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そこは地下深くに造られたシェルターだった。強力な怪人から無力な人々を保護するために建設された避難所のひとつである。数千人が収容できるほどの面積を誇る遮蔽物のない円形の空間を、ドーム状の屋根が覆っている。オレンジの照明が皓々と彩る強化コンクリートの床に、ひとつだけ、ぽつんと影が落ちていた。

「……………………」

膝を抱え、背中を丸めて震えるシエテ以外には、誰もいない。ただひたすらに広い、閉鎖された密室のなかで、彼女は瞬きを忘れてしまったかのように目を見開いて息を殺している。噛みしめすぎて破れた唇からは血が滲んでいるが、もはや痛みなど感じていなかった。

今のシエテを支配しているのは、ただ恐怖のみだった。

「……………………」

思い出したくもないのに、脳裏にあの光景が勝手に蘇ってくる。忌まわしい情景が自動的にフラッシュバックする。天を突く高さのオフィス・ビルが簡単に薙ぎ倒され、信号も電柱も街路樹も道路標識もまとめて爪楊枝のように圧し折られ、どこかの民家だか飲食店だかから引火した炎に包まれて街が死んでいく──彼に殺されていく、あの地獄のような──。

「……ああ……」

シエテの喉から嘆息とも嗚咽ともつかない声が漏れた。

自分をここまで逃がしてくれた警察とヒーローの人々は、一体どうなってしまったのだろう。深刻な怪我を負いながらもシエテを庇って「ここにいれば安全だ」と言ってくれた、あのスーツ姿の男の人からは、それ以降まったく連絡がない。誰からも音沙汰がない。外界との通信用に壁の上部に設置されたスピーカーは、不気味なほどに沈黙している。

うまく逃げてくれただろうか。それとも彼の凶行を止めようと、今も戦って、いるのだろうか──勝てるはずもないのに。

「もうやだ、なんで、なんでこんな……」

腹の底から嘔吐感が迫り上がる。呼吸が苦しい。心臓が狂ってしまいそうなくらいに喧しく、耳鳴りのように鼓膜を刺激して、ひどく不快だった。

ノイズ混じりに、彼の姿が眼球の裏にちらつく。
踊るように自分を追いかけてくる、あの、いつもと変わらない彼の笑顔が、



──ぴん、ぽん、ぱん、ぽん、



間の抜けた電子音に思考が遮られた。天井近くのスピーカーから発せられたそれに、シエテは反射的に頭を上げた。祈る思いで、食い入るように見つめる。危機は去ったと、彼は諦めて帰っていったと、その報告だけを待った。

しかし──シエテの儚い期待は、いとも容易く裏切られる。

「あー、あー、本日は晴天なり」
「────…………ッ、」

響き渡ったのは、他の誰でもない、彼の声だった。
あっけらかんとした、緊迫感に欠ける、マイペースな口振り──聞き間違えるはずもない。
今日までずっと、誰より近くで、誰より多く、それを耳にしてきたのだから。

「おーい、なあ、シエテー? 聞こえてるんだろ?」

もはや悲鳴も出なかった。
奥歯の根が合わずにかちかち鳴って、全身から汗が噴き出した。

「最後にお前のこと連れてったヤツに聞いたら、ここにいるって白状しやがったからさ。待たせたな。怪我してねーか?」

怪我してないか──とはまた、随分な話だ。
あれだけ暴れておいて。
ただ自分の欲求のためだけに──
非のない人々を、己の破壊行為に巻き込んでおいて。

愛するシエテのことしか眼中にないとでも。
そう、言うのか。
あの男は──ヒーローのくせに。

正義の味方だったくせに。

「もう大丈夫だからな、俺たちの邪魔してたヤツは、みんな黙らせたから」
「………………………………」
「動いてるヤツは、多分もう誰もいねーから」

──ああ。
逃げてくれなかったのか。
比喩でなく、シエテの目の前は真っ暗になった。

「ていうかお前、なんで逃げるんだよ。いや俺も言い過ぎたかも知れないけどさ、でもお前だって悪かったとこあっただろ? そうじゃなきゃ俺だってあんな怒んねーし。えーっと……、あれ? そういや、俺たちなんで喧嘩してたんだっけ?」
「……………………」
「お前のこと追っかけてるうちに、忘れちまったな……まあいいや。とりあえず仲直りしようぜ。俺もガキみてーにワガママ言ってさ、悪かったよ」
「……………………」
「……あー、これ放送だから一方通行なんだよなあ……しゃーねえ、今からそっち行くから」

こっちに来る。
──彼が。

ここは頑強に閉ざされた地下の要塞である。
逃げ場など、もうどこにもない。

彼が──こっちに来る。

我を失い暴力の限りを尽くし殺戮の果てに愛の修復などを本気で宣う、恐ろしい、彼が。

「仲直りしてよ、メシ食いに行こうぜ。近くの建物は全部ブッ壊しちまったけど、隣町まで行きゃあ営業してる店もあんだろ。ちょっと歩くかも知れねーけど」
「……もう、やだ……」
「あっちにエレベーターあるの見つけたんだけど、あれ地下のシェルターに繋がってるヤツだろ? お前そこにいるんだろ? この建物も結構やっちまったけど、ちゃんと動くのかな」
「……やめて……もうやめてよぉ……!」
「そんじゃ、後でなー」

ぶつん、と。
無慈悲にマイクの電源の切れる音がした。

「……………………」

正常な機能を放棄しつつある頭で、シエテは地上のことを考える。動いてるヤツは多分もう誰もいない、と彼は言っていた。嘘ではないのだろう──冗談では、ないのだろう。

残虐に殺された都市が。
惨憺たる、その死骸が。
きっと彼女を恨むでもなく罵るでもなく責めるでもなく──ただ無言で、そこに広がっている。

その結末を、目の当たりにして。
果たしてそれでも、正気でいられるだろうか。

いっそのこと狂ってしまえたら。

楽になれるのだろうか?
解放されるのだろうか?

彼のように、心ある人であることを、やめてしまえたら──

「……………………」

十数メートルほど向こうに見える、エレベーターの扉。次にそれが開いたとき、自分は一体どんな表情をしているのだろう。泣いているだろうか。怒っているだろうか。怯えているだろうか。それとも──

そのささやかなシエテの自問自答の解を知るのは、ただ唯一、その視線の先に立っていたサイタマだけだった。彼は数時間振りに会った恋人の姿を視界に収めて、晴れやかに、どことなく照れてはにかんだ様子で、頬を綻ばせていた。

だから。
きっと。

シエテも、同じように、笑っていたのだろう。
どうしようもなく壊れていたのだろう。

災害レベル“神”の烙印を押され、世界中を敵に回しながら、それでもなお、誰にも止められなかった──彼の手によって。

どうしようもなく──壊されていたのだろう。








(インターフォン越し求愛です 合否 即決可)
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