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彼の背中が遠ざかる。ただの一度も振り返らない。未練も愛着も感じられない、はっきりと決別を突きつけるような迷いのない足取りで、ここではないどこかへ旅立っていく。

そうして彼が離れゆくのに比例して、全身が冷えて凍えそうになる。彼が去っていくのが死んでしまいそうなほど寂しいと思うのに、彼が去っていくのが死んでしまいそうなほど寂しいと思うことは罪であるような気がした。許してもらえないような気がした。だから黙っていた。

彼に置いていかれたら、また昔のように独りぼっちになってしまうけれど、悪いのはすべて自分の薄弱さだった。責められるべきは自分の脆弱さだった。守りたいものなんてないくせに誰の優しさも信じきれないで、なにひとつとして上手に受け入れられないで、それでも彼が身を削ってまで注いでくれた無償の愛さえ指の隙間から零してしまいながら、歪に凝り固まった臆病な心で生きてきた、その因果応報で、自業自得なのだった。

「……………………」

ただ彼の名を呼ぶことさえ、罪であるような気がした。
許してもらえないような気がした。
だから黙っていた。
やがて彼が見えなくなって、唯一の道標を失って一歩も動けなくなって、もうこの広い世界のどこへも行けなくなって、後悔と心細さに血が滲むほど唇を噛みながら、黙っていた。

黙って──泣いていた。



おそるおそる薄らと目を開けて、ヒズミはそこが照明を落とされた室内であることを知った。閉められたカーテンの隙間から瞬く星が覗いている。汗ばんだ指先の震えを止めようと、シーツカバーを握る手に力を込めた。清潔感のある白に保たれた布にくしゃくしゃと寄った皺が、不機嫌そうにヒズミを睨んだ。

なんとなくいたたまれなくて、ヒズミはのそのそと上体を起こした。Tシャツの襟がずれて肩が剥き出しになっていたのを直しつつ、胡乱げな頭で状況を整理しようと試みる。いつ眠ったんだったか。今は何時なんだろうか。暗くてよくわからないが、どうにも飾り気に乏しく、生活感のない空間だ。明らかに自分の部屋ではないのだけれど、ここは──どこなんだったか。

(……ああ、そうだ。ヒーロー協会本部だ)

湿った鈍痛を訴える脳味噌に、じわじわと惨事の全貌が蘇ってくる。A市を襲った宇宙海賊の絨毯爆撃を受けて負傷して、ここに搬送されてきたのだった──肉体と精神に深いダメージを食らったのだった。

前後不覚に陥るほど錯乱していたのは、ほんの少し程度なら覚えている。断片くらいしか思い出せないが、狂ってしまいそうなくらいに怖くて、怖くて、怖かったことだけは骨の髄まで焼きついていた。無慈悲に破壊された街並みと、なにが起きたのかも知らぬまま息絶えた人々──彼らの悲哀と怨嗟に満ちた憎しみの声がどこからともなく聞こえてくるような錯覚に囚われる。

折り重なって、反響して、押し潰してくる。
積み重なって、残響して、絞め上げてくる。

どうして。
どうして。
どうして。
──お前だけが。
お前だけが生きている!

短く息を漏らして、早鐘を打つ心臓を落ち着けようと、ヒズミは左胸を押さえて蹲る。大丈夫だ。もう大丈夫だ。とっくに脅威は消えた。斃された。敵はいなくなったのだ。もう大丈夫だ──と、彼もそう言ってくれた。

彼が。
言ってくれた。
力強く抱きしめてくれた──はずだ。

(……あれ、でも、ジェノスくんは──もう)

さっき確かに背中を向けて、自分のもとを離れていったのではなかったか?
いつまで経ってもめそめそと泣いてばかりで、ちっとも前に進めない悲劇のヒロイン気取りに愛想を尽かして、白けた顔で去っていったのではなかったか?

だから、こうして──黙って泣いていたのではなかったか。

喉の奥が炎で炙られているかのように熱い。ともすれば血反吐を撒き散らしそうな痛みに苛まれる。ちりちりと焦がされて、底の見えない闇に搦め取られて意識を蝕まれていく──恐怖が。
ゆっくりと。
その手を。
伸ばしてきて。

もう逃がさないとでもいうように──掴んだ。

「ひっ──」

這い上がる悪寒に息を呑んで、次の瞬間、白い光に視界を塗り潰された。突然のホワイトアウトに目が眩んで、思わずきつく瞼を閉じる。それでも離すまいと食い込む指の感触は、およそ生きているとは思えないほどに硬くて──それなのに、一体なぜなのか、どこか安心感をもたらす温かさを感じるような──



「……しろ、しっかりしろ、ヒズミ!」

皓々と点った蛍光灯の下、ジェノスが自分を覗き込んでいた。隠しきれない焦燥がありありと現れた切羽詰まった表情で、手首を握っている。空いた左手でヒズミの前髪を掻き上げて、慈しむように頬を撫でる。

「……あれ? ……なんで?」
「なんでって……お前が心配だから、俺は今日も本部に泊まると言っただろう」
「いや、違くて、そうじゃなくて……」

どこまでが夢で、どこからが現実なのか、ひどく曖昧だった。寝起きの思考回路はひどく混乱していて──混線していて、ヒズミは必死で縺れに縺れた記憶の糸を手繰り寄せる。

「……ジェノスくん、私のこと嫌いになって、どっか遠いとこに行っちゃったんじゃなかったっけ……」

ろくに考えないまま呟いてから──ジェノスの顔色が変わったのを見て、ヒズミは自分がとんでもない失言を吐いてしまったことに思い至った。さあっと血の気が引いて、一気に目が覚めた。

「なにを言ってるんだ、お前は」
「あ、その、……えっと」
「俺を馬鹿にしているのか?」
「違うよ、そんなの、そっ、そうじゃなくて」
「俺はここにいるだろう、ずっと」

ジェノスの金属質な指先が、ヒズミの目尻を辿る。止め処なく溢れる涙を掬って、そっと払った。

「くだらない変な夢で泣くな」
「ごめんなさい」
「だから謝るなと」
「うん、……ごめんなさい」

身を捩って枕を横抱きにしたヒズミの頭を、ジェノスはあやすように軽く叩いた。それだけで不安にざわめいていた心が引き潮のように凪いでいく──代わりに心地よい微睡みの波が訪れて、ヒズミはゆっくりと目を閉じる。

「本当に、ごめんなさい」
「……いいんだ、もう」
「私こんな、バカみたいでさ。鬱陶しいよな」
「それ以上言ったら、本当に怒るぞ」
「うん。……ありがとう」
「このまま、楽しいことでも考えて寝ろ」
「楽しいこと……」

心が躍るような、希望に輝く未来の話。
彼と──ともに歩んでいく、この広い世界の話。

ふわふわと安らかな眠りに誘う穏やかな水面に流されるヒズミの口から、

「夜景のキレイなとこで……ふたりっきりになって……ちゅーしてみたいな……」

むにゃむにゃと飛び出した爆弾発言に、ジェノスはパイプ椅子から転げ落ちそうになった。

「…………………………」

詳しく説明しろとばかりに前のめりになったジェノスだったが、ヒズミは既にすやすやと寝息を立てている。さっきの台詞も、声に出した自覚があったかどうかすら怪しい。

無意識だったというなら──どうにも質が悪い。
まったく、とんだ小悪魔もいたものだ。
ちゅーしてみたい──だなんて。

ああも軽々しく。
いけしゃあしゃあと。

本当に──ひとの気も知らないで。

「……俺だって」

そうひとりごちたジェノスの声音は、心底から悔しそうであった。憎々しげに歯噛みして、翻弄された仕返しだとでもいうように、半ば自棄になって──無防備に晒された寝姿に覆い被さって。

起こしてしまわない程度に、唇を押しつけた。
──額の真ん中へ。

「…………………………」

せめてもの──最低限の自制だった。
しかし、まあ、いずれは。
ゆくゆくは。
彼女のご希望に添えるべく──人目のない、夜景のキレイな場所を探してやろう。

完膚なきまでに眠気が飛んでしまったが、ついさっきまで自分もスリープモードに入っていた。充分に脳は休められたので、さして問題はない。このまま夜が明けるまで、ヒズミの安眠を見守っていよう。ジェノスはよいしょと立ち上がり、電気を落とした。

このときジェノスは、まだ知らない。
人は誰しも平等に“悪夢”を視るということを。

夢にさえ──思わないでいる。








(真夜中チクタク 目覚まし時計)
(君は突然 泣き出した)
僕が遠くへ行くという 悲しい夢を見たという

(ほらほら僕は ここにいるよ)
(大丈夫だよ こっちへおいで)
(決してどこへも 行かないよ)

(こんなにかわいい 君だもの)



おでこにキッス - 福山雅治



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