eXtra Youthquake Zone | ナノ





ヒズミが絡めてきた腕から、思いっきり殴られたような衝撃が伝わってきた。

瞬間、ふらりと意識が遠のきかける。自動的に起動した頭部の防御システムが、彼女の電撃を相殺しようとブーストを始めた。それでも押し返しきれない。脳天から爪先まで、感覚が痺れて曖昧になっていく。

──なんだ?
──なにをしている?

──ヒズミは一体、なにを考えている?

じわじわと脳に到達しつつある電流が、すべてを書き換えようとしている。脳内に組み込まれたセンサー系統の補助を行うための演算チップが、正確にヒズミの攻撃を解析する。彼女が狙っている部位を、壊そうとしている器官を分析する──記憶を浸食しようと、感情を抹消しようと、なにもかもなかったことにしようと──脳の回路を構成するシナプスを完全に断ち切ろうとしているのが読み取れる。

思い出を改竄して、改編して、これまで積み重ねてきた彼女への想いを無色透明に書き換えようとしているのが受け取れる。

(いよいよ、愛想を、尽かされたか──)

しつこい男は嫌われてしまうのが世の常だという。自分の愛情表現が──こんな言葉を遣うのは柄じゃあないが、ともかくそういった類の言動が彼女の精神にとってはマイナスだったのかも知れない。こんな男に慕われるのが嫌になって、疲れ果てて、全部リセットしたくなったのかも──そう思った。

しかし。
彼女は。

苦しそうだった。
寂しそうだった。
悲しそうだった──激しいダメージを受けている自分より、余程つらそうだった。

とても望んでいるようには見えない。

「うぁあああぁああああああ"あ"あ"あ"あ"あ"ッッッ、」

スパークに掻き消えた悲鳴が耳に痛かった。
──どうして。
どうして、そうまでして。
彼女は遠ざけようとするのだろう。
ただ──救いの手を差し伸べたいだけなのに。

天下のヒーロー協会を敵に回して窮地に立たされて、命まで狙われて、だから誰も傷つかないように離れていこうとでもいうのだろうか。自分だけが犠牲になればいいと信じて疑っていないのだろうか。かつて彼女を異形へと変貌させる原因となった地下研究所の黒幕であった"ジャスティス・レッド"に追われていたときと同じように──すべてに背を向けて、ひっそり消えていくつもりなのだろうか。

(馬鹿だ……お前は、馬鹿だ)

奥歯を噛むジェノスの腹の底から沸々と湧き上がってきたのは、憐憫でもなく、同情でもなかった。
まして殊勝な哀惜でも、悲嘆でも、諦観でもない。

(なんだと思っているんだ)

純然たる、ただの怒りだった。

(──ひとの心をなんだと思っているんだ!)

体のほとんどを機械に取り換えたサイボーグに言わせると、なかなかシュールな台詞ではあったけれど──それでも、ジェノスのその憤慨に嘘は一切ない。

綺麗さっぱり忘れて、真っ新にして、築いてきた繋がりを塗り潰してしまえばいいなんて。
それはその通りかも知れない。
そうなれば、痛みはない。
痕も残らないだろう。
知らないことなど、覚えていないことなど──"たまたま成り行きで助けたことがあるだけの相手"が自業自得でどうなろうと、別にどうだっていいのだから。

(しかし、それで──お前の気持ちはどうなる。自ら孤独になって、それでお前はどうなる。俺に捨てさせた、俺から奪い取ったものを、お前がすべて背負っていくのか。お前だけが──そうやって押し潰されて身動き取れなくなって、どこにも行けなくなって、それでいいのか)

問うまでもなく──それでいいのだろう。
それでいいと答えるだろう。
彼女はずっとそういう生き方をしてきた人間だ。

(ふざけるな。いい加減にしろ。お前がそれでよくても──俺は)

そんな終わり方は、絶対に認めない。
ここまで来て、そんな結末があってたまるか。

体内のエネルギーを、防御システムに総動員する。既に膨大な電圧との拮抗にショートしかかっていた基盤が、耐えきれずに軋む音が聞こえた。頭の内側で響く、限界を訴える悲鳴。このままではオーバーヒートしたパーツが脳に深刻な損傷を与える危険性があった。しかし構わず、ジェノスはヒズミの電撃に全力で応戦する──それはもはやどこか子供じみてすらいる、頑なに曲げられない意地だった。

いよいよ意識を保てなくなり、視界がブラックアウトする寸前、ジェノスが見たのはヒズミの呆然とした顔だった。掌から生じる白煙に唇を震わせて、悲愴感に満ちた、この世の終わりのような表情で──

(……そんな顔を、お前は、しなくていいのに)

許容を超えた熱に思考が混濁して、途切れ途切れに薄れていく。

(お前は俺が守る。なにがあっても。……たとえお前がそれを拒んだとしても、俺は……)



……ジェノスが覚えているのはそこまでだった。翌朝になって彼が"再起動"したとき、なにも覚えていない振りをしたのは──すべて忘却したふうに装ったのは、ほんの当てつけのつもりだった。陰で虎視眈々と協会の動向に目を光らせて、いよいよ彼女に手を掛けようという段階になったら飛んで行こうと考えていた。そのために強化改造した新しいパーツの調整も欠かさず行ってきた。もう清算は済ませたと、後始末は終わらせたと信じきっている独りぼっちの彼女に、自分の愛がどれほど深いものか思い知らせてやれる日を待っていた。

否──この感情を愛と呼ぶには、もう汚れすぎているのかも知れない。彼女が望むと望まざるとに関わらず傍にいて守り抜きたい、同じ道を共に歩んでいきたいなんて、身勝手な執着でしかない。

しかし彼女は、こんな自分を受け入れてくれた。
汚くないし、醜くもないと、言ってくれた。
上っ面だけの諂笑などではない、本心で許してくれた。
復讐に取り憑かれていた人生に光を射してくれた。

二度と手離さない。
絶対に手離せない。

彼女がいなければ、もう、生きていけない。

──それなのに。
どうして。
こんなにも現実は残酷なのだろうか。

ジェノスが己の誤算を悟り、彼女が秘めていた本当の覚悟に気づいたときには──既に永遠の別れの足音は、すぐ背後まで迫っていたのだった。



ヒズミが小康状態に戻ったというので、一旦サイタマは病院を出てZ市に戻ってきていた。ヒズミの着替えやらなにやら、とにかく入用のものが多いので、車で移動するより早く往復できる彼が取りに来たのだ。シキミには既に連絡がついている。今頃はヒーロー協会が手配したタクシーで病院に向かっているはずだ。

(ジェノスのヤツ置いてきちまったけど、大丈夫かな)

ベルティーユがヒズミの件でクセーノ博士の秘密研究所に連絡した際、その通話を聞いたジェノスが血相を変えて転がり込んできたのは小一時間ほど前のことである。ヒズミは記憶操作を施したと言っていたが、どうやら失敗に終わっていたらしい。まあジェノスはサイボーグだし、生身の人間とは勝手が違ったんだろう──とサイタマは適当に納得している。脳の構造がどうとか、小難しいことはよくわからない。

慌てて駆けつけてきた割には大声を出したり暴れたりすることもなく、ひどく取り乱している様子ではなかったので、そのまま彼は病院に待機してもらうことにした。万が一、ということもある──最期を看取ってやる者がいた方がいいだろう、とベルティーユは沈痛な面持ちで語っていた。

廃墟地帯のビル群、その屋上を軽々と飛んで超えてゆき、サイタマは自宅マンションに辿り着いた。ベルティーユに借りた合鍵でヒズミの部屋に入る。ドアを開けた途端にふわりと漂う、すっかり染みついてしまった煙草の匂いが、どこか懐かしくさえあった。

「言われたもん回収して、さっさと戻んねーとな」

感傷に浸りかけた己を奮い立たせるべくそう口に出して、サイタマは三和土に脱いだスニーカーを揃えもせずに上がり込んだ。そういえば下着とかも持っていかねーとだよな、勝手にオンナノコんちの引き出しとか漁っていいのかな、まあ事態が事態だから仕方ねーんだけど気が引けるな──そんな懸念にちくちくと胸を刺されるサイタマだったのだけれど。

廊下を抜けてリビングに足を踏み入れたところで、その必要はないことを察した。

「……なんなんだよ、これ……」

自分の家と同じ間取りの、狭いワンルーム。そこに並んでいたはずの家具一式──テレビ、テーブル、ベッド、キャビネット、衣装箪笥──それらがまるごと、忽然と消失していた。一メートル四方くらいの段ボール箱が数個だけ、物も言わずフローリングに鎮座しているだけだった。

サイタマはふらふらと膝をついて、ガムテープで封をされた段ボールのひとつを開けてみた。ヒズミが好んで遊んでいたゲーム機のハードとコントローラー、その専用ソフトと映画のDVDが数本、丁寧に梱包されて収まっている。その下には漫画の単行本も敷き詰められていて、それらの隙間に中古販売店のチラシが差し込まれていた。

他の箱に入っていたのは、ヒズミの使用していた衣類だった──いや、正しくは"衣類だったもの"だった。肌着から靴下からデニムのジーンズに至るまで、すべて鋏で細かく裁断されている。かつて服飾品であったそれらの布切れが、口を固く結んだ大容量のビニール袋に詰められていて、すぐにでも燃えるゴミの日に出せる準備が整っていた。

あまりにも素っ気ない。
──身辺整理。
そんな単語こそがもっとも相応しいだろう。
志半ばで消えゆく己の生涯を儚むことさえなく、ただ淡々と、遺す者たちに負担を与えないように。
誰にも迷惑を、かけないように。

「……ふ、ざ、けんじゃねーよ、あの野郎」

情けない声で毒づいても、身を切られるほどの殺風景に変化はない。最後に開封した一回り小さな段ボールには、インテリアの雑貨類の他に、A4サイズの茶封筒が眠っていた。ヒズミの字で『ヒーロー協会 諜報部所属 ニーナ・スタラーチェさんに渡してください その後の管理は彼女に一任します』と書かれている。引っ繰り返してみると、見知らぬ人々の写真が十数枚ほど滑り落ちてきた。生まれたばかりの赤ん坊を抱いた夫婦、ヒーロー試験の合格証書を掲げたお世辞にも柄がいいとは言えない金髪の青年、女子高生らしき若者が集まって元気よくピースしているプリクラもある。その誰もが笑顔で、輝かしい未来への期待に溢れていた。

死の淵に立って、この写真を眺めながら、ヒズミはなにを思ったのだろう。

帰るべき場所を自らの手で空っぽにしたあとで、他に誰もいない海に釣り糸を垂らし、空と同じ色をした水平線の果てを見つめながら、彼女はなにを想っていたのだろう。

「…………………………」

床に散らばったそれらの写真を拾い集めようとして──動けなかった。
得体の知れない塊が、不快な熱を帯びて喉の奥に痞えている。
この感情を表す適切な言葉をサイタマは知らない。
知らないから、吐き出すこともできない。

なにひとつ抗えないまま、もうじき訪れるラストシーンまで、ただ流されていくことしかできない。

悲しみと悔しさに吠える彼の慟哭が、静かに暮れゆく空に谺して、しかし誰の耳にも届くことはなかった。