eXtra Youthquake Zone | ナノ





研究室から客間へ足を運んだベルティーユを出迎えたのは、テーラード・スーツに身を包んだ実年の男性だった。羆のように恰幅がよく、白髪混じりの頭をしているが、雰囲気は上品な紳士そのものである。蓄えた口髭からは風格が溢れ、濃い灰色の瞳からは知性が滲み、賢者を思わせる貫禄があった。カウチ・ソファから巨体を持ち上げ、恭しく礼をして、ベルティーユに歩み寄る。

「お待たせしてしまって申し訳ない。緊急の入電があったものでね」
「いや、構わないよ。むしろ謝るのはこちらだ。なにせアポイントメントが急だったからね、お会いできただけでも光栄さ。ベルティーユ教授」
「あなたの寛大さに感謝を表するよ、グレーヴィチ氏」

グレーヴィチと呼ばれた彼はベルティーユの言葉に笑みを浮かべてみせ、気さくに握手を求めた。ベルティーユも快く応じる。

「君が就いている“ホワイト・アウト・サイダー”絡みの任務について、私にも協力できることがあればと思ってね」
「それは心強い。バイオロジーの権威であるあなたの力が借りられるとなれば、忌むべき反逆者の足取りもたちどころに掴めることでしょう」
「それは買い被りというものだ。私の専門は主に細胞生物学、発生生物学だよ。ヒトの心象を読むことに関しては、君の方が造詣が深いだろう」
「身に余る賞賛だ。今後の研究の糧とさせていただくよ」

嫣然と口角を上げて、ベルティーユはグレーヴィチと共に部屋を出た。上階に位置する研究室へ向かうべくエレベーターを目指しながら、世界的に高名な学者である二人の会話は続いている。

「あなたがこの国に研究所を造ったのは、七年前だったかな」
「ああ。他国に類を見ない怪人の出現が確認されて、その究明に乗り出した。あの異形は新種の生物なのか、それとも人類の進化形なのか──母国を離れてでも研究する価値があると思ってね。その他にも大きな目的があったし、この選択は正解だったと思っているよ」
「他の目的──ですか?」
「ちょっとした、野望のようなものさ。私がひとりの人間として成し得たい悲願を成就させるための手がかりがこの国にあったから、それを追い求めて来た、という裏もあるんだ」
「実に興味深い。詳しくお聞かせ願いたいね」
「それについてはまたいずれ、じっくりお話させてもらおう。あなたの意見も聞きたいと思っているんだ。なにせ一世一代の代々的プロジェクトだからね──あなたなら、きっと賛同してくれるだろう」
「その日が来るのを、楽しみにしています」

歓談もそこそこに二人はエレベーターを降りて、ワンフロアまるまる使い切って貸し切ったベルティーユの所有スペースのうちのひとつ、最新鋭のプロセッサを搭載した巨大なスーパーコンピュータの設置された一室に入った。そこで作業をしていた人物が、ドアの開く気配に振り返って──彫りの深い精悍な顔立ちに、弾けるような、人懐っこい笑顔を輝かせた。

「あっ、教授! お疲れ様です!」
「おやおや、ハイジ。使用中だったか」
「うん、暇だったからさ、1クロックで可能なベクトル演算の量を増やす改良ができないかどうか試してたんだ。並列度の向上とか、もっと高性能なスループットとか……あ、ごめん、勝手に盛り上がっちゃって。お客さんいるのに」
「いいや、是非じっくり聞きたいところだ。アーデルハイド君」
「? 俺のことを知ってるの?」

きょとんとしているハイジの肩に右手を乗せて、グレーヴィチは感慨深げに頷いている。

「知っているとも。君は我々の業界では、隠れた有名人だからね」
「えっ? そうなの? 教授」
「私の与り知らぬところではあるが、そうらしいな」
「ずっと会いたいと思っていた。嬉しいよ。私はグレーヴィチという者だ。以後よろしく」

その名乗りに、ハイジは火を見るよりも明らかに驚いて、そして急に畏まった。気をつけの姿勢になって、がちがちに表情を強張らせ、全身に緊張を走らせる。

「あ、あなたがあの有名なグレーヴィチ博士かい──あ、じゃなくて、グレーヴィチ博士なんですか! 最新の論文、俺、読みました! “脳領域における中枢神経組織の多様なニューロンの秩序的発生について”──すごかったよ! とっても面白かった! 分子制御メカニズムとか──パターン形成機構解析の新しい扉が──」
「その辺にしておきたまえ、ハイジ。彼も困っている」
「あっ、ご、ごめんなさい! 俺なんだか興奮しちゃって」
「いいんだ。君のように若く賢い子が、発展途上の生物学に興味を持ってくれている。それだけで人類の将来は明るい。その調子で、どんどん吸収したまえ──その全宇宙で最も優れた頭脳を、もっともっと進化させたまえ」

尊敬する先達に褒められたことで、ハイジは有頂天になっているようだった。頬を赤らめ、寝癖のように無造作に逆立った銀髪頭を掻いている。見かねたベルティーユが薄く笑いながら「そこまでだ」とその間に割って入った。

「悪いが、我々にも我々の仕事がある。ハイジ、すまないが、ドロワットを呼んでコーヒーを淹れてきてもらってくれ。本部の強化改築会議に出させていたが、そろそろ終わっているだろう。探してきてくれないか」
「わかった。行ってくるよ。一方的に喋っちゃってごめんね」
「好奇心旺盛なのはいいことだ。また今度、機会があればゆっくり話したまえ。いいかい? グレーヴィチ氏」
「ああ。こちらからも是非お願いしたい」
「ありがとう! じゃあ、ゆっくりしていってね!」

敬語も忘れ、慌ただしく部屋を飛び出していったハイジを見送って、グレーヴィチは口髭に太い指で触れた。満足げに腹を揺らしながら、快活に笑っている。

「いやあ、彼があのアーデルハイド君か。思っていたよりも、なんというか──随分と健康的だ。安心したよ」
「あなたは知っているのですね。彼の素性を」

ベルティーユの質問に、グレーヴィチは道化師のように片眉を上げてみせた。

「多少なり業界の闇に足を突っ込んでいる研究者なら、当然だろう。彼の誕生は学界に激震をもたらした。生命の根源を探求する者たちにとってのハイエンドが、彼という生き物だ。彼は我々の宝である。他に類を見ない、唯一無二の、最も神に近い完璧な存在だ」

グレーヴィチの物言いには陶然とした響きがあった。うっとりと目を細め、しきりに首を縦に振っている。

「随分と彼に関心がおありのようだ」
「勿論さ。彼に関心を示さない学者がいるとしたら、そいつはモノの価値を知らん俗物だよ。君もそう思わないか?」
「ええ。それには同意します。だからこそ私は、協会が持て余していた彼を助手として起用したんですもの」
「賢明な判断だ。やはりあなたは天才ですよ──教授」



「……なるほど。事情はわかった」
「わかってくれた? あー、よかった。ほら、ジェノス氏の番だよ」
「だからといって俺とお前がカード遊びをしなければいけない理由にはならないと思うんだが、それは俺が間違っているんだろうか」

憮然として言うジェノスに構わず、ハイジはひたすら楽しそうである。普段あまり使われることのない休憩スペースを占領して、二人はババ抜きに興じているのだった。テーブルの上にはトランプの山と、自動販売機で買った缶コーヒーがふたつ。

「しょうがないじゃん。追い出されて仕事なくなっちゃったんだから」
「ひとりで神経衰弱でもしていればいいじゃないか」
「あんなのなにが楽しいんだよ。裏向きのカード引っ繰り返して揃えるだけだろ? 三分で終わっちゃうよ。死ぬほど退屈だよ」
「俺は暇じゃないんだ」
「嘘つくなよ。教授の診察記録もう解読し終わったんだろ?」
「それでもまだやることは山のようにある」
「具体的には?」
「…………………………」

ジェノスは押し黙って、ハイジの手札から一枚を抜き取った。揃ったペアを山に捨てて、おざなりに自分の持つカードをハイジに差し出す。

「うんうん、男は素直なのが一番だよ」
「……あまり俗っぽい言葉を使うのは趣味じゃないが」
「うん?」
「お前なんか超ムカつく」
「うわっ、今の発言めちゃくちゃ貴重だね」
「黙れ。さっさと引け。ジョーカーを引け」
「やーだね、っと、……へへ、ラッキー。あーがりっ」

最後の手札をぱっと放り投げて、ハイジはガッツポーズで喜びを表現している。手元に残ったジョーカーを眺めて、ジェノスは眉間に深く険しい皺を刻む。

「そんな顔してたら怖いよ」
「うるさい」
「ヒズミが泣いちゃうかもよ?」
「俺のヒズミの名前を軽々しく呼ぶな」
「……君みたいのがストーカーになるんだろうね」

頬を引き攣らせながら言うハイジを黙殺して、ジェノスは散らばったトランプを金属の指先で掻き集める。てっきり片付けモードに入ったものだと思い込んでいたハイジに、ジェノスが放ったのは予想外の言葉だった。

「もう一回だ」
「え? まだやる?」
「勝ち逃げさせるのが気に食わない」
「子供だなー、ジェノス氏」
「喧しい。暇なんだろ、黙って付き合え」

とても他人にものを頼む態度ではなかったが、ハイジに異論はないようだったが──親の仇のように猛然とトランプの束をシャッフルしているジェノスから、なぜか彼は目を逸らした。両手で顔を覆って、明後日の方を向いてしまう。

「? なにをしているんだ、お前」
「気にしないで。混ぜ終わったら言って」

謎の行動に眉を寄せながら、しかし理由を聞いたりはせず、ジェノスは器用にカードを切っていく。どこまでも緩い、なんともだらけきった緊張感のない空気のまま──激闘の二回戦の幕が開けたのだった。