eXtra Youthquake Zone | ナノ





昨日ほんの数十秒間だけ意識を取り戻したっきり、ヒズミは目を覚ましていない。ジェノスは夜通し一睡もせず、透明なアクリル板を挟んでヒズミの傍についていたのだが、彼女は身動ぎひとつしなかった。ごちゃごちゃと取りつけられた器具のお陰で、なんとか自発的に呼吸はできているようだが、瞬きの間にそれすら停まってしまいそうな危うさがあった。蒼白な顔色で横たわる彼女の心臓が本当に動いているのかどうか──ジェノスには、もはや確信が持てない。

「…………………………」

入れ替わり立ち代わりヒズミの様子を見にやってくる医師たちは、まんじりともせず銅像のようにヒズミを注視しているジェノスに、揃って気の毒そうな視線を投げかけてくる。酷な現実に置かれてしまったかわいそうな青年に対して、そっとしておいてやろうと声もかけずに去る者もいたし、缶コーヒーや喉飴などの差し入れを持ってくる者もいた。仕事の邪魔だと追い出すような無粋な輩がいなかったのは幸いだった。

集中治療室の電動ドアが開いて、そこから入ってきたのは病院関係者ではなくサイタマだった。パーカーのポケットに両手を突っ込んで、肘のあたりに中身の詰まったコンビニの袋をぶら下げている。こんな状況でも師への礼儀を忘れず、床に下ろしていた腰を上げて慇懃に出迎えるところが、ジェノスらしいといえた。

「先生」
「ヒズミの調子は?」
「………………」

無言で首を横に振ったジェノスに、サイタマは「そうか」と短く答えた。

「椅子ないのか、ここ」
「俺が取ってきます」
「いや、ないんならいいよ。……どっこいしょ」

さっきまでジェノスがそうしていたように、サイタマは地面に直接どかっと尻をつけて胡坐を掻いた。ジェノスもその隣に座り直して、眠り続けるヒズミに視線を戻した。薄い灰色の壁と天井に囲まれ、処狭しと犇めき合う延命装置の隙間に押し込められた彼女は、とても窮屈そうだ、とジェノスは思う。

「適当に買ってきたけど。なんか食べるか」
「いえ、俺は……」
「いいから遠慮すんなって。ヒーロー協会で領収書もらってきたし。どうせなんも食ってねーんだろ? サイボーグは食事なんか摂らなくてもいいのかも知んねーけど、なんかしら腹に入れといた方がアレだ、元気が出るぜ」

なおざりな口振りで、サイタマは袋から梅おにぎりを取り出した。手早く包装を剥いて、ジェノスの口に有無を言わさず押しつける。仕方なく米の塊に齧りついたジェノスを見て、満足そうに相好を崩した。

「早くヒズミも普通にメシ食えるようになるといいな」
「……そうですね」
「アイツに言ってやりてーことが死ぬほどあるんだ、こっちは。お前もだろ」
「俺は──」

口元に付着した海苔の欠片を剥がしながら、ジェノスは目を伏せる。

「……ヒズミにとって、重荷だったのかも知れません」
「はあ?」

ジェノスのらしからぬ発言に、サイタマは思わず棒状のチーズの真空パックを開ける手を止めた。

「ヒズミが忘れてほしいと望むなら、俺はそうするべきなんでしょうか」
「なに言ってんだ、お前」
「思うんです。俺がヒズミを愛することは、ヒズミにとって、苦痛なのではないかと……それ以前に俺の想いは愛でもなんでもなくて、ただ他人を拒絶できないヒズミの不安につけ込んで、子供が母親を独り占めしたいのと同じレヴェルの我儘を言っていただけなのではないかと、そう思うんです」
「……ジェノス」
「ヒズミが忘れてほしいと……俺との出会いを、思い出を、残したくないと望むなら、俺は……ヒズミが独りで静かに眠りに就きたいというなら……俺は、このまま全部忘れた振りをしてヒズミを見送るべきなのではないかと、思うんです。……こんな俺は、ヒズミにとって、ちょっと優しくしたら異様につきまとってくるようになった、鬱陶しいだけの男なのではないかと」
「それ、本気で言ってるんですか?」
「こんなときに嘘をついてどうす──」

台詞の途中で驚愕にぎょっと目を剥いたのはジェノスだけでなく、サイタマも同じであった。いつの間にかバスとタクシーを乗り継いで病院に到着していたシキミが、仁王立ちで二人を見下ろしていた。

音もなく灼熱に燃える、鬼気迫るほどの眼差しで。

「シキミ、お、お前いつからそこに」
「重荷だったのかも知れません、からです。ジェノスさん──あなた、なに考えてるんですか」
「……お前には関係ないだろう」

乱暴に吐き捨てて、ふいっと顔を逸らしたジェノスに、シキミの怒りがとうとう爆発した。
首の皮ぎりぎり一枚で繋がっていた堪忍袋の緒が切れて、ついでに破裂した。

「関係なくないでしょうが!!」

腹の底から──怒鳴った。
あまりの剣幕に、サイタマは勿論、あのジェノスでさえ気圧されているようだった。上体を引いて、明らかに逃げ腰になっている。そんな彼に詰め寄って、ますますシキミはヒートアップしていく。

「馬鹿なこと言ってんじゃねーですよ! なに? なんですか? あんだけあたしたちの前でイチャイチャしといて、うまくいかなくなるってわかった途端なかったことにしようとかしてやがるんですか? そんな──そんな都合のいい話があるわけないでしょうが!」
「お、落ち着けシキミ、病院だぞ」
「先生は黙っててください!」
「すいません!」

反射的に謝ってしまうサイタマであった。

「ジェノスさん、ヒズミさんのこと忘れてなかったんだ、よかった、って思ったのに──なんですかそれは! なんなんですかそれは! ストーカーならストーカーらしくしててくださいよ最後まで!」
「待て、誰がストーカーだ」
「あなた以外にいないでしょうが! 文句あるんですか!」

文句があるかないかと言われれば大ありだったが、訴えたらいい勝負ができそうなくらいの名誉毀損だったが、今のシキミはそんな揚げ足取りが通用しそうな状態ではなかった。

「ずっと──ずっと一緒にいたんじゃ、ないんですか」
「……………………」
「あたし、教授から聞いて知ってるんですよ。ヒズミさんがひどい目に遭って、怖い怖い寂しいって泣いてるとき、いつもジェノスさんが傍にいて、助けてくれたって──それなのに、なんで──なんで今ヒズミさんを助けてあげないんですか!」

脳が壊れていく。
体が衰えていく。

心までもが──弱っていく。

怖いに決まっているのに。
寂しいに決まっているのに。

どうして離れていこうとするのか。

「ジェノスさんはっ……あんたはそれで、自己犠牲でキモチイイのかも知れないけど! ……でもっ! 忘れちゃったら──忘れた振りして、さようならって手離しちゃったら! それまで過ごしてきた時間を全否定することになるのに! 愛だったとか愛じゃなかったとか、そんなくだらないことなんか関係なく、ジェノスさんのこと受け止めてくれたヒズミさんが! そんなふうに捨てられる程度のどうでもいいものだったってことになるのに!」
「どうでもいいとは思ってない!」
「思ってるか思ってないかなんて関係ないっ!」
「黙れ! お前に──お前みたいながきに俺たちのなにがわかる!」
「惚れた相手からみっともなく逃げようとしてる根性なしの考えてることなんて、ひとっつもわかんないけど! むしろわかりたくもないけど!」
「お、前ッ──……!」
「ちょ、マジで落ち着け、シキミもジェノスも! いい加減にしとけよ!」

我を忘れて声を荒げる二人を、いよいよサイタマが諌めにかかる。それによっていくらか落ち着きを取り戻したようだが、シキミはまだ肩で荒く息をしている。

「……今のは全部、ツルちゃんの受け売りですけど──ヒズミさんには、ジェノスさんしか、いないんじゃないんですか」
「俺──は、」
「大好きな人との思い出は、いっぱいある方がいい──んですよ。そうに決まってるんです。最期、なんですから……ヒズミさんもジェノスさんも、もっと、ワガママになって、いいんじゃないんですか」

ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、シキミはしゃくりあげている。

「なんで──なんで忘れた方がいいとか、相手がつらいだろうからなかったことにしようとか、そんなふうにしか考えられないんですか、ジェノスさんもヒズミさんも」
「……………………」
「好きだから、大事だからずっと一緒にいたい、離れたくない、それでいいじゃないですか。なんで──なんでそれじゃ駄目なんですか?」

そうやってストレートに問われると──回答に詰まる。
どこにも正解が見当たらない。

否──そうではない。
彼女が述べている言葉こそが正解に他ならないのだ。
恐怖と混乱に負けた己の脆弱な心が。

一本の糸を縺れさせていた。
絡まらせていた──だけだった。

騒ぎを聞きつけたのか、ドロワットとゴーシュが並んで入ってきた。ベルティーユが予め協会本部からこちらに呼んでいたのだろう──彼らは泣きじゃくっているシキミと、項垂れているジェノスを交互に見比べて、そして割合まともそうな様子のサイタマに目線を移した。

それを受け、サイタマはどこか達観した面持ちでシキミを、次に扉を指差すジェスチャを取った。双子の自律思考システムはそれを「彼女をここから連れ出してくれ」という指示だと、正確に受理した。シキミを気遣うように寄り添って、そっと出口へ誘導していく。三人が部屋をあとにして、自動的にドアが閉まって、かくして集中治療室にはサイタマとジェノスの二人が残された。

「ははは、痛いところ突かれちまったな、お前。根性なしだってよ。女子高生は容赦ねーな」
「……そう──ですね」

揶揄するふうなサイタマの発言に、ジェノスは自嘲っぽく口の端を歪めて頷いた。彼にも普段の冷静さが戻りつつあるらしい。そう判断して、サイタマは手の中で放置されていたチーズを一口で食べてしまう。もぐもぐと咀嚼しながら、重たい腰を上げた。

「んじゃ、俺もシキミんとこ行ってくるわ」
「申し訳ありませんでした」
「ん?」
「お見苦しいところを」
「別にいいよ、お前もまだまだ十代なんだなーって発見できたし。また後でな。……あ、そうだ」

なにかをふと思い出したように、サイタマはくるりとジェノスを振り返った。

「ブッ倒れる前によ、ヒズミが言ってたぜ」
「なにをです?」
「私のダーリンは最高カッコいいっちゃ。あんまりソワソワしないでほしいっちゃ──だとよ」
「……はっ」

失笑を漏らしたジェノスに、サイタマも口角を上げる。

「あんまり浮わついたことしてっとビリビリされるぜ。ラムちゃんみたく」
「それはそれで、いいかも知れません」
「え? お前そういう趣味なの?」

そう本気で思ってしまうくらいには夢中なのだ。
彼女のすべてに。
彼女のなにもかもに。

とても忘れられる──はずがなかった。

「嫉妬されるのは悪くないと思いませんか、先生」
「……ああ、そうだな」

思い当たる節があるのかないのか、含みありげに薄く笑って、サイタマは去っていった。そしてジェノスは再び真正面を見据える。これだけ大声で言い争っていても、ヒズミが覚醒する気配はない。

立てた両膝の上に組んだ腕を載せて、ジェノスは心中で眼前のヒズミに囁きかける。

──早く起きろ、ヒズミ。
──お前の心がどうだろうと。
──俺の将来がどうなろうと。
──俺はお前のことを愛しているんだ。
──覚悟はできた。たった今、やっと決まった。
──なあ、だから、ヒズミ。
──こんなにも自分勝手な年下の男だが。

──最期の瞬間まで、一緒にいてやってくれないか。