eXtra Youthquake Zone | ナノ





ヒズミが救急車で搬送された先は、協会の運営する病院だった。緊急時には一般の急患を受け入れることもあるが、本来は怪人との交戦で負傷したヒーローを治療するための施設である。深刻な外傷はもちろんのこと、体内で生成した毒素や病原菌を駆使するクリーチャーの攻撃を受けた者を収容することもあるので、そんじょそこらの医療機関より設備は遥かに充実している。

『セント・クラシカル・ネプチューン』号のニュースが大々的に報道されていたおかげで、ヒズミが“ホワイト・アウト・サイダー”その人であることは疑われなかった。ヒーロー協会に彼女の担当医がいるというサイタマの話は、無線通信ですぐに裏が取れたらしく、ことはスムーズに運んだ──のだけれど。

いまだ、ヒズミの意識は回復していない。

現在ICUで医師団とベルティーユが協力して懸命の治療を施しているそうだ。関係者以外は立ち入れないので、サイタマは固く閉ざされた扉の前、薄暗い廊下に備えつけられた待合用のベンチに座って厳しい面持ちで腕をこまねいていた。ドラマのワンシーンを連想させる、胃に穴が開きそうな緊迫感が漂っている。

施術中を示すランプが赤く灯ったまま、かれこれ数時間が経過していた。周囲に時計も窓もないので正確な時間はわからないが、もうとっくのとうに夕方だろう。そろそろシキミが高校から帰ってくる頃だ。彼女は現状をなにも知らない──心配させてしまう。

(……ジェノスには、連絡するべきなんだろうか……)

彼は今頃どこにいるのだろうか。買い出しにでも出掛けているのか、はたまた日課のトイレ掃除でもしているのか──ただひとつ確信できるのは、彼の頭に今ヒズミのことは欠片もないであろうということだけだ。

(ヒズミの顔も名前も、アイツは覚えてる。ヒズミに惚れた腫れたしてたって感情のアレだけが消えてるんだ、多分……電気の力だかなんだか知らねえが、器用な真似しやがって、あの馬鹿野郎)

舌打ちを零して、サイタマは目を閉じる。いろいろなことがありすぎて、頭が痛い──怒涛の展開に、うっかり置いていかれそうになる。

いっそ、このまま眠ってしまいたい。
目が覚めたら、そこは自宅の布団の中で、シキミの用意してくれた朝食があって、ジェノスとヒズミがいつものように素っ頓狂な漫才をしていて、すべては夢だったのだと安堵に胸を撫で下ろす──そんなくだらないオチだったら、どんなに救われることだろうか。

サイタマの報われない現実逃避から、程なくして──決着を告げるように、音もなくランプの光が消えた。



「目には目を、歯には歯を」という有名なフレーズがある。これは古代に栄えた大国の王が発布した法典より引用された文面であるというのは広く知られている話だが、その言葉が真に意味するところは意外と浸透していない。

本来これは「自分が受けた仕打ち以上の復讐をしてはならない」と人の怒りを諌めて戒める掟であり、決して「やられたらやり返せ」などという攻撃的な精神を肯定するものではないのだ。昨今の世の中では後者の誤った解釈が主流となっているが、しかしそれも致し方のないことなのかも知れない。他者への怨嗟、嫉妬、侮蔑、嘲笑──それらの黒い思惑が絶えず渦巻く社会である。十人十色の邪気に満ちた世界である。

己の身を守るためには男も女も、小学生も大学生も、サラリーマンもOLも、専業主婦も年金暮らしの年寄りも、それぞれの武器を手に死にもの狂いで戦わねばならない。卑劣な悪に打ち勝つには、同等か、もしくはそれ以上の手段を用いねばならないのだ。敵前逃亡は死を意味する。民主主義とは名ばかりだ。木の棒で殴り合っていた原始時代から、およそヒトという生き物は成長を見せていない。

だからこそ、いくら正義という大義名分を翳そうと、綺麗なままでは勝利を掴めない。力を得るためには相応に手を汚す必要がある。文明の進化に伴い整備されてきた法律と、その使者たちの監視を掻い潜って、極めて黒に近いグレーゾーンを綱渡りしなければならない──平和のために作られた協定に、平和のために背かねばならない。先進国家がこぞって核兵器の抑止力と銘打って核兵器を製造しつづけているのと同じ、そんな針鼠のジレンマこそが、この秘密研究所が秘密研究所たる所以なのだった。

「新たに換装したパーツの具合はどうじゃ、ジェノスよ」

クセーノ博士の問いに、ジェノスは簡潔に「問題ありません」とだけ答えた。近未来的な設備の整ったラボラトリーの内部は、サイエンス・フィクション作品に登場する宇宙船にも似ている。やや雑然としている印象は否めないが、手厚くもてなさねばならない客人がやってくるような空間でもない──自分たちの足の踏み場が確保できてさえいれば、それで事足りるのだった。

「オヌシが持ち帰ってきた、あのパーツ──機神ヅシモフとか言ったか。ワシの方でも調べてみたが、出処がいまいち判明せん。なにか陰謀のようなものを感じるんじゃが……」
「俺も探りを入れてみましょう。しかし最強と謳われるヒーロー、S級のキングを名指しで狙いに来るような輩です。まともではないでしょう」
「あまり危ない橋を渡るでないぞ、ジェノス」
「承知しています。……善処します」

はぐらかしながら鉄面皮を崩さないジェノスに、クセーノ博士はやれやれと嘆息を漏らした。機神ヅシモフの残骸を担いで「俺に利用できるパーツがあれば」と頭を下げてきたあのときにも言ったが、彼はどうにも若さに振り回されている節がある。冷静沈着で頭脳明晰、なるほど非の打ちどころのない青年ではあるが、年相応に感情に突き動かされる場面も多い──勢いで突っ走って取り返しのつかないことになってしまわないかと、それだけがクセーノ博士は心配なのだった。

「……とりあえず、定期メンテナンスはこれで終わりじゃ。ご苦労じゃった」
「ありがとうございました。博士」
「今日も協会本部へ行くのか?」
「そのつもりです──『セント・クラシカル・ネプチューン』号の件が、まだ完璧には片づいていませんので。公式に「過激派の武装集団によるテロ行為だった。彼らは爆破の直後に救命ボートを強奪して逃走したと見られ、その足取りは現在まだ捜査中である」との会見は開かれましたから、一段落といえば一段落なのですが……肝心の犯人グループに直結する手掛かりが見つかっていません。現場が海の上ということもあって、目撃情報が期待できませんから、虱潰しに追っていくしかない。上空から撮影していたジャーナリストの映像を買収して解析班が隅々までチェックしたそうですが、暗くてほとんど映っていなかったとかで……消耗戦ですね」
「難儀じゃのう。無理をするでないぞ。例の師匠や、あの白髪のお嬢さんも乗っておったそうじゃが、元気しておるのか?」

ジェノスに背を向けてアーム・ロボットの冷却作業をしていたので、クセーノ博士は彼の表情の変化を見ていなかった──黙々と己のボディを構成するマシン類の動作を記録した資料に目を通していた彼の手が止まったのも、見ていなかった。

「……ヒズミはもとより、指名手配中の身でしたから。今はどうしているのか──まだ正式に罪人として連行されたという話は聞いていませんので、本部に拘束されているものと思いますが」
「それならオヌシ、こんなところで油を売っていてよいのか? ただヒーロー協会に害を及ぼす怪人になるかも知れないというだけで、そんな扱いを受けているんじゃろう? 助けに行かんでよいのか」
「俺は──ずっと、そのつもりでいましたが」

そこで言葉を不自然に切ったジェノスに、クセーノ博士はやっと振り向きかけて──鳴り出した電話の着信音に会話を阻害された。広い研究所のどこにいても聞こえるよう、最大音量に設定してあったベルが、けたたましく騒いでいる。この番号を知っているのはごくごく限られた人間のみで、その全員に「ここには緊急時のみコールしてくれ」と伝えている──その回線が、今、エマージェンシーを告げている。

キャビネットの端に鎮座していた子機を手に取って、クセーノ博士が通話に応じた。

「……ワシじゃ。……おお、ベルティーユ教授。ご無沙汰じゃな」

クセーノ博士が発した名前に、ジェノスは目線を上げた。

「どういったご用件で……なに? ……ああ、わかるとも、あの白髪のお嬢さんじゃな? 彼女がどうかしたのか? なにかあったのか? ……、…………倒れた?」
「……………………、」
「それで今は──意識不明? 危篤状態? そんな、一体どうして……そうか……そうじゃったのか。なんという……すまん、しばらく会っておらんかったでの、驚いてしまった。ワシにできることは……そうか。残念だ。……ジェノスか? ジェノスなら──」

その瞬間、ものすごい物音が響き渡った。受話器を取り落としそうになりながら、反射的に背後を振り返ったクセーノ博士の視界に飛び込んできたのは──床に散らばった大量の資料と、さっきまでジェノスが座っていたパイプ椅子が豪快に引っ繰り返っている、なんとも荒れた光景だった。

「……今しがた、飛び出ていったぞ。ああ、……うむ。そうじゃ……この電話を傍で聞いていた。……なに? それはどういう意味じゃ? 奴さんの惚れた相手が命の危機だというんじゃから、すぐに向かうのは当然じゃろう? 教授、そのために電話をよこしてきたのではないのか? ……は? 電流……記憶操作? それはどういう……、………………」

憔悴しきった様子のベルティーユから事の次第を聞きながら、クセーノ博士は眉間を指の先で揉んだ。

「そうか、……死期を悟って、……ジェノスに傷を残すまいと……大したお嬢さんじゃな。優しい子じゃ。しかしジェノスは戦闘に特化したサイボーグじゃ。ジェノスの体には、あらゆる物理攻撃への対策を講じてある──“外部からの擬似神経回路への介入”とて、その例には漏れん。脳を保護する強化プレートに、高熱や高圧電流などの過負荷に対する防御システムを構築してある」

スピーカーの向こうから、ベルティーユが息を呑む気配がした。
その声にすべてを察しながら、クセーノ博士は天井を仰いだ。

「人並みに恋などして、あれは随分と──嘘をつくのが上手になってしまったようじゃな」