを無防備にうろうろして、目をつけられるように振る舞って罠にかかるのを待つ計画だったんだけど、一日目でソッコー誘拐されて笑ったなあ」
「笑いごとじゃないだろう。お前に囮役なんて危険な真似をさせるなど……! やっぱりあの掃除屋は今すぐ半殺しに──」
「落ち着けってば……結果として組織は壊滅できたわけだし。思わぬ助け舟もあったしね」
「助け舟……?」
「いろいろあったんですよ」

冗句めかして言うヒズミをさらに深く追及しようとしたところで、

「ジェノスくんも、大変だったんでしょ」

くるりと話の向きを変えられてしまった。

「頭おかしくなった科学者の研究所で戦ったりとか、街中で暴れてたロボット倒したりとか、いろいろあったみたいじゃん」
「まあ──俺も“ヒーロー”だからな」
「おやおや、カッコつけちゃって」
「そんなつもりはない」
「どうだかねえ。……ところでさ、訊きたいことがあるんだけど」
「? なんだ」
「ひょっとこのお面つけてヤクザの喧嘩に乗り込んでったってマジ?」
「…………誰から聞いた」
「アンネマリーさん」
「あの鋏女ァ……!」

ぎりっ、と奥歯を噛んで、ジェノスは呻いた。いつの間にそんなくだらないことを吹き込んだのか。次に会ったら、あの小憎らしい顔面に拳を叩き込んでやろうと強く決心するジェノスであった。なかなか腕が立つようなので、返り討ちに遭わないとも限らないが──そんなことは二の次である。いつか殴る。これは決定事項だ。

「そういう反応するってことは、マジなんだね。うわっ、めっちゃ面白いじゃん。見たかったなー」
「やめろ。見なくていい」
「大丈夫だって。それくらいで幻滅したりしないし」
「……………………」
「なんてったってダーリンですからね」

多少ばかり間抜けでも、格好が悪くても。
惚れた腫れたは、そう簡単には治まらないものだ。

「うん──ダーリンだもん」
「ヒズミ……」
「一緒にいてくれるんだよね? そうなんだよね? それで──いいんだよね?」

顔を上げて、ヒズミはジェノスの双眸を覗き込むように、じっと見つめる。乾ききっていない涙が、赤く染まった目尻を濡らしていた。

「ああ。……ここにいる。ずっとお前の側にいる」

約束は守る。
言ったことに責任は持つ──男だから。

かつて彼女に叱り飛ばされたのだ。
同じ過ちは犯すまい。
二の轍は踏むまい。
もう二度と──迷ったりしない。

「愛してる」
「うん。……私も」
「お前に逢えてよかった」
「私も」
「そう、か……それならいい」
「……ねえ、ジェノスくん」
「なんだ?」
「思い出ほしいな」
「思い出……?」
「年下のイケメンといっぱいちゅーしたっていう思い出」

悪戯っぽく白い歯を見せて、ヒズミは言った。
彼女はこうして、笑っているけれど──その内側には、どれほどの寂寥と、どれほどの悲嘆が渦巻いているのだろう。
そんな彼女に対して、自分ができることがあるのなら。
彼女の望みを叶えてやれるのなら──なんだって。

言葉は、もう──要らないだろう。

触れるだけの口づけが、こんなにも互いの隙間を満たしてくれるなら。

病めるときも。
健やかなるときも。
喜びのときも。
悲しみのときも。
富めるときも、貧しきときも。

これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け。

その命ある限り、真心を尽くすことを、誓おう。

──死が、ふたりを別つまで。