eXtra Youthquake Zone | ナノ





「これが最新のデータだ。確認するかい?」

ICUの隣に位置する特別診察室で、ベルティーユに差し出されたカルテを、ジェノスは躊躇いがちに受け取った。ヒズミが搬送されてきてから採取した血液や体細胞の状態を記録した、難解な専門用語や複雑なグラフの羅列に目を通しながら、ジェノスは掠れた声で訊ねる。

「……どうして、なんでしょうか」
「わからない。逃亡先でヒズミを診察していた闇医者──心配はいらない、信頼に足る腕の持ち主だ。彼が言うには、先週あたりに急変したらしい。ずっと徐々に悪化している傾向はあったが、薬の服用で充分に抑えられるレベルだったそうだ。それで騙し騙し、ほとぼりが冷めるまで凌いでいく算段だったらしいのだが……ある日いきなり発作的に錯乱を起こして、それからは──もう、どうしようもなかったと」
「……………………」
「ヒズミの発電能力の要である未知の脳内物質……その暴走が、もう抑えきれない。彼女のマイナスの感情……怒り、悲しみ、そして"恐怖"……それらの精神活動に伴って増加することは度々あったが、今回の異常は比べものにならない。他に要因があるのかも知れないが、現段階では不明だ。彼女の意識が回復したら、更に詳しく調べようと思っている。……回復したら、の話だがな」

そう付け加えて、ベルティーユはスツールから立ち上がった。白衣の裾を払って皺を伸ばし、カルテに目を釘づけにしたまま項垂れているジェノスを複雑そうな眼差しで見つめる。

「では、私は戻る。経過観察の時間だ」
「俺も同行させてください」
「……それは、まあ、構わないが……いいのかい?」

含みありげなベルティーユの問いに、ジェノスは間髪入れずに頷いた。

「そうかい。君は随分、いい男になったな」

嘯いて、ベルティーユは口元を綻ばせた。ジェノスを連れて通路に出て、厳重にロックされた扉の前に立つ。声紋と掌の静脈による生体認証をクリアして奥に進むと、透明なアクリルボードで区切られた空間に出た。分厚い板の向こう、ベッドの上で、延命装置から伸びる無数の管に繋がれたヒズミが見えた。心電図は弱々しく一定の拍動を刻んでいるが、いまだ彼女の心神は深い闇に沈んだままである。

「申し訳ないが、ここから先には入れない。医療スタッフ以外は立ち入り禁止なんだ。承知してくれ」
「問題ありません。弁えています」
「ありがとう。ヒズミは頑張ってくれているよ」
「……わかっています。それも」
「外部の音声は聞こえるようになっているが、なにかヒズミに伝えたいことはあるかい」
「…………………………」

話したいこと。
伝えたいこと。
──たくさんある。

聞きたいことも、たくさんある。

超えられない壁に、ジェノスは額をそっと押し当てた。

聞きたいことがたくさんある。
話したいことも、伝えたいことも、たくさんある。

聞いてほしいことが。
たくさん、あるんだ。

「…………………………」

それなのに、ひとつも言葉にならない。
ただ、気の狂いそうなほど愛おしい、その名前を──

「ヒズミ」

呼んでも。
返事はない。

けれど。

「──……je reve、」

ベルティーユが驚嘆の声を漏らすほど。
明確な反応があった。

ヒズミの目が薄く開いて、こちらに視線を向けてきた。

白衣のポケットから院内でのみ使える通信端末を取り出して、ベルティーユがなにかを叫んでいる。しかしなにも聞こえない。ジェノスの五感が捉えているのは、ただ目の前のヒズミだけだった。

「ヒズミ、……ヒズミ!」

ただ同じ言葉を繰り返すしかないジェノスに、ヒズミの肘が、ゆっくり持ち上がる。緩慢な所作で、ひらひらと手首の先をひらめかせた。まるで──心配はいらない、大丈夫だ、と手を振るように。

「……ヒズミ」

ぱたり、とヒズミの腕が力を失って倒れたのと同時、ベルティーユに召集された医療班──ヒズミのために組まれた協会直属の特別チームの面々が駆けつけてきた。飛び交う怒号も、目まぐるしく変化する状況も、どこか遠い別世界のようで──その十数分後、学校から直接タクシーで走ってきたシキミが到着するまで、ジェノスはただそこに我を忘れて立ち尽くしていた。



──その日の深夜。

寝る間もなく、ベルティーユはヒズミの検査結果を解析すべくコンピュータのキーボードを叩いていた。ほんの数分程度ではあるが、彼女は意識を取り戻した。それ以降の体調は安定している。脳内物質の量もややばかり落ち着いてきた。まだ予断は許されないが、この調子なら明日には普通に経口で栄養を摂取できるだろう。

(変化の波が激しすぎて、パターンを予測できない……なにが原因なんだ? ヒズミの身体を左右しているものはなんだ? 考えろ……考えるんだ。必ずどこかに治療法はある。これまでの記録を思い出せ。制御リングを外して進化のリミッターを解除したとき、ヒーローズ・ロック・フェスティバルで謎の"結界"の影響を受けたとき、A市が宇宙海賊の襲来を受けたとき──ヒズミを救う要因になったのはなんだ?)

眼鏡を外し、眼精疲労を訴える両目を擦りながら沈思黙考していたベルティーユを現実に引き戻したのは、、スピーカーから発せられるどこか間の抜けた電子メロディだった。

ディスプレイに表示されていたのは、衛星の電波を介して世界中の端末とビデオ通話ができるアプリケーションの着信画面だった。通話に応じると、そこに表示されたのは──どこぞへと姿を晦ましていた、あの掃除屋の彼女だった。

「いよォ、ラプラス! ご機嫌いかがァ?」
「…………………………」

苦々しげな面持ちでベルティーユが固まってしまったのは、こんな夜更けに電話をよこしてきた非常識さに呆れたからでも、己の愛弟子が逼迫した状況だというのにあっけらかんとしている不人情さに嫌悪したからでもない。ただ生中継で映し出されている彼女の纏っている衣装が、いつもとは違うベクトルにブッ飛んでいたせいである。

「なんだ、その格好は」
「あァ? 見たことねェか? ダイビング・スーツだよ」
「そうだな、そんなド派手なピンク色をしたダイビング・スーツは初めて見たな」
「カワイイだろォ? 特注なんだぜェ、コレ」

背景から察するに、どうやら彼女は海の上にいるらしい。大きなゴーグルで顔の上半分が隠れていて、首からシュノーケルをぶら下げている。カメラの端にはヨットの帆が見えた。

「なにをしているんだ? 入水自殺か?」
「バカなこと言ってンじゃねェよ。てゆーか、人命を預かる立場のヤツが冗談でもそンなセリフ吐いていいのかよ? まァいいや、どーでも。……ヒズミ今どうなッてる?」
「夕方頃に意識が戻った。安定している。今のところはな」
「おォ、そっかい。そりゃ重畳。しかしなんでまた急に元気になッたわけ?」
「まだ元気になったとは言い難いが……、正直わからない。ヒズミのなにが彼女自身の生命を脅かしているのか、見当もつかない。まったく恥ずかしい話だがね」
「はァン。難儀なこったな……あのロボットのガキは?」
「ジェノス氏のことか? 彼はずっと集中治療室にいる。ヒズミにつきっきりだよ。……離れたくないんだろう」

当然といえば当然なのだが、どこか思いつめたふうであった。妙な真似をしなければいいのだが──という不安がないかといえば、積極的に否定はできない。

「ッてことはヒズミのヤツ、記憶の消去にゃ失敗しゃーがッたんだな……くそッ、誰が危険を冒してまで戻ッてきてやッたと……ま、こォなるだろうとは思ってたがな。現実、そンな甘いモンじゃねェや」
「そうだな……どこまでも厳しい。厳しすぎるくらいだ」
「そンでもオレらは必死に生きてかにゃあなンねェってんだから、迷える子羊はつれェよなァ……オレも近々そッち行くからよ、よろしく頼むぜ」
「来られるのか? どこの海だ、そこは」
「そりゃナイショだ。とッても優雅にプライベート・クルージング中なンだよ。そンじゃーなラプラス、息災で過ごせよ。バイバイキーン」

ふざけた挨拶を最後に、一方的に切られた。通話終了を示すアイコンが点滅している。ベルティーユは旧友の相変わらずの奔放さに苦笑混じりの溜め息をついて、アプリケーションを閉じた。

(それでも必死に生きていかなければならない──か)

まさしく、その通りだ。
ぐうの音も出ない。

──彼女も。

自分自身と戦って、必死に生きようとしている。
その背中を支えてやるのが、今の己に課せられた使命だ。

曇りないレンズの奥の双眸を光らせて、ベルティーユは再びキーボードの上に指を踊らせる。