eXtra Youthquake Zone | ナノ





青く晴れ渡った空を、薄い雲が流れていく。小春日和の涼しい風が海面を撫でて、静かな波を立てた。どこか遠くから汽笛が聞こえるが、水平線に船の影は見えなかった。

波止場のテトラポットに腰を下ろして、ヒズミは黙然と釣竿を握っている。無地の黒いTシャツにジーパンという色気のない恰好で、鍔のついたキャップを被って直射日光を遮っていた。先端を水中に沈めた細い糸に動きはない。傍らに置いたバケツも空っぽのままで、釣果がいまいちであることを物語っていた。くわえ煙草の紫煙がゆらゆらと漂って、潮の香りに満ちた空気に広がって溶けていく。

「……釣れるか?」

背後から割り込んできた声に、ヒズミは振り向かなかった。その正体が誰であるか、確認せずともわかったからだ。

「全然。先生が潜って銛で突いた方が早いかも」
「水着持ってくりゃよかったな」

他愛ない冗談に笑って、サイタマはヒズミの隣にしゃがんだ。襟のついた半袖のジャケットに、白い七分丈のスキニーパンツを履いている。引き締まった足首は少し日に灼けていて、夏の残り香を感じさせる。

「今日ちょっとオシャレだね、先生。どうしたの?」
「こないだシキミに選んでもらった」
「へえ、さすが女子高生。センスがあるなあ」
「本当にな。俺にゃ服のことはわからん」
「それは奇遇だ。私もだよ」

吸殻をエナジードリンクの空き缶に落として、ヒズミはなにげなく竿を上げた。見てみると、針につけていた餌が綺麗さっぱりなくなっている。あちゃー、と顔を歪めつつヒズミはリールを手繰った。

「あーあ、バレてやんの。いつの間に」
「下手くそだな、お前」
「やかましいやい」

ヒズミは悔しげに口を尖らせて、新しい釣り餌──オキアミと呼ばれる小さな海老を針に刺し込み、再び大海原に投擲した。ささやかな波紋が生まれて、すぐに凪いだ。

「いつからやってんの?」
「さあ。二時間前くらいじゃないかな」
「暇なんだな」
「否定はしない。昨日のゴタゴタで協会本部が大変なことになってるから、検査どころじゃなくてね……明日にするってさ」
「お前が戦ったんだろ? なんか頭おかしい変なヤツと」
「ひでえ言い種だな……戦ったってほどのことはしてないよ。捕まえらんなかったし」

魚を誘うふうに手元をちょいちょいと揺らしながら、ぼんやりとした口調でヒズミは言う。

「昨日帰ってこなかったのは、そのせいか?」
「あー、うん。そんなとこだよ。協会に泊まった」
「本当にそうなのか?」
「……なにが?」
「お前、俺たちになんか隠してるだろ」

もはや疑問形ですらない。なんの変化もないストレートの豪速球で突っ込まれて、ヒズミが一瞬ぎくりと硬直したのを、サイタマは見逃さなかった。

「ジェノスとお前、どうしたんだよ」
「別に、なんにもないよ。私のダーリンは最高カッコいいっちゃ。あんまりソワソワしないでほしいっちゃ」
「適当なこと言ってると殴るぞ。マジで」

怒気を孕んだサイタマの言葉に、ヒズミは顔を上げた。帽子に影を落とされているせいか、その眼差しはひどく陰鬱に濁ったもののように見えた。

「……それ聞いちゃう?」
「当たり前だろ」
「見て見ぬ振りができてこそ一人前のオトナってヤツなんじゃね?」
「そんじゃあ俺は子供でいいよ。一生ガキでいてやる」
「年上にそんな宣言されてもなあ……」

困ったように息を漏らして、ヒズミはリールを一気に巻いて釣竿を引いた。バケツに溜めていた海水も流してしまう。

「まあ落ち着いて、ゆっくりメシでも食いましょう」
「そんなんでごまかされねーぞ、俺は」
「そういうんじゃないって。腹が減っては戦できませんでね」
「……さいですか」
「近くに鉄板焼き屋があってさ。ずっと行ってみたかったんだけど、なかなかお一人様じゃあね……」
「ジェノス誘えばよかったじゃねーか」
「……本当にね。もっと早く言えばよかった。もっと勇気出せばよかった……」

含みありげに呟いて、ヒズミはプラスチックの薄い容器に残っていたオキアミを「ていやっ」という掛け声とともに勢いよくばら撒いた。赤い塊が重力の法則に従ってぼたぼたと海に落ちて、飛沫を上げて、ゆっくり見えなくなった。

「もったいねーな。買ったんだろ? それも」
「私のお金で、お魚さんが大きく育ってくれることを祈ろう」

釣具一式は歩いて五分ほどの立地にある古びた民宿でレンタルしたものだという。受付でテレビを見ていた高齢のご婦人との雑談もそこそこに返却の手続きを済ませて、ヒズミとサイタマは目的の店に連れ立って向かった。鉄道路線の通っていない地域であるせいか、自動車の交通量が多い。忙しなく行き交う大小さまざまの四輪が喚き散らすエンジン音がひどく喧しかったけれど──あまり二人の会話が弾まなかったのは、そのせいだけではなかっただろう。

余計な装飾の施されていない和風の店構えはやや素っ気ない雰囲気だったが、それが逆にサイタマには好印象だった。ごてごてと客引きの看板なんかを立てている食堂に限って、味が微妙だったりする。過剰に存在を主張しないのは料理に自信がある証拠だ。自分もそういう人間でありたい、と常々思うのだった。

中央に鉄板の填め込まれた各テーブルの間には木で組まれた仕切りが立てられていて、他の席から覗かれない個室風の造りになっていた。ゆっくり腰を据えて食事をするにはいい。掘り炬燵の様式になっているのも、おいしい食事を堪能しながら寛ぐにはもってこいだった。

「なに食べる?」
「うーん、どうしよっかな。先生は?」
「俺は豚玉でいいよ」
「スタンダードですなあ」

さして悩まずヒズミが注文したのは海鮮もんじゃだった。さっき釣れなかった仕返し、とのことらしい。一体どこの誰に対する仕返しなのかは定かでなかったが、サイタマは深く言及しなかった。

運ばれてきたタネを互いに焼きながら、しばらく無言が続いていたが、口火を切ったのはヒズミだった。

「シキミちゃん、今日は学校?」
「おう」
「大変だよねえ、ヒーローやって学生やって」
「そうだな」
「マジで尊敬するよ。若いってすごいわ」
「お前も大して変わんねーだろ」
「女子高生には敵いませんで」

小さな箆でもんじゃを均しながらヒズミが嘯く。食欲をそそる香ばしさがサイタマの鼻腔をくすぐるが、呑気に談笑と洒落込んでいる場合ではないのだった。

「ところで、さっきの話の続きだけどよ」
「びっくりするほど急に話変えるね、先生」
「お前が言い出さねーからだろ。なにがあったんだよ、ジェノスと」

器用にお好み焼きを引っ繰り返しつつ、サイタマはあくまで軽佻浮薄な態度のヒズミを睨む。

「……船の上でさ、私がヴァルハラ・カンパニーの人にしたこと覚えてる?」
「あの電気で脳をどうこうってヤツか?」
「そう、それそれ」

程よく焦げ目のついた帆立を口に運んで、おいしそうにもぐもぐ咀嚼して、ヒズミは続ける。

「記憶を操作したりとかもできるのかって訊いたじゃん、先生」
「そうだったか?」
「自分の言ったことくらい覚えててよ……んで、そんとき私できなくはないって答えたじゃん」
「おう」
「ジェノスくんもさ、体はサイボーグだけど、普通の人と同じ脳あるわけじゃん」
「……おう」
「改竄できちゃうんだよね、全部」
「……お前、まさか」

腹の底から湧き上がった悪寒に、思わずサイタマの手が止まる。

「まさか、あんなふうにブッ倒れるとは思わなかったけど」

なにを──
なにを言っているんだ──この白髪頭は。

「──なんで、」
「もうすぐ死んじゃうんだってさ」
「だ、れが」
「私が」

今度こそ怖気が立った。ひゅっ、とサイタマの喉から細い息が抜ける。

「な──ッ、なんで、お前、嘘だろ」
「教授に聞いてみるといいよ。脳内物質がどうとか、詳しく教えてくれると思うから」
「それ──ジェノスは」
「知らないんじゃないかな。言ってないし。言わないでくれってお願いしてるし」
「ばっ……か、野郎、お前そんな、こと、ジェノスが知ったら──」
「ジェノスくんが知ったら」

サイタマの台詞を遮って、ヒズミは同じフレーズを繰り返した。淡々とした常温の口振りが、却って凍りつきそうなくらい冷たく感じられる。

「どうなると思いますかね? 先生」
「そ──れは」
「ジェノスくんさ」

ふっ、と口角を嫌な感じに吊り上げて、ヒズミは笑った。

「私のこと好きだったじゃん」
「………………」
「大好きだったじゃん」
「自分で言うなよ」
「いきなりまともなツッコミ入れてくるのが先生らしいな……まあいいや。それは置いといて……とにかく、ジェノスくんは私のこと愛してくれてたんだよね、本当に。心の底から真っすぐに」
「それがわかってんなら──どうして」
「それがわかってるから、こうしたんだよ」

鉄板の上で踊る鰹節を箸でいじりながら、ヒズミは視線を伏せる。

「故郷ごと家族も友達も不条理に奪われて、ひとりぼっちになって、ずっと苦しい戦いの中で生きてきて、その果てにやっと出会えた大事な人がいて、今度こそ俺が守ってみせるって決めたのに、その人が自分のどうにもできない理由で死んじゃったとしたら、どうなると思いますかね、先生」
「……………………」
「私、ジェノスくんにそんな思いしてほしくない」

自分の無力さゆえの悲しみに暮れないでほしい。
もう二度と──孤独に囚われないでほしい。

「こんなにもくだらなくて、みっともない私のせいで、そんな思い、してほしくないんだよ」

搾り出されたのは──紛れもなく、ヒズミの本音だった。
彼が気の狂いそうな自責に溺れるくらいなら。
自分だけが真実を思い出として抱えて、絶えればいいと。

「恋してる脳って、ビョーキみたいなもんなんだって。ドーパミンとかセロトニンとかが満ち溢れて、正常じゃなくなるんだって。ドキドキしたりとか、爽快な気分になったりとか、全部そういう物質のせいなんだって。それだけだって。それだけなんだって。馬鹿みたいだよな。おかしいよな。愛なんてさ、とことん突き詰めていったら、所詮そんだけのしょーもないもんなんだって。状態異常なんだよ。コンフュだよ。メダパニだよ。そんなの治った方がいい──全部なくなった方がいいに決まってんだろ」
「本気でそう思ってんのか、お前」
「本気でこう思ってたら、わざわざ帰ってこないよ」

殺伐とした血眼で自分を追っていた人々に捕われるかも知れない、殺されるかも知れない危険を冒してまで彼のもとに舞い戻ってきた。

すべては──
彼に傷痕を刻まないように。
彼に遺恨を植えないように。

それだけの。
たったそれだけの見栄と意地と矜持で。

己に与えられたわずかな残り時間を、まだ見ぬ彼の未来に費やすことを決めた。

「理屈じゃねーんだよ、人と人の繋がりってさ」

ヒズミの手から滑り落ちた割り箸が、床に落ちた。それを拾おうともせず、前髪をくしゃくしゃと握り潰すようにして、ヒズミは額を押さえて項垂れる。

「……ああ」
「こんなの言葉で説明できるもんじゃねーんだよ。納得できるもんじゃねーんだよ。なあ、先生、そうだろ」
「ああ。わかるよ──俺だってそうだ」
「そっか……先生は……そう、そうだったねえ。シキミちゃんと末永くお幸せに」
「……本部、行こう。ヒズミ」
「……………………」
「教授のところ、行こう。俺も一緒に話、聞くから──」

言いかけたサイタマがそこで口を噤んだのは、ヒズミに対して遠慮したからではなかった。怖じ気づいたのでも、まして気圧されたのでもない──ただ純粋に、驚愕によって思考が停止しただけだった。

俯いたヒズミの、骨と皮しかない手首──そこを鮮烈な赤を湛えた液体が伝っているのに、呼吸さえ忘れるほど青褪めたからだった。

「ヒズミ、お前──どうし」

ぐらりとヒズミの上体が傾いて、座敷に倒れた。その拍子に顔を覆い隠していた掌が外れて、鼻孔からおびただしい量の血が溢れているのがサイタマの眼前に晒される。かろうじて目は薄く開いているが、完全に焦点が合っていない。

「お──っま、ふざけんじゃねえぞ! おいッ!」
「せ、んせ……せん……わ、わた、せんせ」
「喋んな馬鹿、ッちくしょ──」

そこへ物音を聞きつけた若い女性店員が駆けてきて、明らかに様子のおかしいヒズミを見て短い悲鳴を上げた。口元を押さえて固まっている彼女に、サイタマは形振り構わず怒鳴った。

「おい、アンタ、早く救急車!」
「え──あ、あっ、」
「早くッ!!」

弾かれたように店員が引っ込んでいったのを見届けて、サイタマはテーブルを踏み越えてヒズミの傍らに膝をついた。行儀の悪いことこの上なかったが、事態が事態だけに、さすがに仕方がない。自らの血で衣服を濃い紅に染めながら、ひゅうひゅうと頼りない呼吸を繰り返しているヒズミは──本当に、今にも──

(マジで死んじまいそうじゃねーかよ、コイツ……!)

一般客が騒然となりつつある店内の異様な空気を肌で感じながら、サイタマは奥歯を噛みしめる。なにもできない。できることがない。いつかあの山奥の研究所で、瀕死の重傷を負ったシキミをその腕に抱きかかえたときと同じ──吐き気すら催すほどの絶望感。

「やめろよ……おい、やめろって、なん……なんで──」
「……せん、せ」
「──っ、どうした、痛いのか? もうすぐ救急車が」
「ご、めん、なさい……」

はっきりと。
聞き取れた。

「……ッ馬鹿野郎……!!」

呻いた怒声に籠められていた感情の正体を、サイタマ自身さえも正しく把握できぬまま。
無情に──ヒズミの白い髪が、哀しい赤に濡れていく。