eXtra Youthquake Zone | ナノ





ヒズミの診察結果は、今日も相変わらず芳しくない。ありとあらゆる数値が異常で、まともな働きを維持できている器官の方が少ないくらいだった。常人ならばとっくに墓の下だろう。彼女が帰還してから数度ほど同じ検査を行っているが、一縷の望みも虚しく現実は変わらなかった──否、日を重ねるごとに、確実に悪化の一途を辿っていた。

ベルティーユは嘆息を漏らして、ヒズミを待たせている診察室に戻った。彼女はいつものようにスチール製のデスク脇のスツールの上に胡坐を掻いて、気怠そうに背中を丸めている──が、表情は明らかに普段のそれではなかった。

背筋に冷たいものが走るほど、鋭く細められた青い双眸。警戒心を剥き出しにして、肌に刺さるぴりぴりとした空気を放っている。

「……どうかしたのか? ヒズミ」

後ろ手にドアを閉めて、ベルティーユはそう訊ねた。ヒズミは血色のよろしくない唇を小さく動かして、逆に聞き返してきた。

「今日って、ヒーロー協会でなんかやってるんですか?」
「? それはどういう意味だい」
「嫌な感じがします。なんていうか……澱んでる。変なのが近くにいる匂いがします」

ヒズミの台詞に、ベルティーユは一瞬だけ眉を顰めて、それから得心いったふうに首を縦に動かした。

「ああ、今日はな……『地球がヤバい予言緊急対策チーム』のリーダーに任命されたシッチ氏が、七階の多目的ホールで集会を開いている」
「集会──」
「裏社会で暗躍する殺し屋や賞金首などのアウトローどもを招いて、今後より激しさを増すであろう大災害や強力な怪人との防衛戦争に協力を要請するということらしい」

ヒズミはさして驚いた様子も見せず、そういうことですか、と頷いただけだった。

「犯罪者にまで頭を下げるなんて、よっぽど切羽詰まってるんですねえ」
「操縦のできない危険因子を懐柔するなんて無理だという反対意見も多かったのだが、シッチ氏は頑として聞き入れずに強行したらしい。今どうなっているのかは知らないが、相応に揉めているんじゃないか」
「……揉めてる、で済む程度の騒ぎならいいですけど」

ヒズミの正面に腰を下ろして、ベルティーユは手癖で眼鏡のリムに触れる。目線を少し上げて、ヒズミの顔を窺った。口調こそ軽いが、決してへらへらと笑ってはいない。なにかを──首を擡げつつある災厄の気配を確信しているようだった。

「君の直感は信じるに値する。用心しておこう」
「買い被りですよ。……まあでも実際、お師匠さんと旅しながらいろんな事件に首突っ込んだお陰で、怪しい人とか危ない物事に対する鼻は利くようになりましたね。戦ってるうちに発電量も上がりましたし……どうもそれがいいことじゃなかったみたいですが」

自嘲気味に口の端を歪めたヒズミに、ベルティーユは睫毛を伏せた。

「君の命は、必ず救ってみせる。どんな手を使ってでも」
「あんまり無理に背負わないでくださいよ、教授」
「無理などではない。君の肉体を衰弱させているのは、君自身の脳内物質だ。血中に溶けて全身を巡り、君の特殊な細胞と化学反応を起こして電気エネルギーへ変質する未知の成分──それが過剰に分泌されているせいで、体組織に凄まじい負荷をかけている。これまでにも感情の起伏でその脳内物質が激増することはあったが、投薬によって抑えることができていたんだ。現在は今までにないレヴェルの暴走を起こしているが……従来の方法では追いつかないほど君の脳や臓器を蝕んでいるが、それでもなんとかする。それが医師としての、私の使命だ。絶対に私が君を生かしてみせる」
「……ありがとうございます」
「礼は不要だ」
「頼りにしてますよ」
「……ああ」

ベルティーユにはわかっている──ヒズミが本心からそう言っていないことは、痛いほど理解できている。

彼女の曖昧な微笑みは、すべて手離すことを受け入れた、一切合切の未練を捨てた者にしか浮かべられない悲しみを含んでいる。なにもかもが無駄な努力だと悟りながら、しかし制止はしない。

途中で足掻くのをやめさせられることが、希望の在庫を一掃されることが、ただ遺されるしかない相手にとってどれほどつらいかを知っているからこそ──いかほど悔しいかを識っているからこそ、エンドロールが流れるその瞬間までは、ともに打開策を探そうとしている──未来を求める、振りをしている。

(まったく、かわいげのない子だ。最期の最期まで、わがままを言わないんだな。……君は)

息苦しさを押し殺して。
物悲しさを噛み潰して。
心寂しさを呑み込んで。

そうして──彼に、別れも告げずに。
ただ黙って去ろうというのか。

「……ジェノス氏が、昨日ここに来たよ」
「そうですか。元気でした? 船の実況検分が長引いて、サイタマ先生とシキミちゃんと一緒に工場で強制一泊させられたってヴァルゴさんから聞きましたけど」
「ああ。それが終わって、今はマンションに戻っている。昨日は君も自宅にいたんだろう? 会わなかったのか?」
「いやあ、昼間は引き籠って部屋の掃除してたんですけどね。一段落したところで逃亡中に読みそびれてた単行本でも読もうと思って漫画喫茶に行ってたんですけど、夢中になっちゃって知らない間に一晩明かしてたんですよ、あはは。そのまま直で本部に来たんで、帰ってないんです。擦れ違っちゃいましたね」
「そうかい……」

なんて下手な言い訳だと──思った。
会いたくないから、顔を合わせたくないから、そうやって離れたんだろう?
またしても──君は“逃げた”んだろう?

しかし、そんな叱咤を突きつけられるわけがない。
誰だって、大事な人の傷つくところは見たくない。

ましてや自分のせいで、消えない痕が残ってしまうなんて。

絶対に、耐えられないだろう。

「本当にそれでいいのかい、君は」
「なにがですか?」
「愛する者に忘れられて、築いてきた関係が全部なかったことになって、本当にそれでいいのか」
「……ちゃんとなかったことにできてるかどうか、自信ないんですけどね」

指先で顎を摩って、ヒズミは引き攣った苦笑の仮面を貼りつけた。

「あの夜、ジェノスくんの脳に干渉……側頭葉と偏桃体っていうんでしたっけ? お師匠さんに教わったんですけど、難しい話だったんで忘れちゃいました。とにかく記憶と感情を繋いでる回路のアレを操作しようとしたら、いきなりショートしちゃったんで。力加減は間違えてなかったはずなんですけど……ジェノスくん演算チップで脳の処理能力を強化したりとかもしてたみたいなんで、そういうに引っ掛かっちゃったのかも知れないです。教授がすぐに調べてくれて「どこにも損傷はない、異常はない」って言ってくれて、正直すごいホッとしたんですよね」
「……………………」
「次の日──ジェノスくんと喋るの、怖かったんですけど」



おはよう、ジェノスくん。
ああ。
倒れたって聞いたけど、大丈夫?
まったく問題ない。
そっか。それならいいや。
お前もこれから検査だろう。
そうだよ。お偉いさん待たせてるから、早くしないと。
お偉いさん?
体が大丈夫そうなら、昨日の取り調べの続き、するんだって。
そうか。
……うん。
俺もこれから、船の実況検分だ。先生とシキミがこっちに来ているらしい。合流したら、すぐに出る。
へえ、がんばって。無理しないようにね。
お前にそんな心配をされる義理はないな。
そうだね。ごめん。
別に構わない。いちいち謝るな、面倒だ。鬱陶しい。
うん、そうだね。……ごめんね。



「……ちゃんと“忘れて”くれてるみたいで、安心しました」

朗らかに取り繕った口振りでそう言うヒズミの本心が、ベルティーユには読み取れない。

「サイタマ先生には電撃なんて効かなさそうだし、シキミちゃんは変なことしたら先生にブッ飛ばされそうだし、ハイジくんは脳の構造が普通じゃないから簡単にはどうこうできそうにないし……まあ、私が直接バリバリしなくても、時間が経てばなんだって思い出になります。まともなお墓も立たないでしょうから、私の顔どころか名前も思い出せなくなるの、早いんじゃないですかねえ。ハイジくんは賢いから、わかんないですけど」
「……君は」

ベルティーユが口を開きかけた──その瞬間。
けたたましい大音量の警報が辺り一帯に鳴り響いた。

エマージェンシーを知らせるサイレンが──空間ごと引き裂くように。

「──……!? なにが──」
「……やっぱりトラブったっぽいですね。七階でしたっけ」

躊躇いなく椅子から降りたヒズミに、ベルティーユはレンズの奥の目を剥いた。

「ま、待てヒズミ! 君が行かなくとも、本部施設に居住しているヒーローたちが──」
「まだ完成してないんでしょう? 生活環境が整ってるのは一部だけで、移住済みなのはせいぜい十数人くらいって聞きましたよ。ちょっと心許なくないですか」
「そ──それは、しかし……!」
「脱走犯を見逃してくれたヴァルゴさんに、生きてるうちに恩を返さないといけないんで」

それだけ言い残して、ヒズミは診察室を飛び出ていった。ほどなくしてこの緊急事態は収束することになるが、召集された凶悪犯たちは全員が重傷を負って病院に搬送され、シッチの護衛に就いていたA級ヒーロー数名も長期間の戦闘不能に陥るという最悪の結末となった。

しかしそれ以外に被害が出なかったのは──狂気の沙汰としか例えようのない大暴れをしてのけた自称“怪人”の男が、自らの鮮烈なデビューショウと豪語して繰り広げた惨劇が拡大しなかったのは、とある彼女の功績と断定してもよかった。そいつを捕縛しようと殺到した協会員やヒーローたちを庇いながら戦い、ただひとつの擦過傷すら与えさせないままそいつを撤退させられたのは、他ならぬ彼女の──ヒズミの働きによってもたらされた幸運だった。

自称“怪人”のそいつはもとより破壊行為を続ける気はなかったらしく、素直に引き下がっていった。ヒズミも大した怪我を負うことなく、状況は終了した──のだけれど。

予期せぬ交戦、想定外の放電──それらの行動は、既に限界を迎えつつあった彼女を更に衰弱させていくことになる。